「空飛ぶかにいくら」へようこそ!

小泉一雄|小泉八雲・小泉セツの子ども(長男)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

2025年後期朝ドラ『ばけばけ』は多くの怪談話を著した小泉八雲さんと妻の小泉セツさんを主役モデルにした物語が放映されています。

こちらのページでは朝ドラ『ばけばけ』レフカダ・ヘブンのモデル「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」さんとヒロイン・トキのモデル「小泉セツ」さんの長男「小泉一雄」さんについてご紹介しています。

スポンサーリンク

小泉一雄とは|小泉八雲・小泉セツの長男

小泉八雲さんと小泉セツさんは、4人のお子さんに恵まれました。
小泉一雄さんは長男です。

小泉 一雄(こいずみ かずお)プロフィール

小泉 一雄(こいずみ  かずお)
1893年11月17日〜1965年

小泉八雲・小泉セツの長男
『父小泉八雲』『父「八雲」を憶ふ』の著者。
早稲田大学卒業し、拓殖大学で教鞭をとった後、八雲さんの親友・マクドナルド氏の経営する横浜グランドホテルに勤務。
退職後は、父の遺稿の整理や書簡集の編集などを行いました。

名前の由来

名前は、八雲(ラフカディオ・ハーン)さんの「カディオ」から取られています。
当初「かじお(梶夫)」と名付けたかった小泉八雲さんですが、歌舞伎などの敵役「梶原」や火事などを連想せるとセツさんから反対されます。
⇨セツさんは、イギリスの意味を込め「ひでお(英雄)」を提案。
今度は”hideous(恐ろしい)”に似ていることから八雲さんが反対。
⇨「カディオ」の音を残して「かずお(一雄)」に。
「一匹の雄」という意味です。

スポンサーリンク

小泉一雄|熊本から神戸へ(誕生〜2歳)

熊本で誕生

1893年11月
小泉八雲さん43歳、小泉セツさん25歳。
松江から熊本に移住してちょうど2年が経った頃、栗色の髪と父親似の高い鼻を持つ小泉一雄さんが誕生しました。
小泉八雲さんは、一雄さんを眼に入れても痛くないほど可愛がります。

戸籍

この頃はまだ小泉八雲さんが帰化しておらず、戸籍上は私生児。
一雄さんの将来を案じた両親は、正式に入籍することを決意します。

1896年、一雄さん2歳。
神戸で暮らしている時のこと。
八雲さんが帰化し、小泉家の婿となります。
万が一の時に、セツさんや一雄さんが遺産を相続できるよう、家族全員の国籍を日本にしたのでした。

スポンサーリンク

小泉一雄|東京での暮らし(2歳〜11歳)

同年9月、八雲さんの東京帝国大学講師就任に伴い、家族全員で上京。
1897年、弟・巌さん誕生。

ホームスクーリング(在宅教育)

長男一雄さんには、中学からアメリカで西洋教育を受けさせたいと考えていた八雲さん。
渡米まで、ということで、小学校には通わせず在宅教育を施します。

5歳の頃、午前は父から英語、午後は母たちからひらがな・カタカナを習い、
7歳から、午前の1時間半は英語の詩や神話の読書、午後は英習字と算数、夜に日本語の勉強が当てられ、器械体操も毎日欠かしません。
10歳になると、地理や数学、フランス語、絵画など学科が増え、難易度もアップします。
八雲さんが気管の病気を患い、渡米を断念。
11歳、セツさんの希望もあり、日本の小学校に入学します。

なお、当時東京帝国大学文科大学英文科講師だった八雲さんの時間割がこちらです。
月曜 11時〜12時
火曜   8時〜12時
水曜 13時〜15時
木曜 10時〜15時
金曜 10時〜12時
これは6年間変わることなく、お給料は月額400円(後に450円に昇給)。
仕事前と仕事後に子供たちを教えていました。

