織田信長亡き後、豊臣秀吉の前に最初に立ちふさがった強敵が織田家筆頭の重臣・柴田勝家でした。
柴田勝家について、年齢ごとの出来事をご紹介するとともに、エピソードを交えてその人柄に迫ります。
柴田勝家とは
生没:1522年〜1583年6月14日
(戦国時代〜安土桃山時代)
柴田勝家は、織田信長に仕えた武将(大名)です。
「鬼柴田」と呼ばれる猛将で、信長亡き後は豊臣秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いに敗れて自害しました。
武勇に優れていただけでなく、領国経営においても手腕を発揮したとして評価されている人物です。
①織田家の重臣として活躍
織田信長の父・信秀の代から仕える家臣。
信長政権下で確固たる地位を築き、多くの重要な戦いで軍司令官を務めました。
②越前国の統治
信長から越前国(福井県)を任され、「北ノ庄城」を築いて城下町を整備するなど、領内の統治に尽力し、現在の福井市の基礎を築きました。
③信長死後の後継者争い
「本能寺の変」で信長が亡くなった後、信長の三男・織田信孝を擁立しようとして、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立しました。
④最期
「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗れ、居城である北ノ庄城に追い詰められました。
最終的に、妻となった信長の妹・お市の方や一族と共に自害し、その生涯を閉じました。
柴田勝家の生涯
織田信長の弟・信行(信勝)の家臣
1522年
尾張国下社城
(現・明徳寺 愛知県名古屋市名東区)で生を受けた柴田勝家。
幼名は権六です。
織田信長の父・織田信秀に見出され、織田家古渡城で文武を教わり、家臣となり、信秀が亡くなると、織田信長の弟・織田信行(信勝)に家老として仕えます。
「稲生の戦い」
信長と違い正統派で礼儀正しい信行を後継者にしたい。
そう考えた柴田勝家ら家臣は「打倒信長」を掲げます。
1556年8月24日(34歳)「稲生の戦い」。
同僚の林秀貞・林通具の軍勢700人と、1000人の軍勢の柴田勝家。
合計1700人で、信長の「名塚城」に攻め入ります。
応戦した信長の軍勢は、700人。
激しい戦いの末、信長みずから林通具を討ち、信長軍が圧勝します。
信長軍は、逆に織田信行の根城「末森城」を包囲。
ですが、信長信行兄弟の生母・土田御前の強い頼みで居城「清洲城」へ退陣。
弟・信行は殺されずに済み、柴田勝家や林秀貞らは墨衣で織田信長への忠誠を誓いました。
こうして、織田信長討伐計画は失敗に終わります。
信長への忠誠
1558年(36歳)
再度、織田信行は、兄・信長の命を狙います。
ですが、信長に忠誠を誓った柴田勝家の密告により、信長は弟を殺すことを決意。
信長が重病だという嘘をつき、信行を清洲城へ誘い出した柴田勝家。
信行は池田恒興らによって殺害されました。
その後、柴田勝家は、信長の命により、織田信行の遺児・津田信澄を養育することとなりました。
こうして、柴田勝家は織田信行の家臣から織田信長の家臣へとなったのでした。
この頃、10歳ほどのお市の方を見て一目惚れしたと言われています。
越前・加賀での武功
織田信長の信頼を得るために
1560年(38歳)桶狭間の戦い、
1564年(42歳)犬山城攻略(織田信長が尾張を統一し、次の目標である美濃攻略を進める上で、犬山城はきわめて重要な拠点でした)を戦いぬき、数々の武功を挙げて「鬼柴田」と敵に恐れられるほどの存在となっていきます。
1568年(46歳)
将軍・足利義昭の住まう京都での守り役に抜擢。
1570年(48歳)
近江(滋賀県)長光寺城に配属。六角氏や浅井氏の抑止力に。
さらに、「姉川の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」、「越前一向一揆」や「加賀一向一揆」といった主に加賀や越前の一向一揆鎮圧などを成し遂げ、北陸方面軍の総大将となります。
越前「北ノ庄城」築城
1576年(54歳)
柴田勝家は、現在の福井県に「北ノ庄城」を築城し、商人や職人を呼び寄せて城下町を造り、刀狩りをいち早く行い、越前を統治していきました。
橋の建造や道の新設・補修など、インフラ整備に注力し、現在の福井県の原型を作り上げます。
その様を見た宣教師ルイス・フロイは、織田信長に例えて称賛したそうです。
本能寺の変
1582年(60歳)6月3日
「魚津城の戦い」では、上杉謙信の子・上杉景勝「魚津城」(富山県)を陥落しますが、このため、前日6月2日に起きた「本能寺の変」を知るのが遅れています。
