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2025年大河ドラマ『べらぼう』田沼意次と田沼時代

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2025年の大河ドラマは

『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(つたじゅうえいがのゆめばなし)。

横浜流星さん演じる蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が主人公です。

蔦重がウォルト・ディズニーにも例えられる商才を開花させた時代、政治の中枢には田沼意次(たぬまおきつぐ:渡辺謙)がいました。

このページでは、蔦重の人生の背景にある田沼意次と田沼時代の政治の一幕をご紹介いたします。

 

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2025大河『べらぼう』田沼意次と「田沼時代」

田沼意次像(静岡県牧之原市:かつて領地だった相良藩)

田沼意次が作りあげた時代が「田沼時代」。「狂乱の時代」とも呼ばれています。

将軍・家重、家治の信頼を得て老中に

田沼意次は、もともとはそれほど身分の高くない旗本(江戸の将軍に直接仕え、領地で穫れる米が1万石未満の幕臣)の家の出身でした。

16歳のとき、次期江戸幕府将軍「徳川家重(とくがわいえしげ)」の身の回りの世話係「小姓」として仕えると、真面目な性格で将軍の信頼を得ます。

江戸幕府9代将軍となった家重はその才能を見出し、田沼意次を一万石の大名に取り立て、跡継ぎ「徳川家治(とくがわいえはる:眞島秀和)」にも

「田沼を重用せよ」

と遺言を残します。

1767年には側用人に、1772年(安永元年)には現代の総理大臣にあたる「老中」の職に就き、政治の中枢として幕政を担っていきました。

これは蔦屋重三郎が吉原大門前に貸本屋『耕書堂』を開業する一年ほど前で、幕府の財政が厳しくなり始めていた頃でした。

田沼時代の政策

田沼意次は、広い視野で物事を考えた大きな政策を次々と打ち出します。

この頃を「田沼時代」と呼びます。

それは、従来通り農民から徴収する年貢だけを頼りにするのではなく、商業を活性化させ商人から税を徴収し財政を再建しようという、当時としては画期的なやり方でした。

たとえば、独占権を与えられた商工業の同業者である「株仲間」を積極的に幕府公認とし、その代わり税金を徴収して幕府の財政を潤そうとしたのです。

また、商人と協力して印旛沼(いんばぬま:千葉県北部の利根川下流南岸の湖沼)や手賀沼(てがぬま:千葉県北部の利根川の湖沼)の干拓事業を手掛けたほか、蝦夷地(現在の北海道)を開拓してロシアとの通商交渉を開始したり、海産物などを輸出することで金銀を流出させずに長崎貿易を活発化させたりもしました。

このように様々な手法で経済を活発化させた田沼意次。

こうして「田沼時代」には商業が発展し、江戸の町は大いに華やぎました。

田沼時代に花開く江戸文化

好調な経済に後押しされて、文化人・知識層の活動が活発化しました。

江戸の文化芸術が花開くと、それにともない一般の人々の間でも識字率が向上。

それが出版文化の隆盛を導くことになりました。

平賀源内(ひらがげんない:安田顕)がエレキテル(摩擦によって静電気を発生させる装置で、見世物や医療器具として使用された)修復し、
杉田玄白や前田良沢たちが海外の医学書を翻訳した『解体新書』を発刊するなど蘭学(オランダ経由の西洋の学問)が発展したのもこの時代です。

一方、本居宣長ら国学者の活動も活発になり、日本各地では各藩が「藩校」と呼ばれる学校を設立することも盛んに行われました。

そんな背景もありながら、文学や美術の世界でも大きな発展が見られ、大衆向けの戯作や浮世絵 などが大いに発展していきます。

ただ、商業に重きを置いた田沼時代の政策をよく思わない武士階級の人間が多かったのも事実です。

商人に寛容で町民文化を発展させた田沼意次を、「賄賂政治家」などと批判するようになったのでした。

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2025大河『べらぼう』田沼時代と災害

順調に経済や文化を発展させた繁栄の時代「田村時代」にかげりが見え始めます。

天明の大飢饉

1782年(天明2年)冷害などを原因とする「天明の大飢饉」が始まります。

さらに、
1783年(天明3年)には上野国(現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)にまたがる浅間山が大噴火を起こします。
火山灰が降り注ぎ、農作物は大ダメージ。
飢饉に拍車をかけました。

それに伴い、困窮した町民や農民らが豪商を襲う打ち壊しや、百姓一揆などが全国的に相次ぎます。

世論は、急に田沼意次をバッシングするようになりました。

嫡男の死と家治の死

田沼意次にさらなる不幸が襲います。
当時、若年寄りとして政治の中心にいた田沼意次の嫡男・田沼意知(たぬまおきとも:水沢氷魚)が、佐野政言(さのまさこと:矢本悠馬)によって江戸城内で切られ、後に亡くなるという事件が起こったのです。

刺殺は父・意次と別居するため新たな屋敷を構えた直後のことでした。

事件後、佐野政言は切腹を命じられます。

ですが、世間は、佐野政言を「世直し大明神」ともてはやしました。それほど世の中は田沼意次に対して不満が高まっていたのです。

殺害の動機は個人的な恨みだとされましたが、

オランダ商館長イサーク・ティチングは

「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」

「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」

と書き残しています。

1786年(天明6年)
利根川の氾濫により大洪水が起こりました。

田沼意次が主導していた印旛沼や手賀沼の干拓事業も失敗に終わってしまいます。

その直後、田沼意次の後ろ盾であった10代将軍・徳川家治が亡くなってしまいます。

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2025大河『べらぼう』田沼意次、失脚

ついに田沼意次は失脚。その晩年は寂しいものでした。

田沼意次、老中罷免

ついに田沼意次は老中を罷免されました。

5万7000石の領地は1万石に減らされ、城も奪われて本人は蟄居。かろうじて許されたのは、孫が家名を継ぐことだけでした。

こうして一時代を作り上げた田沼意次は完全に失脚しました。

1788年(天明8年)失意のうちにこの世を去りました。

失脚の要因

田沼意次失脚の要因を見てみると、大噴火などの天変地異の頻発や大凶作・大飢饉は自然災害であり、政治家一人の力では制御不能なことです。

それなのに田沼意次 1人が世間の恨みを買ったのはなぜでしょうか?

それは反田沼派の暗躍があったとささやかれています。

反田沼派は、商人ばかりに目をかけて賄賂などを横行させ、武士中心の社会を退廃させたとして、田沼意次の中傷し悪い噂を喧伝したのだと言われています。

その代表格が、次の世を担う松平定信(まつだいらさだのぶ:寺田心)でした。

 

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