父・八雲の教育

一雄さんの著書『父「八雲」を憶ふ』には、在宅教育の様子がとても詳しく書かれています。

読書中、発音を間違えたりおかしな訳をしたりすると「ダメの子ども!」と平手打ちが飛んでくるのですが、頬を打つ父の指が一雄さんの目に触れたことがありました。
その途端、急に優しく心配され、授業は終了。
味をしめた一雄さんは、わざと顔を当てにいき、「眼が…眼が…!」と悲鳴を上げることを思いつきます。
それがバレると、お尻などをぶたれるようになったそうです。

いたずらっ子だった一雄さんは「人格はあくまで高級に持て」と八雲さんに言い聞かせられて育ちます。

とはいえ、叱る時以外はとても優しく、「sweet!」と言っては子供たちにキスをする父の溺愛っぷりに、一雄さんは深い愛情を感じていたのも事実。

厳しさは、八雲さん自身の死後、一雄さんの将来を危惧してのことだったかもしれません。
「速く学ぶ下され、時待つないです。パパの命待つないです」
と一雄さんに話しかけていたそうです。

母・セツの気性

普段は優しい母セツさんについても書かれています。

祖父(セツさんの父)が亡くなった時、外で「死んだ」と表現してはいけないとセツさんに教えられた一雄さん。
冗談で「クタバッタ」と言い、セツさんの逆鱗に触れてしまいます。
突き飛ばされ、押さえつけられ、めちゃくちゃに叩かれます。

著書には「ヒステリー」という表現が散見されますが、父を亡くしたばかりの娘であり、他人の気持ちを慮れる人間に育ってほしいと願う母としての思い。セツさんの気持ちを考えると、胸が痛くなるエピソードです。

また、食べた卵の数を誤魔化した一雄さんと住み込みのおよねさんに対して、セツさんが激怒したエピソードも記されています。

母の金切り声は、「気も狂います。皆が妾を馬鹿にするから!」と答えました。髪は解け乱れ、目尻が狐の面のように吊り上がってしかも充血し、唇の色は土の如くなって拳を固め、地踏鞴じたたらを踏んで狂う母の形相は実に恐ろしいものでした。障子は破れ唐紙は脱れ家鳴震動の騒ぎでした。これより以前にも、またこの後においても私は母のヒステリーの爆発には毎度お目に掛った光栄を有していますが、この時のくらい発作の激しかったことは実に空前絶後です。私は散々に打たれたり、蹴られたり、捕られたり、頭髪や耳を掴んで引き摺られたりしました。「あんなにつねに可愛がって下さるママが……これは確かに気が違っちゃったのだ。私は殺されてもいいからどうかママが気が狂ったのではありませんように……」と打擲されながらも子供心にこう念じました。
(引用『父「八雲」を憶ふ』小泉一雄)

メンタル

一雄さんの中で根を張っていた不満により、両親への描写は客観性に欠ける部分があるかもしれません。
みずからを

癇癪持とヒステリックスの母とを持った私はやはりどうかすると逆上する性質の子でした。(引用『父「八雲」を憶ふ』小泉一雄)

と分析する一雄さんに対し、歴史家の長谷川洋二氏は

教え子たちの思い出には、人格円満な良き教師としての一雄の姿が見られる。しかし次第に不幸な精神状態に陥って行ったことは、『父小泉八雲』(一九五〇)の叙述を覆う気分で、疑うべきもない。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)

と評し、「母親セツについてのハムレット的不満からの記述」と断じています。
とはいえ、傍から見ると母子は仲が良く、セツさんも幸せに暮らしていたようです。

スポンサーリンク

小泉一雄|八雲の死以降(11歳〜30歳)

父の死

勉強は大事だ、やらなくてはいけない、という焦燥感から自身の手の甲を掻きむしったり噛みついたりする自傷行為のあった一雄さん。

1904年9月(11歳)
父・八雲さんが心臓麻痺で亡くなった後、枕元に現れた八雲さんが
「私死にましたため、あなたの手初めて傷ない綺麗な手となりました、ネ」
と消えていく夢を繰り返し見たそうです。