急報を聞き、急いで弔い合戦に赴きますが、その後も足止めをくらい、
6月13日山崎の戦いで豊臣秀吉が明智光秀討ち取ったという報せを聞いたのは越前・近江の境の柳ヶ瀬でした。
これが、運命の分かれ道でした。
清須会議
1582年6月27日
織田信長の後継者を決める「清須会議」が開かれます。
メンバーは、豊臣秀吉(46歳)、丹羽長秀(47歳)、池田恒興(46歳)、柴田勝家(60歳)の”4宿老”。
柴田勝家は弔い合戦への出遅れが響き、豊臣秀吉に主導権を握られます。
後継者選びはそれぞれの思惑が交差します。
①豊臣秀吉⇨織田信長の長男・織田信忠の嫡子・三法師(織田秀信)
②丹羽長秀⇨織田信長の長男・織田信忠の嫡子・三法師(織田秀信)
③池田恒興
④柴田勝家⇨織田信長の三男・織田信孝
3歳の将軍は無理があると考え、織田信孝と組んだ柴田勝家に対して、長男から長男へ受け継ぐのが正統とした豊臣秀吉&丹羽長秀。
結局、明智光秀を討った豊臣秀吉の意見どおり、幼き三法師が後継者となることで合意しました。
領地の再配分についても話し合われます。
柴田勝家が得たのは、元々織田信長から与えられていた越前と、豊臣秀吉の領地だった近江長浜(滋賀県)のみ。
これで豊臣秀吉と立場が逆転。
気を使った豊臣秀吉は、柴田勝家と織田信長の妹・お市の方との結婚を認めます。
お市との結婚
柴田勝家60歳。お市の方35歳。
お市の方には3人の連れ子がいましたが、柴田勝家は憧れのお市の方と添えてウキウキです。
その隙に、豊臣秀吉は、他の織田信長の重臣たちとの勢力争いに力を入れ始めます。
「賤ヶ岳しずがたけの戦い」
1583年(61歳)
柴田勝家は、豊臣秀吉と衝突し、「賤ヶ岳の戦い」が起こります。
ですが、味方前田利家に裏切られ、退却を余儀なくされたのです。
この時、自分を裏切った前田利家に対して
「お前は秀吉と親しいから、秀吉の臣下になるといい」
と勧め、人質にしていた前田利家の娘を返したと言われています。
最期
翌日、羽柴軍の包囲に落ちた北ノ庄城で、
柴田勝家は腹を十文字に割いて、お市の方と共に自害。
婚姻期間はわずか7ヶ月。
敗れてなお度量の深さを見せた最期でした。
お市の方の3人の連れ子「浅井三姉妹」に未来が継がれていきます。
柴田勝家|エピソード

柴田勝家性格は以下のようにの語られています。
真面目、愚直、忠誠心、柔軟性に乏しい、融通が利かない
これは、柴田勝家を語る際に必ず出てくるエピソードのイメージだと考えられます。
エピソード①斬り捨て事件
主君・織田信長から先鋒の大将を命じられた柴田勝家は、その抜擢を喜ぶでもなく、辞退を申し出ます。
もちろん信長に受け入れられるはずはありません。
その後、安土城で信長の臣下と体がぶつかった柴田勝家。
その臣下を無礼だと斬りつけたのです。
激怒する信長。
「然ればこそ先陣をば是非共辞し申したるなれ、子細無くて辞し申すべきや。先陣の大将たる者威権無き時は下知行はれざる物なり。如何に」
(引用『常山紀談』)
無礼を働かれるほど威厳のない自分には先鋒の大将など務まらない、だから断ったでしょ?いかがしましょうか
という自身の気持ちを伝えたということです。
エピソード②「瓶割り柴田」
1570年6月(48歳)
現在の滋賀県近江八幡市「長光寺城」で繰り広げられた六角義賢(佐々木義賢/六角承禎)との戦いのエピソードです。
六角義賢は、近江国(滋賀県)の守護である六角定頼の嫡男。
近江南部の有力な武将でしたが、1568年信長軍に押され居城・観音寺城を捨て逃亡。
その後、機を覗っていたのですが。
2年後、信長は、浅井長政の裏切りにより命からがら撤退する際、警護のため長光寺城に柴田勝家を配置しました。
6月そこを攻めたのが、六角義賢。
柴田勝家勢は劣勢。
しかも遠くから城に水を引いている情報が漏れ、水を断たれてしまいます。
六角義賢が偵察を送ると、手洗いにもたっぷり水を使い、残り水を、小姓が庭に捨てていたというではありませんか。何故か…。
実は、場内は水を断たれ、たいへん苦しい状態でした。
防戦一方の守城戦でしたが、明日から城の外に戦いに出ると決意した柴田勝家。
そして、酒宴を開き、水の入った瓶を持ってこさせます。
「勝家はこれをかつぎださせ『いままで長い間の渇きをこれでいやせよ』といって、人びとに汲み呑ませ、残った水の入っている瓶を長刀の石突(いしづき)で割ってしまった」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
飲料水の入った瓶を割り、自らの退路を断ち、部下を鼓舞しました。
翌6月4日、門を開いて敵を襲撃すると、事態は一転して大勝をおさめたということです。
勝つために自身の命を賭ける豪快な姿がよくわかりますね。

