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斎藤龍興「反信長」に捧げた、誇り高き反逆の生涯

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斎藤龍興について、織田信長、竹中半兵衛らとのエピソードをご紹介するとともに、その波乱に満ちた人生に迫ります。

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斎藤龍興とは

斎藤龍興(さいとうたつおき)
1547年(天文16年)
〜1573年(天正元年)8月10日(諸説あり)

斎藤龍興とは、「美濃のマムシ」と呼ばれた戦国大名「斎藤道三さいとうどうざん(斎藤利政)」の孫で、14歳の若さで家督を継ぐも、織田信長に美濃国(現在の岐阜県)を奪われ、その後も領土奪還を目指して最後まで抗い続けた美濃斎藤氏3代目当主

父:斎藤義龍(道三流斎藤氏2代当主)
母:浅井あざい家の娘(浅井久政または浅井亮政)

龍興と敵対した織田氏は「斎藤」と呼び続け、織田氏の記録である『信長公記』などにより「斎藤龍興」の名で知られていますが、本来は「一色龍興」だとも言われています。
また、斎藤龍興のエピソードは織田家の言い伝えで残っているため、どこまでが真実かはわかっていません。

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斎藤龍興の生涯

家督相続:若き当主を襲う、怒濤の荒波(14歳)

1561年(14〜15歳)
美濃を統べる巨星、斎藤義龍が急逝すると14歳の息子・龍興が重責を担うこととなりました。
岐阜市にそびえる峻険なる稲葉山城
その主となった龍興を待っていたのは、戦国の非情な洗礼でした。

父の死から、わずか二日。美濃を虎視眈々と狙っていた尾張の風雲児・織田信長が、稲妻のごとき速さで侵攻を開始。
森部の戦いの火蓋が切って落とされると、龍興の盾となるべき重臣・日比野清実、長井衛安ら宿老たちが次々と泥にまみれ、討ち死に。
あまりに無惨な大敗に終わります。

四面楚歌の美濃、切り崩される包囲網(16歳)

信長の猛攻に晒され続ける中、龍興は乾坤一擲の外交策に出ました。
父・義龍が敵対していた北近江の浅井長政と手を結び、信長を挟み撃ちにしようと画策したのです。

ですが、さらにその上をいく信長。
絶世の美女と謳われた妹・お市の方を長政に差し出し、電撃的な同盟を締結。昨日までの友好候補・浅井軍は、一転して牙を剥き、美濃の地を蹂躙し始めました。
絶体絶命。この危機を救ったのは、父の代からの盟友・六角義賢でした。南近江から六角が浅井領へ侵攻したことで、浅井軍は背後を突かれる形となり撤退。龍興は、辛うじて首の皮一枚で踏みとどまります。

1563年(16歳)
絶え間ない信長の猛威を前に、美濃の意地を見せた男たちがいました。
稀代の軍師・竹中半兵衛重治ら若き将星たちの奮闘です。
再度侵攻を企てた織田軍を、新加納の地で迎え撃つ。
緻密な知略と必死の抗戦が功を奏し、ついにあの織田軍を撃破。若き当主・龍興と美濃の兵たちは、一時の勝利に沸き立ちました。

天才軍師・竹中半兵衛の静かなる怒り

美濃の行く末に暗雲が立ち込めるなか、若き当主・斎藤龍興は、次第に酒色に溺れ、政務を疎かにするようになっていきます。
かつて祖父・道三や父・義龍を支えた歴戦の宿老たちを遠ざけ、自らの耳に心地よい言葉を並べる側近ばかりを重用したのです。

なかでも龍興の寵愛を一身に受けていた斎藤飛騨守(さいとう ひだのかみ)は、増長を極めました。智略に長けた竹中半兵衛を「青白い書生」と侮り、あろうことか稲葉山城の櫓の上から、登城する半兵衛の頭上に小便を浴びせかけたという、前代未聞の屈辱的なエピソードが残るほど。

稲葉山城乗っ取り(17歳)

静かに、しかし燃え上がるような怒りを胸に秘めた竹中半兵衛は、主君・龍興の目を覚まさせるべく、ある恐るべき計画を企てます。
協力したのは、西美濃三人衆の一人であり、自身の舅でもある安藤守就(あんどう もりなり)でした。

1564年2月6日、龍興様17歳の冬。
半兵衛は「人質として城に置いている弟の見舞い」と偽り、白昼堂々、わずか16人の手勢で稲葉山城へと足を踏み入れました。
衣類を運ぶ”ながもち”のなかに鋭利な刀剣を隠し持っているとは、誰も夢にも思いません。

城内へ入るやいなや、半兵衛たちは隠し持った刀を抜き放ちました。狙うは増長した側近たち。一瞬の隙を突き、斎藤飛騨守ら6人を瞬く間に斬り伏せたのです。

「謀反だ!」「敵襲か!」
静まり返っていた城内は一転して、怒号と悲鳴が飛び交う地獄絵図。城主・龍興はあまりの恐怖に、着替えを済ませる余裕すらなく、寝巻き姿のまま命からがら城を脱出。

