2025年度後期NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の
ヒロイン「松野トキ」のモデル小泉セツさんの夫は、日本の怪談話などを著した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さん。
こちらでは、日本で妻・小泉セツさんと出会う前の「37歳から40歳までのラフカディオ・ハーン」が、いかにして日本で定住することになったのかをご紹介いたします。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)作家活動
37歳でさらに南へ向かうラフカディオ・ハーン。
「小パリ」と言われる熱帯サン・ピエールで2年を過ごします。
マルティニーク島へ
1887年
37歳で「タイムズデモクラット」を退社すると、
7月カリブ海の西インド諸島マルティニーク島に向かいます。
マルティニーク島は、もともと先住民が暮らしていましたが、コロンブスの西インド諸島を発見をきっかけに、スペイン、フランス、イギリス、オランダとが続々とやってきて島の領有を巡り戦ったという歴史があります。
疫病や虐殺によって先住民はほぼ根絶。
連れてこられた黒人奴隷によってプランテーションが行われ、独自のクレオール文化が形成されていました。
この3ヶ月ほどの滞在の経験をもとに紀行文『真夏の熱帯行』を書き上げます。
その原稿料700ドルのうち16ドルという大金を支払ってカメラを購入すると、10月に再びマルティニーク島へ。
「小パリ」と呼ばれる貿易港サン・ピエール周辺に滞在すると、
その文化・風俗がラフカディオを魅了します。
ただ、暑すぎて創作や思索には向かない土地だと気付いたラフカディオはニューヨークに戻り、執筆活動に励みました。
3人の子供を1人で育て天然痘で亡くなった女性・イゾールとの出会いを短編『天然痘』。
約2年に及ぶマルティニーク島滞在によって、『フランス領西インド諸島の二年間』と小説『ユーマ』という作品を生み出しました。
弟・ジェームズとの文通
この頃、
著名になっていたラフカディオに、弟・ジェームズから手紙が届きました。
疑り深いラフカディオは最初疑っていましたが、確証を得た後、文通を始めています。
ジェームズは、親戚が経営する全寮制の学校で16歳まで暮らし、ラフカディオと同様にアメリカに渡り、偶然にも兄と同じオハイオ州で農業を営んでいました。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)日本へ
日本への関心
ラフカディオ・ハーンは、旅への衝動から逃れられません。
マルティニークの滞在を終え、ニューヨークで執筆活動にいそしむものの、大都会に疲れたラフカディオは、新しい文化に触れたくなります。
次に訪れたいと考えたのは日本でした。
B.H.チェンバレンによる『古事記』の英訳を読み、故郷ギリシャのような多神教の世界、特に「出雲」に強い関心を持つようになったのです。
ただ、旅にはお金がかかります。
作家となったラフカディオの収入は不安定。
日本行きは現実的ではないように思われましたが、
そんな時、ハーパー社に提出した日本の新文明を取材紹介する企画が採用され、日本への取材旅行に行けることになりました。
明治維新を機に近代化に向けて進む当時の日本が、世界から注目を集めていたからです。
カナダ太平洋鉄道会社がスポンサーとなり、スムーズに話は進みます。
挿絵画家ウェルドンとともに、ハーパー社の特派記者として日本へ向かったラフカディオ・ハーン。
日本へ
1890年4月4日
ラフカディオ・ハーンは横浜に到着。
鎌倉、江の島、藤沢に滞在したラフカディオは、富士山や下駄、暖簾や人力車、見るもの全てに魅了されます。
真言宗の学僧・真鍋晃が通訳兼案内人を買って出てくれました。
契約解除、出雲へ
ラフカディオは最初の原稿「日本への冬の旅」をハーパー社に送りました。
ですが、同行した画家ウェルドンの方が報酬が多いということを知ると、不信感を持ち、ハーパー社に怒りの手紙を送り、印税まで返してしまいました。
一度騙されたと感じると、深く傷つき人間不信に陥るラフカディオは、一方的に契約を解除してしまいます。
そんなラフカディオに手を差し伸べる人がいました。
帝国大学で教鞭をとっていたチェンバレンとニューオーリンズ万博で知り合った服部一三でした。
彼らは、島根県松江の尋常中学校と師範学校の英語教師という就職口を紹介してくれました。
いよいよ、チェンバレンの『古事記』を読み憧れていた神々の首都・出雲への赴任です。