朝ドラ『あんぱん』のなかで、柳井嵩の母・登美子の実在モデルは柳瀬登喜子(やなせときこ)さんです。
ドラマでは松嶋菜々子さんが美しくしなやかで、一見したたかな女性を演じています。
実際の柳瀬登喜子(やなせときこ)さんはどのような女性だったのでしょうか?
やなせたかしさんの著書などから、紐解きます。
登美子モデル|柳瀬登喜子 誕生
柳井登美子|柳瀬登喜子(やなせときこ)
誕生
1894年(明治27年)1月11日
高知県中部の山あい(高知県香美郡在所村永野)で平家の落人の末裔・谷内家の三男三女、6人兄弟の次女として生を受けます。
3人の男兄弟が早逝し、女3人の真ん中が登喜子(谷内登喜子)さんでした。
登美子モデル|柳瀬登喜子 最初の結婚
最初の結婚|12歳〜16歳
高知県立第一高等女学校に通う美人で才媛、華やかな女性だった登喜子さんは、在学中に学生結婚しています。
高等女学校は5年制で、12(13)歳〜16(17)歳までの女子が在籍していましたので、この間の結婚だと思われます。
お相手は豪商として知られていた男性だったそうです。
この縁談は長くは続かず、離縁後、登喜子さんは谷内家に戻ります。
登美子モデル|柳瀬登喜子 再婚生活
再婚|24歳
1918年(大正7年)5月 (24歳)
やなせたかしさんの父・柳瀬清さんと再婚します。
柳瀬清さんも、同じく平家の落人の末裔で、物部川の北側にある高知県香美郡在所村の出身(永野の隣の朴ノ木)でした。
傾きつつあった柳瀬家の次男が清さんです。
遠縁の一人は、登喜子さんをこう評しています。
登喜子さんは、この田舎から当時の第一高女に行った方ですから、やはり気位が高かったそうです。柳瀬家はその頃、かなり傾いていたようですが、登喜子さんが早く結婚されて出戻ってきていましたので、東亜同文書院を出た清さんが、結婚をされたのだと思います。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)
上海に留学するほどの秀才だった清さんは、日本郵船上海支店から講談社へ転職していました。
嵩の出産|25歳
1919年(大正8年)2月(25歳)
再婚した翌年、長男の嵩さんが超未熟児で生まれます。
「あなたのお産はとても楽だった。おなかもあまり目立たなくて、誰も気づかなかったの」
(引用:『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』梯久美子 著)
と登喜子さんから嵩さんへ伝えられています。
名前の由来は、清さんの留学先の中国にある「嵩山(すうざん)」という少林寺拳法発祥の地の地名ということです。
(引用:『人生なんて夢だけど』やなせたかし著)
東京都北区(東京府北豊島郡滝野川町)で家族3人暮らしました。
夫の転職・千尋の出産|26歳
1921年(大正10年)26歳
ヘッドハンティングされた清さんが朝日新聞社に転職します。
そして
1921年(大正10年)6月15日
次男の千尋さんが生まれます。
嵩さんが「山」だったので、千尋さんは「千尋の海」のような海を連想させる名前にしたそうです。
夫の単身赴任|27歳
1922年(大正11年)
一家は東京で暮らしていましたが、留学経験があり中国語が堪能だった清さんは、特派員としてキャリアを積むため中国へ渡ります。
幼い子どもたちを連れて行くには、環境が過酷すぎるということで、登喜子さんと嵩さん、千尋さんは高知の実家に身を寄せます。
清さんは、青春時代を過ごした上海で活躍した後、福建省の厦門(アモイ)へ転勤を命じられました。
登美子モデル|柳瀬登喜子 未亡人となる
夫の死|30歳
1924年(大正13年)5月16日
夫・清さんが突然の病により33歳の若さで亡くなります。
これは中国へ渡った1年半後、厦門(アモイ)でのことでした。
この時、登喜子さん30歳。
風土病などが蔓延していた当時の厦門(アモイ)に家族を連れて行かなかったことは正しい判断だったと思われますが、登喜子さんが同行しなかったことを悔いていたことが、嵩さんの文章からわかります。
母は任地に同行せず、子供と故郷の実家に残った。これが生涯、母の心の傷となる。
ぼくは四歳で弟は二歳、二人はまだ父の死のことはよく解らず、梅の木の下で遊んでいた。ただ、母がひどく泣いていたことと、葬列をつくって田んぼ道を山の墓地まで歩いた日のことは鮮明におぼえている。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし著)
千尋を養子に
清さんが亡くなった後は、次男・千尋さんを夫の兄夫婦の養子にしました。
一家の大黒柱を失った柳瀬家は、これ以降、別々の道を歩みだすことになる。
母・登喜子は弟の千尋を清の兄、寛の家に養子に出した。伯父の寛と京都出身の妻、キミの間には子供がいなかったため、千尋を養子にもらうことは、以前から約束されていたのである。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)
