2025年度後期NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の
ヒロイン「松野トキ」のモデル小泉セツさんの夫は、日本の怪談話などを著した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さん。
日本で妻・小泉セツさんと出会う前の「17歳から37歳までのラフカディオ・ハーン」が、文才によって道を切り拓く過程をご紹介いたします。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)困窮と渡米
大叔母サラ・ブレナンが破産して困窮を極めた10代後半のラフカディオは、移民として渡米する決意を固めます。
ロンドンでの路上生活
退学となった時、ラフカディオ・ハーンは17歳でした。
その後、親戚のいるパリに行ったり、かつての使用人を頼りイギリス・ロンドンのテムズ川の岸辺やスラム街をさまよったり。
そんな時、大叔母ブレナン夫人の破産の原因となったモリヌーが、アメリカのオハイオ州の自分の妹を頼るよう旅費を送ってきました。
渡米
1869年
19歳のラフカディオは、移民船に乗り、単身アメリカへと渡ります。
ブレナン夫人に会いに行くことなく移民となったラフカディオは、渡米を機に、父のルーツであるアイルランド由来のファーストネーム「パトリック」を捨て、ラフカディオ・ハーンと名乗り始めます。
聖パトリック大聖堂(アイルランド、ダブリン)
アイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックにゆかりのある教会で、創立は1191年。
ラフカディオハーンのファーストネーム「パトリック」は、この聖人にちなんで付けられたものでした。
オハイオ州シンシナティにあるモリヌーの妹の夫のトマス・カリナンの家を訪ねたものの、しばらくすると厄介払いをされてしまいました。
極貧のラフカディオは、日雇い仕事などをして懸命に働きますが、雇われることに向いていません。
様々な仕事を経験し、解雇され、下宿を追い出されてしまいます。
困窮するなか、印刷屋を営むヘンリー・ワトキンと出会います。
ワトキンは困窮するラフカディオの才能を評価し、住み込みの仕事を与えました。
以来、ラフカディオは、26歳年上のワトキンを実の父親のように慕うようになりました。
ブレナン夫人の死
1871年
ブレナン夫人が亡くなったという報せがモリヌーから届きます。
夫人からの遺産が贈られるはずでしたが、手紙にはそのことに触れていませんでした。
人間不信に陥ったラフカディオ。
アイルランドの親戚とは、一切の連絡を絶つことを決意します。
ラフカディオは、いったん信用するとどこまでも信じぬき、騙されたと分かると激怒する気質でした。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記者
ようやく才能をみとめられ始めた24歳〜27歳。
ラフカディオ・ハーンは記者として活躍します。
人気記者に
1874年
24歳のラフカディオは、雑誌への寄稿をきっかけに「シンシナティ・エンクワイアラー社」の校正係の職を得ることができました。
文才を認められ正社員記者となったラフカディオは、自身の書いた皮革製造所の事件記事が人気を博し、一躍人気記者になっていきます。
異人種との結婚
このころ、ラフカディオはアリシア・マティ・フォリーという女性と結婚します。
彼女は、ラフカディオの下宿先の料理人で、黒人奴隷と白人農場主との間に生まれた混血の女性でした。
当時のオハイオ州では、異人種間の結婚は法律で禁じられていました。
周囲の反対を押し切って結婚を強行したものの、結婚生活はうまくいかず、早々に破綻していきます。
さらに、違法であるアリシアとの結婚を理由に、エンクワイアラー社を解雇されてしまったのです。
1876年(26歳)
エンクワイアラー社を解雇されたラフカディオは、ライバル社であるコマーシャル社に入社。
句読点を直すだけで癇癪を起こすなど難点はありましたが、膨大なインプット量と記憶力に裏打ちされた圧倒的な面白さが、ラフカディオの文章にはありました。
(この頃、フランスの怪談を翻訳しています。)
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)ニューオーリンズ
27歳〜37歳のラフカディオ・ハーンは、アメリカ南部ニューオーリンズで約10年間を過ごし、文化の多様性を許容するオープンな心を育みます。
ニューオーリンズへ
アリシアとは別居状態となり、1877年に破局。
寒さが苦手なラフカディオは、南へ行きたくなりました。
コマーシャル社を退職し、心機一転、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオーリンズを目指します。
旅への衝動で金銭的に苦しくなりますが、ラフカディオを助けてくれる人との出会いもあり、ここからラフカディオの人生は拓けてきます。
ニューオーリンズでは、デイリー・シティ・アイテム紙で記者として働き始めます。
社説、随筆、翻訳などを任され、人気記者となったラフカディオは、より自由に記事を書くことを許されました。
クレオール文化
ラフカディオが興味を持ったのは、
「アメリカ原住民の文化」「白人文化」「黒人奴隷の文化」が混在する「クレオール」と呼ばれる文化でした。
北欧と南欧にルーツを持つラフカディアは、クレオール文化を取材し、文化の多様性を許容するオープンな心を育みました。
絵の才能もあったラフカディオは挿絵や風刺漫画も描き、経営不振だったアイテム紙の経営に貢献します。
1881年
31歳で南部の大新聞「タイムズデモクラット」紙の文芸部長に抜擢されたラフカディオ。
神話、民話を自分の言葉で再話した物語を発表したり、クレオール文化についての本を出版したり。
ニューオーリンズの文化人として、作家として注目を集めました。
エリザベス・ビスランド
この頃、大きな出会いがありました。
後に日本行きを勧めてくれたエリザベス・ビスランドとの出会いです。
彼女はラフカディオの『死者の愛』という文章を読み、タイムズデモクラット社に入社し、記者となり、文筆家として成功を収めていきます。
万博と日本文化
また、34歳のラフカディオは日本文化とも出会います。
1884年
ニューオーリンズで開催された万博に、東洋の国で唯一参加した日本。
その展示に共感を覚え、毎日のように取材に訪れたラフカディオは、文部省事務官の服部一三に細かい質問をして驚かせたと言う話が残っています。
やっぱり海が好き
メキシコ湾のフロリダ州グランド島にも滞在します。
約20年ぶりに海での泳ぎを堪能し、島が気に入ったラフカディオはその後も数回訪れています。
グランド島の住民はかつてのプランテーション奴隷の子孫でニューオーリンズとはまた異なるクレオール文化が息づいていました。
ラフカディオはこのグランド島滞在の経験をもとにハリケーンから奇跡的に生還した少女を主人公とする小説『チータ』を2年かけて書いています。
37歳の時、この作品はハーパーズマガジンに採用され、いよいよ作家として歩き出しました。