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2024大河「光る君へ」一条天皇と2人の中宮・藤原彰子と藤原定子

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2024年大河ドラマ「光る君へ」では、主人公まひろ(紫式部)が噂で聞く天皇や后、貴族たちの複雑な関係を物語として書き始めます。これが源氏物語です。

その才能を見込んだ藤原道長は、娘の一人中宮・彰子の教育のためまひろに宮中に上がるよう勧めるのですが、この藤原道長が最高権力者に上りつめるまでの様々な運命や画策も見どころです。

 


大河ドラマ「光る君へ」人物相関図(扮装写真版)

 

道長が権力を得るために欠かせない要素が、娘たちの政略結婚。

きっかけは、
道長の長女・彰子と道長の姪・定子が、ふたりとも同じ時期に一条天皇の正妻(中宮)
になったことでした。

「2人の正妻ってそんなのあり?」

と感じられる方も多いでしょうし、

「平安時代はそれが当たり前だったのか?」

と思う方もおられるかもしれません。

 

どのようないきさつがあったのか、真相はどうだったのか、できるだけわかりやすく解説します!

なお、2024年大河ドラマ「光る君へ」では

 

若くして即位した一条天皇→塩野瑛久さん

道長の娘・藤原彰子→見上愛さん

道長の兄・藤原道隆の娘・藤原定子→高畑充希さん

藤原道長→柄本佑さん

が演じられます!

 

 

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光る君へ|藤原定子(ふじわらのていし)プロフィール

藤原定子(ふじわらのていし・さだこ)

生没:979年〜1000年12月16日
地位:66代一条天皇の后(女御→中宮→皇后)
父:藤原道隆(ふじわらのみちたか)
母:高階貴子(たかしなの きし )
長兄:藤原伊周(ふじわらのこれちか)

道長の兄・道隆の長女として生を受け、14歳で宮中に入る。
清少納言を従えサロンを開く。
宮廷文学はこのサロンから発達した。
華やかな性格で、清少納言の枕草子によると3歳年下の一条天皇の寵愛を一心に受けていたとされる。

 

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光る君へ|藤原彰子(ふじわらのしょうし)プロフィール

藤原彰子(ふじわらのしょうし・あきこ)

生没:998年〜1074年10月25日
地位:66代一条天皇の后(女御→中宮→皇太后→太皇太后)
父:藤原道長(ふじわらのみちなが)
母:源倫子(みなもとのりんし・ともこ)
子:後一条天皇、後朱雀天皇
道長の長女として生を受け、12歳で後宮に入る。
サロンでは紫式部、和泉式部などを従え、聡明で優しかったと言われており、「賢后」と賞された。

彰子は定子より19歳年下ですね!

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光る君へ|藤原道長(ふじわらのみちなが)の戦略


↑道長が和歌を詠んだ邸宅:土御門邸の跡(出典:一般財団法人国民公園協会ホームページ

 

「光る君へ」主役の一人である藤原道長ですが、

”この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば”

という和歌を詠んだことでも有名です。

これは

「この世は 自分のためにある世界だと思う 満月のように 欠けたところが何もない」

という意味で、

・長女・藤原彰子(しょうし・あきこ)→一条天皇(第66代天皇)
・次女・藤原妍子(けんし・きよこ)→三条天皇(第67代天皇)
・三女・藤原威子(いし・たけこ)→後一条天皇(第68代天皇)

と三人の娘を次々と天皇の正妻に輿入れさせた時に詠んだ和歌です。

道長がいかに隆盛を極めていたかよく表れていますね。

和歌を詠んだ時は、

彰子が太皇太后(たいこうたいごう)
妍子が皇太后(こうたいごう)
威子が皇后(こうごう)

の地位にあり、道長の家では”一家立三后”と呼ばれる状態にありました。

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光る君へ|二人の正妻はなぜ生まれたのか

道長に降ってきたチャンスは兄達の死によってもたらされた

もともと藤原道長は五男(異母兄弟含む)でしたので、権力の中枢とは少し離れたところで育ってきました。

一方、甥の一条天皇は円融天皇の長男です。

父の円融天皇が退位し、叔父の花山天皇の突然の出家によりその後を継ぐことになった一条天皇は、6歳(数え年で7歳)で第66代天皇に即位しました。

道長の父・兼家の画策により異例の昇進を遂げた道長の兄・道隆は、

10歳で元服(成人の儀)した一条天皇のもとに、娘・藤原定子(当時14歳)を入内させます。

一条天皇の母と定子の父が兄妹なので、二人はいとこ同士の関係です。

皇族の男子が元服した夜には年上の女性が添い寝役をつとめるのが通例で、
藤原定子はその「添臥(そいぶし)の后」としての役割を果たしたといわれています。

明るく知的な藤原定子は華やかな女性で、清少納言のような知的な女官たちを集めてサロンを形成するような、みんなのあこがれの女性でした。
一条天皇が夢中になるのに時間はかかりません。