清さんの兄・寛さんは、現在のJR「後免駅」近くに「柳瀬医院」を開業していました。
こちらは登喜子さんの実家の在所から約22km。
今なら国道195号を車で走らせ約32分の距離ですが、当時は山越えに時間がかかる距離だったかと思われます。
母と嵩の3人暮らし
この時、登喜子さんの実母・谷内鐵(テツ)さんは家族とうまくいかず家を出ており、登喜子さんは、母、嵩さんと3人で高知市追手筋の医者の離れを借りて暮らしていくことになりました。
当時、専門技術を持たない女性が自活していくことは、簡単ではありませんでした。
なんとか手に職をつけようと模索していた登喜子さんは、あらゆる習い事をします。
母について書かれた嵩さんの文章があります。
母はあまり家にいませんでした。琴、三味線、謡曲、生け花、茶の湯、洋裁、盆景とありとあらゆる習い事をしていました。化粧も濃く、華やかに着飾って外出するので田舎では評判が悪く、ぼくはときどき母の悪口をまわりの人から聞かされることになります。気性は激しい反面、社交的で誰とでもすぐ親しくなりました。
(引用:『人生なんて夢だけど』やなせたかし著)
華やかで社交的な登喜子さんの周りには、常に男性たちがいました。
化粧をし、綺麗な着物を着て香水の香りを振りまいていた登喜子さんは、田舎では反感を買い、陰口を叩かれることも多く、中には息子の嵩さんに向かって登喜子さんを悪く言う人もいたそうです。
嵩さんは、それでも美しい母を自慢に思っていました。
洋裁をしながら生活を支え、しつけにも厳しかった登喜子さんですが、よく嵩さんを映画館に連れて行ってくれたそうです。
ただ、世間は厳しく、お嬢様育ちの登喜子さんに自活していくことは、できませんでした。
嵩さんは幼稚園に通うこともできず、家はどんどん貧しくなっていきます。
登美子モデル|柳瀬登喜子 再再婚
再再婚|32歳
嵩さんに
「おまえみたいに真っ正直だと、馬鹿を見るよ。生きていくには、もっとずるくならないと」
(引用:『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』梯久美子著)
そんな言葉をかけていた母ですが、
1926年登喜子さん32歳
大正から昭和へ移りゆく年に
2年間の未亡人生活に終止符をうち、庇護してくれる男性との再再婚の道を選びます。
相手は東京に住む官僚、子供がいる家庭で、そこに嵩さんを連れて行くことはできませんでした。
小2の嵩さんは、弟・千尋のいる伯父・寛さんの家に預けられます。
母の登喜子が再婚することになったのである。しかも、相手は東京住まいの官僚で、子供もいる家庭だった。
嵩は、母から離れ、千尋が養子に入っていた柳瀬医院にもらわれていくことになる。
小学校二年生になったばかりの七歳の時のことである。
「嵩はしばらくここで暮らすのよ。病気があるから伯父さんに治してもらいなさい」
それだけを言い残して、母・登喜子は去り、その後、二度と嵩を迎えに来ることはなかった。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)母は伯父としばらく話し合った後、ぼくに「崇はしばらくここで暮らすのよ。病気があるから伯父さんに治してもらいなさい」と言ったのです。
(引用:『人生なんて夢だけど』やなせたかし著)
夫との死別後
その後、登喜子さんはその再婚相手にも先立たれます。
夫が遺してくれた東京の家に住んだのち、田舎に移り一人で暮らしたそうです。
東京で学生生活を送っていた嵩さんは、登喜子さんの家をときどき訪れました。
再婚していた母が、東京の世田谷区大原町にいたことは偶然でした。後免町の柳瀬家でぼくと同室だった伯父の正周も勧業銀行(現みずほ銀行)に勤めていて、その家が母の住まいから歩いて五分ぐらいのところにあったのも全くの偶然です。マグレと偶然が重なり合ってしまったんですね。
(引用:『人生なんて夢だけど』やなせたかし著)
また、次男の千尋さんも京都帝国大学に在学中、登喜子さんと会うことがあったようで、お二人が一緒に写った写真を嵩さんの著書『人生なんて夢だけど』に見ることができます。
常に最善を選ぼうとしていた登喜子さん。
嵩さんを置いて再再婚をしたことは、寛さん夫婦の人柄を知ったうえで、嵩さんがここなら幸せになれると考えたからかもしれません。
息子たちとの縁が切れることなく続いていたことに、宿命のようなものを感じさせられます。
【参考文献】
『人生なんて夢だけど』やなせたかし:フレーベル館
『慟哭の海峡』門田隆将:角川書店
『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』梯久美子
『アンパンマンの遺書』やなせたかし:岩波書店