「日本初の看護婦」として歴史に名を刻んだ大関和。
その偉大な足跡の陰には、娘を支え、孫たちを慈しみ育てた一人の女性の存在がありました。
NHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』に登場する、
ヒロインの母・一ノ瀬美津(水野美紀)の実在モデル
大関哲(おおぜき てつ)さんです。
彼女がいなければ、日本の看護の歴史は変わっていたかもしれません。
こちらでは、激動の明治を”影の功労者”として生きた大関哲さんの生涯を紐解きます。
『風、薫る』一ノ瀬美津(水野美紀)とは
水野美紀さん演じる一ノ瀬美津の役柄は次のとおりです。
那須にあった小藩の旧藩主の一族として生まれた。農家になり、明治を迎えても気位の高さは失っておらず、いざという時には自らなぎなたを振るう豪胆をもつ。一方で新しい物好きな一面も。
(NHK公式サイト)
気位が高く、時に豪胆で、意外と新しいもの好き。
実在モデルと共通するところがあるでしょうか?
『風、薫る』一ノ瀬美津モデル|大関和の母・哲の生涯
東京大学医学部附属病院などで看護師長を歴任し、近代看護の礎を築いた大関和さん。
大関和さんがキャリアを切り拓く裏には、母・大関哲さんの強固なサポートがありました。
黒羽藩家老の妻として
大関哲さんは、下野国黒羽藩の国家老(200石)・大関弾右衛門増虎さんの妻、八千代・和・復彦・衛・釛の二男三女の母として家庭を支えていましたが、長男・復彦さんの家出という、癒えぬ心の傷も抱えていました。
1968年の明治維新を機に商売の世界へ身を投じた夫に付き従い、ともに辛苦を乗り越えてきた哲さん。
大関家の子どもたちは書道と算術の塾に通っていましたが、武家の誇りを矜持とする哲さんにとって算術は「下級武士が身につける卑しいもの」に映り、眉をひそめずにはいられません。
一方で、娘の和さんと釛さんには「布団が縫えるようにならないとお嫁にいけません」と諭し、綿が寄りやすく手練れを要する布団などの裁縫、機織り、料理、華道、茶道…と、いつ嫁に行っても困らないよう育てました。
この哲さんの教育は、後に大関和さんが困っている人たちや木下尚江さんに綿入れ(半纏)を縫って贈る素地となったのかもしれません。
夫に先立たれシングルマザーに
1876年(明治9年)運命の暗雲が一家を襲います。
明治九(一八七六)年、弾右衛門は一八歳になった和の縁談をまとめると間もなく、五〇歳で流行り病に倒れた。このとき哲がなけなしの金をはたいて連れてきたのは、近所で評判の拝み屋であった。拝み屋の指示どおり疫病退散の札を貼り、まじないを唱えたが、弾右衛門は呆気なく逝ってしまった。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
藁にもすがりたい思いだったかもしれません。
母が頼りにした祈祷やまじないが父の病に役立たなかった経験は、後に看護の道へ進む娘・和さんの記憶に残り続けます。
和さんを嫁ぎ先に送り出した哲さんは、残された次男・衛さんと三女・釛さんを育てあげる覚悟を決めました。
時期はわかりませんが、裁縫の塾を開いて教えていたそうです。
娘の結婚と離婚
夫の死と同じ年、娘・和さんが後妻として入ったのは、栃木の大地主の家。
哲さんは娘に花嫁衣装を縫って、送り出しました。
1880年(明治13年)
娘の夫に婚家公認の妾がいると知らされた哲さん。
手紙で我慢するよう諭しますが、和さんが3歳の六郎さんを連れて里帰り出産のため帰省すると、孫可愛さに大関家へ戻ることを承諾しました。
「孫たちの母親」として
和たちきょうだいに「母上」と呼ばせていた哲は、「お母様」を下品だと嫌うが、和は相応な呼び方だと思っている。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