外には安藤守就率いる約2,000の軍勢が待ち構えており、難攻不落を誇った稲葉山城は、わずか数時間のうちに占拠されてしまったのです。

瓦解する斎藤家

驚くべきことに、半兵衛は龍興の命を奪うことはしませんでした。
半年もの間、城を守り抜いた後、龍興に城を返上して、自身は何の報酬も求めず潔く姿を消したのです。
しかし、この事件が残した代償はあまりに大きなものでした。天下に轟く名城が、わずか10数人の手に落ちたという事実は、斎藤家の弱体化を白日の下にさらしてしまったのです。

「もはや、この主君に未来はない」
失望した市橋氏、丸毛氏、高木氏といった有力な家臣たちは、次々と龍興を見限り、尾張の織田信長のもとへと奔り始めました。
美濃の国が根底から崩れ落ちる、終わりの始まりでした。

中濃地方の陥落(18歳)

1565年、龍興18歳の夏。
信長の調略は、美濃の心臓部へと深く突き刺さっていました。織田方に寝返った加治田城主・佐藤忠能の手引きにより、勇猛で知られた堂洞城主・岸信周が討死。さらに、龍興の大叔父にあたる関城主・長井道利までもが、皮肉にも龍興の叔父(道三公の末子)である斎藤利治に敗北を喫しました。
信長の勢力は中濃地方を席巻し、8月には最後の砦であった犬山城も落城。美濃を囲む防波堤は、音を立てて崩れていきました。

河野島の戦い(19歳)

1566年(19歳)、戦局は奇妙な静寂を迎えます。
近江へ逃れていた足利義昭が、自身の上洛(京都入り)を手伝わせるため、龍興と信長に和睦を命じたのです。両者はこれを受諾。しかし、野心を秘めた信長にとって、それは単なる休息に過ぎませんでした。

8月末、信長は上洛支援を大義名分に国境付近へ進軍。これに対し、龍興も軍を動かし、両軍はついに河野島の戦いで激突します。

閏8月8日の未明、勝機を掴んだのは斎藤軍でした。不意を突かれた信長軍は無惨な敗北を喫し、川を渡って逃げる際に溺死する者が続出。
あの信長が武具さえ投げ捨てて命からがら逃げ出したという、龍興にとって執念の一矢を報いた一戦となりました。

この頃、両者は甲斐の虎・武田信玄との同盟を画策しますが、信玄は静観を決め込み、美濃の運命は自らの手で切り拓くほかなくなります。

稲葉山城陥落(21歳)

1567年8月、龍興21歳の夏。
ついに、決定的な破滅の時が訪れます。
長く斎藤家を支えてきた西美濃三人衆(安藤守就、稲葉良通、氏家直元)が、ついに信長と内通。彼らの手引きによって織田軍の大軍が殺到し、父祖から受け継いだ難攻不落の稲葉山城は、猛火の中に沈みました。

父・義龍公の急逝からわずか6年。
誇り高き美濃の国は、ついに織田信長の手に落ちたのです。
城を追われた龍興は、夜陰に乗じて木曽川を船で下り、伊勢長島へと亡命。
国を失い、家臣を失い、わずかな供を連れての落去……。しかし、荒波に揉まれる龍興の胸中には、打倒信長を誓う執念の炎が、消えることなく激しく燃え続けていたのです。

執念の再起(23歳)

美濃を追われてなお、斎藤龍興の闘志は潰えていませんでした。
彼は、信長と激しく対立する浄土真宗本願寺派の門徒たちと結託。
長島一向一揆の真っ只中に身を投じ、寺側の一員として信長に鉄槌を下す機会を狙い続けました。

1569年、龍興23歳。
さらなる攻勢に出るべく、信長と対立する実力者三好三人衆と電撃的に接近します。
信長が擁立した将軍・足利義昭の仮御所を急襲する本圀寺の変を敢行。
京都の街を震撼させる猛攻を仕掛けますが、あと一歩のところで信長の援軍に阻まれ、悲願は潰えました。
九死に一生を得た龍興は、北陸の雄・越前国の朝倉義景のもとへと逃げ延び、再起の時を静かに待ちます。

宿命の決戦:刀根坂に散る(27歳)

1573年、運命の27歳。
信長が浅井長政の小谷城を包囲。
盟友・浅井の危機を救うべく、朝倉義景が大軍を率いて出陣すると、龍興もまたその軍列に加わりました。これが、信長との最後の決戦になるとも知らずに――。

戦況は朝倉軍の壊滅という最悪の結果を招きます。
暴風雨のなか、撤退を余儀なくされた朝倉軍。その混乱の渦中、福井県敦賀市の刀根坂で、運命のいたずらが龍興を襲いました。
彼の前に立ちふさがったのは、かつて斎藤家の重臣でありながら信長に寝返った氏家直元の嫡男、氏家直昌でした。
「かつての主君を討つ」という残酷な宿命の刃が、龍興の胸を貫きました。

終焉:ブレることなき「反逆者の誇り」

享年27歳。
(※一方で、1569年に出家し、86歳まで生き延びたという伝説も密かに語り継がれています)
美濃を失い、家臣に裏切られ、それでもなお彼は、戦国の巨星・織田信長に対して一度として膝を屈することはありませんでした。

その短くも激しい生涯は、まさに「反信長」に捧げた、誇り高き反逆の物語だったのです。

 

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