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三条天皇(居貞親王)と藤原道長の関係

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大河ドラマ『光る君へ』に登場する三条天皇(居貞親王いやさだしんのう・おきさだしんのう)。

いとこの一条天皇よりも4歳年長でありながら、その東宮として25年を過ごしてきた不遇の天皇といわれていますが、その三条天皇は、藤原道長とどのような関係だったのかご紹介いたします。

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三条天皇(居貞親王)と道長との関係

三条天皇(居貞親王)は道長にとって「甥」にあたります。

年齢は、道長が966年生まれ、三条天皇(居貞親王)が976年生まれ
道長が10歳年上です。

父・藤原兼家と母・時姫(ときひめ)には
道隆・道兼・道長という3兄弟と
詮子(円融天皇の妻)
超子(冷泉天皇の妻)
という姉妹がいました。

詮子は第66代・一条天皇の生母
そして
超子が第67代・三条天皇の生母
となります。

また、三条天皇(居貞親王)は花山天皇の異母弟でもあります。
冷泉天皇の第2皇子として生をうけるものの、父帝は精神を患い、母は三条天皇が7歳の時に亡くなります。

 

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三条天皇(居貞親王)の生涯と道長

「不遇」と言われる三条天皇ですが、なぜ不遇と言われるのでしょうか?
外祖父兼家との関係、叔父道長との関係をひもときながら、生涯をご紹介します。

花山天皇譲位⇨一条天皇即位⇨居貞親王東宮に

第63代・冷泉天皇が弟である円融天皇に譲位してから7年後、
976年(天延4年)2月5日。
冷泉上皇と、女御・藤原超子の間に生を受けました。

超子の父は当時正三位権大納言であった藤原兼家ですが、三条天皇(居貞親王)は、祖父・藤原兼家と容姿がそっくりだっため兼家に溺愛されて育ったと『大鏡』に記されています。

道長にとっては父親に可愛がられていた甥。それが三条天皇(居貞親王)だったようです。

一方、異母兄である花山天皇は、兼家との血縁的な結びつきが薄く、徐々に譲位へと仕向けられていきます。

花山天皇はもともと父・冷泉天皇と同様にメンタルの弱い性質があったとも言われています。

花山天皇が寵愛していた藤原忯子が20歳の若さで妊娠中に亡くなると、花山天皇のメンタルは崩壊しかけたよう記されており、兼家の息子・道兼にこのタイミングで出家を勧められた花山天皇は、いわば無理やり仏門に入ります。

(本意ではなかったものの、その後花山天皇は本格的に仏教信仰と仏道修行に励むようになります。)

さて、花山天皇が譲位すると、
詮子の子・懐仁親王が第66代・一条天皇(在位986‐1011)として即位します。

兼家は摂政となり、兼家に推されて11歳の三条天皇(居貞親王)が東宮となります。

一条天皇の摂政となった兼家は、自分の息子など血縁の濃い者を異例の早さで昇進させていきます。
道隆は34歳で非参議から権中納言、権大納言へ
道兼は26歳で参議から権中納言へ
道長は22歳で非参議から権中納言へと昇進しました。

孫(円融天皇系の一条天皇)が天皇となった際、
自らクーデターを起こした相手(花山天皇)の異母弟であるもう一人の孫(冷泉天皇系の三条天皇)を東宮に据えたのは、兼家の自己顕示欲だけではなく、円融天皇と兼家が不仲だったので冷泉天皇系を重んじたのでした。

一条天皇の方が年下ということで「さかさの儲けの君」と言われた三条天皇(居貞親王)。

三条天皇(居貞親王)の後宮には
・藤原兼家の娘・藤原綏子
・藤原済時の娘・藤原娍子
・藤原道隆の娘・藤原原子
が入りますが、兼家の身内である綏子と原子は早世してしまいます。

