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【史実】紫式部と藤原道長の関係は?恋仲か幼なじみか|大河『光る君へ』

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紫式部はかなり年上の藤原宣孝と結婚しますが、

藤原道長との年齢差はどのくらいだったのでしょうか?

どんな関係だったでしょうか?

こちらのページでは、二人の人生をひとつの年表にまとめ、二人の年齢差や何歳のときに何があったか、ドラマのような幼なじみだったのかについて、史実に基づいて紹介します。

 

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2024年大河『光る君へ』 紫式部と藤原道長の人生年表

史実をもとに、紫式部と藤原道長の人生年表を作ってみました。

紫式部の生まれ年などは諸説あるので最も有力な説を採用しています。

天皇 出来事(■紫式部■道長
966年 村上 藤原兼家の5男として 誕生
兄に道隆・道綱・道兼、姉に詮子など
969年 冷泉 安和の変で左大臣・源孝明が失脚
冷泉天皇が譲位し、円融天皇が即位
973年
※諸説あり
円融 藤原為時の次女として 誕生(道長7歳)
978年 父・兼家、右大臣に就任
姉・詮子が円融天皇に入内
980年 姉・詮子が懐仁親王(後の一条天皇)を出産
984年 花山 円融天皇が譲位し、花山天皇が即位
986年 一条 寬和の変
花山天皇が出家し、一条天皇が即位
父・兼家が摂政に就任
987年 源倫子と結婚(21歳)
988年 6人の参議を飛び越え権中納言に就任
娘・彰子が生まれる
源高明の娘・源明子と結婚(23歳)
990年 兄・道隆の娘・定子が一条天皇に入内
父・兼家が死去
兄・道隆が関白、次いで摂政に就任
姪・定子が中宮となる
991年 姉・詮子が出家し「東三条院」を称する
992年 息子・頼通が生まれる
995年 兄・道隆が死去
兄・道兼も関白に就任した数日後に死去
長徳の変
内覧に就任(29歳)
996年 父・為時と越前に下向
997年 父・為時を越前に残し、単身帰京
998年 藤原宣孝と結婚(25歳)
999年 娘・賢子を出産
娘・彰子が一条天皇に入内(彰子11歳)
1000年 定子が皇后、彰子が中宮となる(一帝二皇后の初例)
1001年 夫・宣孝が死去
『源氏物語』の執筆を始める(28歳)
1006年 女房として彰子に仕える(33歳)
1008年 『紫式部日記』の執筆を始める
1009年 道長・紫式部が和歌を交わし合う
1010年 『源氏物語』のエピローグ「宇治十帖」を執筆
1011年 三条 一条天皇が崩御し、三条天皇が即位
父・為時が越後守に就任
1016年 後一条 三条天皇が譲位し、彰子の子・敦成親王が後一条天皇として即位
摂政に就任
父・為時、三井寺で出家
1018年 ”この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば”
を詠む
1027年 死去(61歳)
1031年
※諸説あり
死去(58歳)

 

史実に基づいたこの年表を見ると、政変の度に力を増す道長。相次ぐ兄の死。
道長にはグレーな印象が残ります。

 

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2024年大河『光る君へ』 紫式部と藤原道長の年の差

では、二人の年の差はどれくらいでしょうか?

紫式部は973年生まれ
藤原道長は966年生まれ

『7歳差』

ということです。

※紫式部が生まれた年については
973年(天延元年)説が有力ですが、
970年(天禄元年)、978年(天元元年)など諸説あり。

ちなみに、

まひろ役:吉高由里子さんは1988年生まれ
道長役:柄本佑さんは1986年生まれ

年齢は2歳差です。

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2024年大河『光る君へ』 紫式部と藤原道長の関係

NHK『英雄たちの選択 スペシャル 紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実』によれば
夫を亡くした紫式部は『源氏物語』をまず
道長の姪・定子をモデルにして光源氏の母・「桐壺更衣」を書いたということです。

「桐壺」の巻から順に書いたという前提ですね。

定子は美しく華やかで帝に寵愛されていました。
しかし道隆が亡くなり、長徳の変により兄たちが没落すると出家します。
それでも一条天皇は定子一筋。
そんな定子ですが、出産直後に亡くなってしまいます。

