2024年NHK大河ドラマでは紫式部・藤原道長が主人公の
『光る君へ』
が放送されています。
その中で藤原道長の甥であり政治的ライバルという立場の藤原伊周は、次々と起きる事件に絡んでは降格され、亡くなる前年の事件でも朝廷への出入りを禁じられます。
こちらでは藤原伊周の人生と後世に残るエピソード、人となりなどをご紹介します。
藤原伊周プロフィール
【生誕 】974年(天延2年)
【死没】 1010年(寛弘7年)1月28日(2月14日)
【父母】父:藤原道隆、母:高階貴子
【兄弟】 道頼、頼親、定子、隆家、原子、隆円、頼子、御匣殿、周家、周頼、藤原妍子女房、好親、平重義室
【妻】 源重光の娘、源致明の娘
【子 】道雅、藤原頼宗正室、周子、顕長
藤原伊周の人生①野望
藤原道長の甥であり、政敵といわれた藤原伊周の生涯を時系列でご紹介いたします。
波乱の37年間の幕開けです。
飛ぶ鳥を落とす勢い|伊周10代後半
藤原伊周は平安時代中期に「藤原北家中関白家」大納言・兼家の嫡男であった兵衛佐・道隆と、内裏の内侍であった貴子の間に生まれます。
「大千代君」の幼名を持つ異母兄・道頼がいたため、「小千代君」と名づけられました。
母方の祖父の教育で高い教養を身につけ、中でも文才に長けていた伊周は、花山天皇の御代で昇進を続けます。
【16歳】
990年(正暦元年)5月
祖父・兼家の跡を継いで父・道隆が摂政に就任、
同年10月に中宮に同母妹・定子が立つと、勢いが増していきます。
【17歳】
991年(正暦2年)正月
蔵人頭になり4ヶ月で参議に任ぜられて公卿に列し、
同年7月に従三位、9月には権中納言に昇進します。
【18歳】
992年(正暦3年)
舅・源重光に譲られて正三位・権大納言まで進み、異母兄・道頼を追い抜きます。
【20歳】
994年(正暦5年)7月
左大臣・源雅信が亡くなると、
同年8月
伊周は8歳年上の叔父・道長ら3人の先任者を飛び越えて弱冠21歳で内大臣に昇進。
このことが、一条天皇の生母・東三条院詮子(道隆の妹)を始めとした周囲の不満を募らせます
父の死と道長との政争|伊周21歳
【21歳】
995年(長徳元年)2月
関白であった父・道隆は、糖尿病が悪化して重態に陥ると後任に伊周を強く推し、文書内覧の宣旨を蒙らしめることに成功
4月5日
最大の後ろ盾である父・道隆が死去します。
4月27日
17日間にわたる関白の不在を経て、道隆の同母弟・道兼が関白に就任するも、わずか7日後に死没。
後継の関白を巡る政争が伊周と道長の間に繰り広げられました。
5月11日
道隆・道兼の同母弟・道長に文書内覧の宣旨が下り、
6月19日
道長が伊周を越えて右大臣に昇任し、天下執行の宣旨を獲得しました。
7月24日
伊周と道長は陣座で激しく口論、罵声が外まで聞こえて一座は恐れをなしたといいます。
7月27日
伊周の同母弟・隆家の従者が道長の従者と都の大路で乱闘。
8月2日
道長のお供である秦久忠が隆家方に殺害される事態に発展します。
藤原伊周の人生②長徳の変
父親を亡くした翌年、22歳の頃に事件を起こします。
長徳の変|伊周20代前半
【22歳】
996年(長徳2年)に発生した長徳の変は、
1月16日、故藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女が目当てと誤解した伊周が隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するといわれています。
この、よくある貴族同士のいざこざは、相手が法皇だったため政治問題に発展します。
道長は噂が世間に広まるのを待ちました。
一条天皇は逃げた伊周の捜索を藤原実資に命じます。
すると伊周が私兵を抱えていたことまで明るみにでます。
「花山法皇を射た不敬」、「東三条院詮子呪詛」、「大元帥法を私に行う」という三ヶ条の罪状により、降格処分。大宰府へ飛ばされます。
その頃、懐妊中の中宮・定子は里である第二条北宮に退出していました。
伊周は重病と称して太宰府への出立を拒み、数日間膠着状態が続いたものの検非違使率いる武士が戸を壊し屋敷に乱入しました。この時に捕えられたのは弟・隆家だけで邸内に伊周の姿はありません。
伊周は3日後に僧の姿となり帰ってくると、春日の父の墓に参拝していたと言いますが、当時、3日で往復できる距離ではありません。
10月初め
伊周は病む母を思い密かに入京し中宮・定子の御所に匿われたところを、密告されます。
10月11日
捕えられ、改めて大宰府へ護送され、同年暮れに到着。
藤原実資は伊周の「これまでの行いの報いである」と評しています。
藤原伊周の人生③定子の出産と死
長徳の変により一度は降格された藤原伊周ですが、妹・定子が一条天皇に寵愛され、第一皇子を出産すると状況は変わります。