マクドナルドの存在

一方で、一雄さんが慕っていた人物がいます。
それが、八雲さんの親友、ミッチェル・マクドナルド氏でした。

マクドナルド様は私に対して種々注意を与える小父さんでした。一日マクドナルド様は私の歯を視て「この男児は綺麗な子だがただ惜しむらくは歯が穢い、柔いブラシで毎朝磨かせるがよい」と申されました。またある時は私の耳に垢が付着していると注意されたので、これがため、その後毎日父に耳の検査をされるようになりました。それから私の帽子の被り方があまりに阿弥陀であると注意し、帽子はむしろ目深気味に真直に被るものだと合点させたのもマクドナルド様でした。

独身のマクドナルド氏は、一雄さんを膝に乗せ
「半分はラフカディオの子で半分はミッチェルの子だ」
と八雲さんに冗談めかして言ったり、洋書やアメリカのお菓子をを贈ったり、一雄さんをとても可愛がっていました。

また、叱られそうな時に庇ってくれる、頼もしい存在でした。

八雲さんの死後、マクドナルド氏は一雄さんの後見人となります。
また、一家が苦労せず暮らすことができたのも、著作権や印税について、マクドナルド氏がビスランドさんと協力して動いたおかげです。

マクドナルドの後継候補に

一雄さんは、早稲田大学英文科に進学し
1919年3月(25歳)
大学卒業後は、拓殖大学に就職します。
教務課に勤務しながら、東洋協会の機関紙の編集にも携わっています。

1921年3月(27歳)
マクドナルド氏が経営する横浜グランドホテルに入社。
倉庫係長として勤務します。

給料は、月額110円。
うち、50円をセツさんに仕送りしています。

独身のマクドナルド氏は、一雄さんを後継者として考えていたと思われます。一雄さん名義で横浜グランドホテルの株を購入していました。

この頃、八雲さんが一雄さんをアメリカに留学させたがっていたことをよく知っていたビスランドさんが、一雄さんを受け入れると何度も申し出ますが、結局、実現していません。

1923年9月(29歳)
関東大震災が発災。
マクドナルド氏は被災した自身のホテルから一旦は避難したものの、中に1人女性が残っていると知ると、すぐにホテルに戻ります。
そして、瓦礫の下で命を終えてしまいます。

スポンサーリンク

小泉一雄|マクドナルドの死以降(30歳〜71歳)

結婚

1924年8月(30歳)
マクドナルド氏の死から一年。
セツさんの謡曲友達(東京外国語大学教授夫人)の紹介で、喜久恵さんと結婚した一雄さんは、セツさんの住む西大久保の敷地に別棟を建て、同居します。

1925年(31歳)
長男・小泉時(とき)さん誕生。

小泉時
小泉八雲さんの孫、小泉凡さんの父。
電気通信大学卒業
三井船舶⇨GHQ⇨在日米軍司令部報道部に勤務。
「タイム」と呼ばれ、盲目的なセツさんの愛情を受けていた時さん。
時さんの従兄弟ために買っていたおもちゃまで、時さんにあげてしまうほどだったといいます。

この頃、神経を病み静養していた一雄さんは、仕事をしていませんでした。

執筆活動・教職

1928年(34歳)
静養のため埼玉県に別宅を構え、執筆活動が始まります。
実に7冊もの父に関する著書。
『父「八雲」を憶ふ』など評価が高いものもあります。

その後は、八雲高等女学校の講師として7年勤めます。
生徒からは、人格者として評価が高かったそうです。

1940年、他界されました。
71歳でした。

 

【参考文献】
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社
『妖怪に焦がれた男 小泉八雲大解剖』小泉凡監修:宝島社
『父「八雲」を憶ふ』小泉一雄:警醒社
『父小泉八雲』小泉一雄:小山書店

タイトルとURLをコピーしました