定子を忘れられない帝。
その気持ちを物語の力で道長の娘・彰子に向かせるため、道長はまだ幼い彰子をモデルとした人物を登場させるよう紫式部に言います。

紫式部が紙や筆を用意したパトロンとも言える道長の言葉に従ったため、彰子をモデルにした「若紫」(一条天皇と彰子の年齢差は8歳、光源氏と若紫の年齢差も8歳)が誕生した、とNHK『英雄たちの選択 紫式部』の中では説明されています。

これが功を奏して、一条天皇はまだ幼い彰子に興味を抱き自分好みの女性に育てたのでしょうか。

『源氏物語』も紫式部自身も道長の政治に利用されていたようですが、紫式部本人が自覚していたかは定かではありません。

 

 

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2024年大河『光る君へ』 紫式部と藤原道長は幼なじみ?

道長の邸宅と紫式部の家が近いことから「幼なじみではないか?」と話題になっています。
実際はどうだったのでしょうか?

道長は源倫子に婿入りしますが、その邸宅が土御門邸(つちみかどてい)。
今では京都御苑の中、仙洞・大宮御所の北側にあります。

一方、まひろ(紫式部)の家のあった廬山寺(ろざんじ)付近は土御門邸の北東すぐ。
とても近いことがおわかりいただけるかと思います。

ただ、道長は婿入り前には東三条殿(中京区)に住んでいたので、幼なじみではなさそうです。
婿入りしてから近所に住んでいたのは間違いありません。

盧山寺(ろざんじ):紫式部の家


出典:廬山寺公式サイト

京都御所の東側、寺町通りにある廬山寺は、元は紫式部の曾祖父の邸宅であり、紫式部が夫・藤原宣孝と結婚生活を送り、源氏物語を執筆した地として知られています。

本殿の入り口には
「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影」
という紫式部の歌碑があります。「源氏庭」という白砂と苔の庭も趣があり、
聖地巡りではぜひ見て回りたい所です。

名称 廬山寺 (ROZAN-JI  TEMPLE)
営業時間 9:00~16:00(月曜定休)
地図
住所 〒602-0881 京都市上京区寺町通り広小路上る北之辺町397
アクセス ■名神高速道路「京都東IC」より約30分
■地下鉄烏丸線「今出川駅」「丸太町」より徒歩5分
■京阪鴨東線「三条駅」「神宮丸太町駅」より徒歩15分
■市バス「烏丸今出川」より徒歩5分
■JR京都駅から約25分
(市バス4・17・205系統)
拝観料 500円
TEL 075-231-0355

廬山寺公式サイト

土御門邸跡(つちみかどていあと):藤原道長の邸宅

出典:一般財団法人国民公園協会ホームページ

右大臣、左大臣の位に就き、3代にわたる天皇のもとに娘を入内させるなど天皇家の外戚として権力を思いのままにふるった藤原道長。

栄華を極めた時に詠んだ

”この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば”

という歌はあまりにも有名です。

この歌が詠まれたのは、寛仁2年(1018年)10月16日。
土御門邸で催された月見の宴でのことでした。

長女彰子は一条天皇の中宮、次女妍子は三条天皇の中宮。そしてこの日は道長の三女威子が後一条天皇の中宮になった日です。
3人の娘を天皇に嫁がせた道長にとって、すべてを手に入れた万感の思いがあったのでしょう。

このあたりは当時いわゆる高級住宅街で、さぞ華やかな宴が開かれていたと思われますが、現在の土御門邸は、現在の京都御苑の界隈に駒札が立っているだけです。

 


kyotogyoen_map_jp

住所:〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑

 

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まとめ

いかがでしょうか?

史実・有力な説から考えると

・紫式部と藤原道長の年の差は7歳
・道長は高価な紙などを支給するパトロン。政治利用されていた可能性も
・幼なじみではなさそう

ということがわかります。

お役に立てましたら幸いです。

お読みいただきありがとうございます!

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