7月の『べらぼう』は、
1983年(天明3年)秋〜1785年(天明5年)正月の話です。
蔦重33歳〜34歳。
天明の大飢饉を背景に、世を揺るがす殺人事件が起こります。
事件の裏で何が起きていたのか。
こちらでは
大河ドラマ『べらぼう』
2025年7月放映分(26話〜29話)
のあらすじをご紹介いたします。
【月ごとのあらすじ】
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2025年大河『べらぼう』7月あらすじ
『べらぼう』7月のあらすじです!
第26回 7月 6日 |(米の高騰と実母)
浅間山の噴火による火山灰と冷夏による不作で、米の値が高騰する江戸。
蔦重を頼って産みの母・つよが現れます。
これまで蔦重と別の部屋で寝起きをしていた妻・ていは、つよの同居に伴い、蔦重の部屋に移りました。
家族と8人の奉公人を養う蔦重は、米を安く買うため札差(米を金に変える商売)を吉原でもてなすうち、米の値が人為的に釣り上げられていることに気づきます。
江戸城では、
徳川御三家の一つ、紀州徳川家の徳川治貞が、いまだ米の高騰を抑えられない田沼意次らを叱責してます。
「足軽上がりが、かような世を作り出した責めをどう負うつもりか!いつまでも紀州が支えると思うなよ!」
叱られる父の姿を目にする意知。
ある日、ていが家出をしました。
耕書堂の役に立っていない、江戸一番の目利きと言われる蔦重にふさわしくないと感じたていは、出家しようとしていたのです。
寺でていを見つけた蔦重は
「一生誰とも添うつもりがなかった自分が目利きした、たった一人の女房がていだから」
と言い、ていの目からは涙が…。
この夜、二人は初めて結ばれます。
一方、幕府は、株仲間を廃止し、商人たちの結託を阻止することを決めました。これは、「仲間などなければ自由に商いができる」という蔦重の言葉にヒントを得た意知の策でした。
第27回 7月13日|(田沼意知と佐野政言)
1984年(天明4年)年明け
蝦夷地の上知計画を知り、一橋治済は不快感を露わにしています。
そして田沼屋敷には、一人の老人がやってきました。
佐野政言の父・佐野政豊です。
「もうろくしておりますゆえ、何卒お慈悲を」
と頭を下げる政言に、意知は、将軍徳川家治の狩りのお供というチャンスを与えます。
ですが、狩りでは仕留めたはずの雁が消え、参加者たちに責められた政言は落ち込みます。
後日、佐野家へ一人の武士の姿が。
武士は、佐野家の矢に射抜かれた雁を見せながら、この雁を見つけた意知が木のうろに隠すのを見たと話します。
意知がそんなことをするはずがないと返す佐野政言。
さて、蔦重が正月に売り出した挿絵入りの狂歌集『歳旦狂歌集』は、不景気ということもあり失敗に終わり、日本橋で景気対策への知恵を絞ることになりました。
「公儀が米を仕入れ、それを仕入れ値で民に売る」
という日本橋の案を田沼屋敷に持ち込んだ蔦重は、併せて、なんとか誰袖を身請けしてやってほしいと意知に平伏します。
景気が上向かないまま誰袖を身請けすれば世間からの批判を浴びかねないと考えていた意知は、
「表向きは土山宗次郎の名で誰袖を身請けするようはからった」
と答え、蔦重は喜び感謝します。
1784年(天明4年)春
先日の武士が佐野家を再び訪れます。
今度は、「田沼の桜」と呼ばれる意次が神社に寄進した桜は佐野政言が贈ったものではないかと耳に入れてきました。
佐野家の庭には、咲かない桜に斬りかかる老いた父の姿。
佐野政言は、田沼親子の栄華や仲の良さに嫉妬を覚えます。
その夜、父の錆びた刀を研ぎ続ける佐野政言。
誰袖が土山宗次郎に身請けされて大文字屋を後にしている頃、江戸城では、父の刀を手にした佐野政言が田沼意知に斬り掛かっていました。
第28回 7月20日|(仇討ち)
1784年(天明4年)春
田沼意知が息を引き取った翌日、佐野政言は自害します。
意知の葬列に「天罰だ!思い知れ!」と石を投げる大工。
同調する野次馬。
意知の棺を庇う誰袖にも石が当たります。
誰袖から仇討ちを頼まれた蔦重は、佐野の墓の近くで「佐野世直し大明神墓所」というのぼりを立てる浪人とすれ違います。
それは、大工姿で意知の葬列に石を投げたあの男でした。
心が失われていく誰袖。
蔦重は、この事件を書籍化するという仇討ちを思いつきます。
最初は佐野政言を悪者に仕立てて書くつもりでしたが、「可哀想な者は笑えない」との須原屋の反対で断念。
一方、田沼意次は、息子の遺髪を胸に忍ばせて江戸城に上がり、一橋治済と対峙します。
その時、田沼屋敷に2冊の帳簿が届けられました。
第29回 7月27日|(誰袖の心を取り戻せ)
2冊の帳簿は、平秩東作が命がけで持ち出した松前家の表帳簿と裏帳簿でした。
この証拠を幕府が蝦夷地を召し上げる大義名分とし、一気に攻めるつもりの田沼意次。
蔦重は、佐野政言とは正反対の笑えるキャラクターを考えます。そして北尾政演のモテエピソードを生かした”二代目金々先生”『江戸生艶気樺焼』を製作。
読んだ誰袖は思わず笑顔になり
「これが俺の仇討ちだ」
と蔦重。
1785年(天明5年)正月
『江戸生艶気樺焼』は売れに売れました。