残ったのは藤原娍子だけ。
娍子は美貌で、三条天皇(居貞親王)から寵愛を受けていました。

藤原道長は次女・藤原妍子を三条天皇(居貞親王)に入内させます。

三条天皇(居貞親王)と娍子の間には敦明親王という皇子がいましたが、妍子はその敦明親王と同じ年でした。

三条天皇即位と道長ハラスメント

1011年(寛弘8年)。
ついにこの日がやってきました。
漢の文帝や唐の太宗になぞらえられる賢帝であった一条天皇が危篤状態に陥り、32歳の若さで崩御する数日前に譲位すると、」
36歳の居貞親王が第67代・三条天皇として即位したのです。
東宮に立ってから25年がすぎていました。

さっそく三条天皇は長年考えていたであろう構想を実現していきます。

1012年(長和元年)。
道長の次女・妍子を中宮とした後、糟糠の愛妻・娍子を皇后とし、「二后並立」を成します。

道長の娘を差し置いて、後ろ盾のない娍子を皇后にしたことに道長は激怒。

娍子の初参内「立后の儀」当日に、娘・妍子の初参内の日をかぶせるという嫌がらせを実行します。

1013年(長和2年)。
妍子は禎子内親王を出産しますが、皇子が産まれなかったことで、道長と三条天皇の関係は悪化します。

三条天皇が藤原氏の操り人形として政を行うことを嫌ったのが対立の理由でもありますが、道長は、娘・彰子と一条天皇の子・敦成親王(後一条天皇)を早く即位させたい本音があったと思われます。

天皇が親政を行う王道政治こそがあるべき政治の姿と考えていた藤原実資は、三条天皇の権威を蔑ろにする道長を「大不忠の人」として、摂関政治を「いよいよ王道弱く、臣威強し」と著書『小右記』に綴っています。

ある時、三条天皇は眼病をわずらいます。
仙丹の服用直後に視力を失ったといわています。
(仙丹は、中国で古代より不老不死の妙薬とされていたものの、毒である硫化水銀・硫化砒素を大量に含んでました)
次第に政治が覚束なくなると、道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫ります。

また、その年から2年続けて、内裏が相次いで焼失。

三条天皇譲位

眼病に加え、脚気など病状の悪化もあり、
1016年(長和5年)。
三条天皇は皇后娍子の子・敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い一条天皇の第2皇子(藤原彰子の子敦成親王)後一条天皇に譲位し、太上天皇となります。

1017年(寛仁元年)4月に出家。
程なく崩御されました。享年42。

失意の三条天皇が病気の時に輝く月を見て詠んだ歌が「小倉百人一首」「後拾遺和歌集」に収められています。

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半(よは)の月かな
(心ならずも、このはかない現世で生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月が。)

 

8月9日。
息子である敦明親王は、道長の無言の圧によりみずから東宮を辞退します。

敦明親王が東宮を辞退したことで、冷泉天皇系の皇位に終止符が打たれます。

皇位は永く円融天皇の直系に受け継がれることになります。

ですが、三条天皇の血脈は、道長の次女・藤原妍子の産んだ禎子内親王(後三条天皇の母)を通じて、以後の皇室へ受け継がれていくのでした。

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三条天皇(居貞親王)の不遇と道長

道長からすると「父に見た目がそっくりな10歳下の甥」である三条天皇。

天皇になった方を「不遇」と称するのはどうかと思いますが、それには大きく次の理由があるようです。

①父・冷泉帝の精神が不安定
②母・藤原超子の早世
③東宮から即位まで25年かかる
④即位すると藤原道長と対立、嫌がらせを受け続け、譲位を迫られ続ける
⑤即位から5年で譲位
⑦病気を患い、42歳で死去
⑧譲位を賭して息子を東宮にするも辞退

8つ挙げてみましたが、道長との対立がもっとも大きな不遇だったようです。

異母兄の花山天皇は愛妻・藤原忯子を寵愛したことで隙を作ってしまい、三条天皇は愛妻・藤原娍子を皇后としたことで道長の逆鱗に触れてしまったというのが、感慨深いですね。

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