道隆は半ば強引に「中宮」という正妻の座に定子をすえ、自らは天皇を支える「関白」に、定子の兄・伊周(これちか)を内大臣という位に就けます。

ですが大酒飲みだった道隆は糖尿病にかかり、伊周を関白職の後継者とすると言い残し関白職を辞します。

道隆が49歳(当時定子19歳)の春に亡くなると、その遺志に反して関白職は息子・伊周ではなく弟の道兼に移り、その道兼も関白就任から数日後に亡くなるというサスペンスフルな展開となりました。

その後は当初の予定通り道隆の息子・伊周が関白を継ぐと思われていました。

ところが一条天皇の母・詮子(道長にとっては姉)が道長を関白にするように一条天皇に頼み込み、藤原道長が関白就任を果たしたと歴史物語「大鏡」では伝えられています。

兄たちの死後、突然道長にチャンスが巡ってきたのです。

なお、定子より19歳年下の藤原彰子はこの頃に生まれています。

定子の兄・伊周の起こした事件と定子の出家

関白の座を奪われた道隆の息子・伊周はすっかりやさぐれてしまいます。

道長に喧嘩を売ったり、恋人の浮気相手が前帝である花山法皇だと勘違いして花山法皇を襲撃するという大事件を起こしてしまうのです。

前の天皇を襲撃するとはとんでもないこと。

定子のことは大好きでしたが、一条天皇は重罪を犯した伊周と隆家を流罪にせざるを得ません。(当時は死刑がなく、流罪が最高刑だったそうです)

一条天皇の子供を身ごもり実家に戻っていた定子は、兄たちを捕まえようとした役人に実家を荒らされ、ショックを受け出家してしまいます。

このことを聞きつけた一条天皇は悲しみにくれました。

しかし流罪になった罪人の妹を中宮として戻すことは許されません。

定子は

”よもすがら契りしことをわすれずは 恋ひん涙の色ぞゆかしき”

(夜通し愛しあったことをあなたが忘れずにいてくれるのなら、きっと私を恋しく思って涙を流してくださることでしょう。その涙の色を、私は見とうございます)

という和歌を詠んでいます。

 

一条天皇は決意します。
優しい性格で、周りの意見に沿ってきた一条天皇ですが、初めて自分の気持を優先するのです。

定子と、彼女が産んだ女の子を内裏の隣にある「職御曹司(しきのみぞうし)」に呼び寄せることにしました。おそらく一条天皇は定子に世継ぎである皇子を産んでほしかったのでしょう、ふたたび定子は妊娠します。

 

藤原彰子の結婚と藤原定子の出産は同じ日

これには道長も黙ってはいません。

すでに政治の中枢で絶大な権力を握っていた道長ですが、自分の地位をさらに強固にするため、長女の彰子を一条天皇に入内させてもらえるよう頼みます。

天皇といえどこの時の最高権力者である道長の頼みを断ることはできず、

長保元(999)年11月7日、藤原彰子は女御として一条天皇の妻になります。
当時の彰子はまだ12歳。

どういう運命のいたずらか、一条天皇と藤原彰子が結婚した同日に定子が男の子を出産したのです。

ドラマのようですね。

当時21歳だった一条天皇はすぐに拗ねてしまう12歳の彰子を「あまりに幼い」と言っており、明るく社交的な定子と比べていたようです。

もちろん3人とも従姉妹同士なので、親愛の情はあったかと想像できますね。

 