家を支えるため、和さんが女中の職を選んだ際、哲さんは『元家老の娘が……』と難色を示しました。しかし、和さんの留守中は愛情を持って孫たちを育て、彼女の決意を静かに支え続けます。
その頃、和さんが仕事先で教わってきたのがフレンチトースト『パン・ペルデュ』でした。哲さんがこれを作って孫たちに振る舞うようになると、いつしかそれは大関家の『おばあちゃんの味』として定着していきます。
女中仕事が終わると英語を習い、休日は教会へ通い、ひたむきに学ぶ大関和さん。そんな娘を哲さんが支え続けた月日は、やがて和さんが桜井女学校の看護婦養成所へと入学し、日本の看護の道を切り拓く原動力となっていくのでした。
哲さんの反対さえ和さんのモチベーションになったのかもしれません。
和が看護学校に入るにあたり、哲は予想通り「せっかく鹿鳴館の仕事に就けたというのに、看護婦に身をやつすとは」と言って反対した。「男女七歳にして席を同じうせず」を地で生きてきた哲にとって、見知らぬ男に付き添って看護をするなど下賤極まりない行為であった。。しかし和が、会津藩出身の大山捨松と新島八重が看護学校の設立に関わった話を聞かせると、もう何も言わなくなった。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
当時、看護婦の卵だった和さんは、2年間、学生寮に入寮しなければなりませんでした。
さらに卒業後も新潟県高田への単身赴任など、家を空ける日々が続きます。
和さんが「日本のナイチンゲール」への道を突き進むことができたのは、哲さんが孫である六郎さん・心さんの育ての親となり、家庭という土台を守っていたからに他なりません。
経済を支えるのは娘、家庭を守るのは母。
哲さんは大関家にとって、文字通り「もう一人の母親」でした。
長男、孫たちの死
1907年(明治40年)
孫・六郎さんの配偶者・操さんは、貧民救済活動のなかで、ある男性に出会います。
「死ぬ前に一度、生まれ故郷に帰りたい」
そう口にするその男性は、結核に罹りすでに喀血していました。
その男性こそ哲さんの長男・復彦さんでした。
そのまま亡くなってしまった復彦さんですが、哲さんは実感がわかなかった様子。
ひょっとすると、何十年も生き別れていた息子のことを以前から「亡くなった者」として考えていたのかもしれませんし、ともに苦労してきた和さんらの前で悲しみを見せないよう努めておられたのかもしれません。
ですが、残酷な運命はこれだけでは終わりません。
我が子のように慈しんだ孫たちが、自分より先に逝ってしまったのです。
1900年(明治33年)
孫娘・心さんが、看護学校在学中に結核を患い、わずか20歳で早逝。
1910年(明治43年)
孫息子・六郎さんが、遠く離れたジャワ島でマラリアに感染。33歳の若さで客死。
心が亡くなった頃から、ぼんやりとしていることが増えた哲は、数年前、再会を果たしたばかりの長男復彦を亡くしたときは、事情が呑み込めなかったのか、あまり悲しんでいる様子はなかった。しかし、忙しい和に代わり大切に育てた孫の六郎の死に際し、霧が晴れたかのように覚醒し、子供時代の思い出話をしては涙を流し続けた。そしてそのまま寝込み、元号が明治から大正へ変わった一九一二年、六郎のあとを追うかのように息を引き取った。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
1912年(大正元年)
哲さんは静かにその生涯を閉じました。
大関和さんという偉大な先駆者の影で、武士の妻としての誇りを持ち、名もなき「家庭の守り手」として全力を尽くした哲さん。
哲さんの無償の愛こそが、日本の看護の黎明期を支える大きな力となっていた――そう確信せずにはいられません。
※原案『明治のナイチンゲール 大関和物語』等の資料を参考にしています。
『明治のナイチンゲール 大関和物語』内には「プライバシーに配慮し仮名とした人物がいる。」とあとがきがあります。