定子の出産
12月
定子は失意とと悲嘆の中で、一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産します。
【23歳】
997年(長徳3年)4月5日
内親王誕生による大赦で伊周の罪は許されます。
【25歳】
999年(長保元年)11月7日
定子は第一皇子である敦康親王を出産。
伊周はこれで中関白家を再び復興できると考えますが、
同じ日に道長の娘・藤原彰子が入内します。
妹・定子の死|伊周アラサー
【26歳】
1000年(長保2年)
12月第二皇女媄子内親王を出産したものの、翌日未明に死去。
伊周は座産の姿勢のまま息を引き取った妹の亡骸を抱き、声も惜しまず慟哭したといいます。
皇后葬送の日、大雪の中を歩き従った伊周は
「誰もみな消えのこるべき身ならねど ゆき隠れぬる君ぞ悲しき『続古今和歌集』」
と詠みました。
【27歳】
1001年(長保3年)12月16日
重病に悩まされる東三条院詮子は、一条天皇に伊周を本位(正三位)に復すよう促します。
【33歳】
1007年(寛弘4年)8月2日
平安京を出発し大和国の金峰山へ参詣中の道長に対して、伊周が暗殺を実行しようとしているとの噂がにわかに浮上しますが、
8月14日に道長は無事帰京。
藤原伊周の人生④百日の儀
第一皇子を出産した定子が亡くなり、道長の娘・彰子が第二皇子を出産。
するとそれまで伊周をちやほやしていた周囲の人達は…。
彰子の出産
【34歳】
1008年(寛弘5年)9月11日
中宮・彰子が一条天皇の第二皇子敦成親王(のちの後一条天皇)を出産。
甥の即位を強く望む伊周にとって致命的な打撃となりました。
それまで世間の人たちは、昼は道長に仕え、夜は密かに親王の伯父である伊周の屋敷へ参上し続けていました。
ところが、道長の娘である彰子が敦成親王を産むと、それもばったりと途絶えます。
12月20日
落胆した藤原伊周は、敦成親王の「百日の儀」に列席し、請われもしないのにあえて和歌序を執筆し始め、一同を驚かせました。
素晴らしい出来ではありましたが、時の人々は伊周の挙動を非難したといわれています。
12月20日、中宮・彰子の御在所で行われた敦成親王の「百日の儀」。
その時、伊周は藤原行成から筆を取り上げ、自作の歌の序題を書き始めました。
『本朝文粋』に収められているこの序の中では敦成親王を「第二皇子」と呼称しています。
さらに
「隆周の昭王・穆王は暦数が多かった。
我が君(一条天皇)もまた暦数が長い。
本朝の延暦(桓武天皇)と延喜(醍醐天皇)は胤子(皇子)が多い。
康なるかな帝道は。誰が歓娯しないものがあろうか」
という「私語」を続けました。
「隆周」は、道隆・伊周親子を思い出させ、「康」は第一皇子である甥・敦康親王を想起させます。
敦成親王の「百日の儀」という場をわきまえないふるまいは、批判の対象となりました。
藤原伊周の人生⑤呪詛事件
伊周の政治生命が完全に絶たれる事件が起こります。
呪詛事件と死|伊周の晩年
【35歳】
1009年(寛弘6年)正月7日
正二位に叙されるのですが、
2月20日には中宮と新生の皇子に対する呪詛事件が起き、伊周の叔母・高階光子が入獄し、伊周は直ちに朝参を止められます。
「呪詛事件」とは
道長とその娘・彰子、孫・敦成親王が呪詛された事件。
『政事要略』に収められた取り調べの記録によると、「玉」である天皇まで失うと元も子もなくなるので 一条天皇は呪詛の対象に含まれていませんでした。
元来小心者だった道長は、出仕をはばかるというようなことを言い出しましたが、気を取り直して政務に復帰。
取り調べにより呪詛は、定子の乳母も務めていた高階光子が、円能という僧に依頼したことが分かりました。
光子が伊周の母方の叔母だったこと、伊周の義兄弟・源方理も関与していることが判明すると、伊周は朝参を禁止されました。
6月13日
朝参を許可されるも実質的な政治生命は絶たれてしまっています。
【36歳】
1010年(寛弘7年)正月28日
数え年37歳でこの世を去りました。
臨終に際し、2人の娘へは
「くれぐれも、宮仕えをして、親の名に恥をかかせることをしてはならぬ」
と、また息子道雅に
「人に追従して生きるよりは出家せよ」
と遺言したといわれています。
その後、道雅は乱闘事件や賭博などの問題行動が多く、「荒三位」「悪三位」と呼ばれました。
伊周の人物像
心が幼い人物であったとの評価がある一方、その容姿は端麗だったと『枕草子』『栄花物語』などに書かれています。
才名高かった母・貴子から文人の血を享けた伊周は、属文の卿相として、漢学に関しては一条朝随一の才能を公認され、早くから一条天皇に漢籍を進講していました。