藤原彰子が正室へ

定子が敦康親王を産んだことで一条天皇の定子への愛はますます揺るぎないものとなり、彰子にも皇子を…という道長の願いはしばらく叶いそうもありませんでした。

このままではまずいと思った道長は、正室である「中宮」の座を彰子にも与えることを思いつきました。

実は定子もその父・道隆によって強引に「中宮」に据えられたという前例があり、道長は兄と同じ手法で娘を正室にしようとしたのです。

一条天皇はこの申し出を受け入れるほかありません。

こうして定子を「皇后」、彰子を「中宮」として、2人の正室を持つ「二后並立」という状態になりました。

藤原定子の死

皇子を産んですぐに定子は3人目の子供を身ごもります。

1000年12月に女の子が産まれますが、定子はそのまま意識が戻らず即日他界してしまいます。

天皇はけがれに触れてはいけないということで、一条天皇は愛する定子の葬式に参列することもできず

”野辺までに心ばかりは通へども 我が御幸(みゆき)とも知らずやあるらん”

(私の心は、あなたの葬儀が行われている鳥野辺にある。体は参列できなくとも、今夜降る深雪(みゆき)は私の御幸(天皇の外出)なのだ。あなたはそのことも知らず、永遠の眠りについているのだろうか)

という和歌を詠まれたそうです。

定子の死後、14歳の彰子は父・道長の命令で定子の長男である敦康を引き取って育てます。

ずっと一条天皇と定子の愛を目の当たりにしてきた彰子。

その彰子には懐妊の兆しすらありません。

年上の女性とばかり接してきた一条天皇から見ると、8歳下の彰子をどう扱って良いのかわからなかったのかもしれません。

 

藤原定子の妹・御匣殿(みくしげどの)

一条天皇の定子への未練は、違う形で現れます。

やがて、定子の妹で、実際に定子の養育を行っていた御匣殿(みくしげどの:天皇の身の回りの世話を任されていた女房)を寵愛するようになります。

御匣殿は(本名不詳)は懐妊します。

定子や御匣殿の兄・伊周・隆家兄弟は、中関白家の再興の兆しを喜びますが、その御匣殿も身重のまま亡くなりました。

一条天皇は大きく落胆したということです。

 

紫式部の教育と藤原彰子の出産

藤原道長は紫式部を後宮に入れて彰子につけます。彰子が18歳のことでした。

彰子は一条天皇を振り向かせたい一心で紫式部から漢文を習い始めます。
一条天皇が漢文を読むのが好きだったからです。けなげですね。

これの成果が出たのか少しずつ一条天皇の心が彰子に向き始め、入内から9年目にしてついに彰子は21歳で初めての子供を出産します。これが皇子である敦成親王です。

待ちに待った孫の誕生、しかも男の子ということで、道長はたいへん喜んでいたそうです。

彰子が続いて翌年にも二人目の皇子を出産すると

一条天皇が病に倒れます。

次の天皇は決まっていますが、その次の後継者について争いなきよう一条天皇は思案します。

定子の産んだ敦康か・・・
彰子の産んだ敦成か・・・

悩んだ挙げ句、彰子の産んだ敦成を後継者にすると決意しました。

この決定に彰子が異を唱えたと言われています。

一条天皇がどれほど定子を愛し、その子敦康をかわいがっていたか知っていたからなのか。また彰子自身も自分の手で育てた敦康に情があったからかもしれません。

あるいは我が子敦成が腹違いの兄との間に遺恨を残し、早逝するのを恐れたからかもしれません。

1011年6月22日、一条天皇は32歳の若さで崩御されます。

一条天皇の絶世の句は

「露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ(『御堂関白記』)」

この世に置いていく”君”とは、最期まで付き添った彰子のことなのか。
一途に思い続けた定子に向けられたものなのか、誰にもわかりません。

 

彰子は87歳の命をまっとうしたそうです。

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光る君へ|一条天皇と2人の正妻・藤原彰子と藤原定子まとめ

藤原道長は、兄たちの死や甥たちの事件によってどんどん権力を強めていき、姻戚関係を結ぶことでさらにその地位を揺るぎないものにしていきました。

一条天皇に愛され、若くして亡くなった定子。

一条天皇になんとか振り向いてもらおうと努力して自分磨きをし続けた彰子。

従姉妹でありながら対照的な2人の女性が、家のために、父のために運命に翻弄されていった結果が「二后並列」という特殊な状態だったのかもしれません。

また、絶頂期の兄・道隆の死、関白就任から数日で亡くなった兄・道兼。
姪・定子の死、彰子が二人の皇子を産んだ途端に病に倒れた一条天皇の死、、、

藤原道長の出世の影には周囲の死が絶えない点も興味深いですね・ω・

大河ドラマでどのように描かれていくのか楽しみです

 

お読みいただきありがとうございました!

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