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『大鏡』「花山天皇の出家」原文・現代語訳・登場人物あはれなることは、おりおはしましける夜は

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こちらのページでは、

2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』の原作ともいえる『大鏡』の中の
「花山天皇の出家」について
登場人物や原文・現代語訳をご紹介しています。

原文を読むことで、なお一層ドラマを味わえるかと思います。

古文の中でも尊敬語が多発している場面ですので、試験対策にもお役立ていただければ幸いです。

 

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『大鏡(おほかがみ)』概要

【作者】
不詳。
源氏の貴族階級で藤原道長をよく知っていた人物だと思われます。
【執筆時期】
不明ですが、1025年のことなので、それ以降で、11世紀末までに成立したと推測されています。
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『大鏡』「花山天皇の出家」あはれなることは|登場人物

■花山天皇(かざんてんのう)…冷泉天皇の第一皇子。
17歳で即位するもその翌年、寵愛していた弘徽殿の女御(藤原忯子)が懐妊中に亡くなってしまいます。
深く悲しんでいるときに側近の藤原道兼に誘われ19歳で出家してしまい、花山院となりました。

■粟田殿(あわたどの)…藤原道兼のこと。
東三条殿(藤原兼家)の三男。蔵人として花山天皇に仕えていました。
父・兼家の指示で、花山天皇を出家させました。

■東三条殿(ひがしさんじょうどの)…藤原兼家。粟田殿(藤原道兼)の父。
娘・詮子の子である春宮(円融天皇の第一皇子・懐仁親王、のちの一条天皇)を即位させようと企みます。

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『大鏡』「花山天皇の出家」あはれなることは|【内容】

『大鏡』は藤原氏の栄華がどうやって成されたのかを描いた歴史物語です。
雲林院の菩提講で、190歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)という翁が、180歳の夏山繁樹(なつやまのしげき)という翁とその妻に昔のことを語っている様を書き留めた、という形式で話が進みます。

 

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『大鏡』「花山天皇の出家」あはれなることは|原文・現代語訳

 

永観二年八月二十八日、位につかせ給ふ。御年十七。

(花山天皇が)永観二年八月二十八日、ご即位なさいました。御年は十七歳。

寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、人にも知らせさせ給はで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしこそ。御年十九。

寛和二年丙戌六月二十二日の夜、驚きあきれましたことは、人にも知らせなさらないで、ひそかに花山寺においでになって、ご出家入道なさったこと。御年は十九歳。

世を保たせ給ふこと二年。その後二十二年おはしましき。

世を治めなさること二年。その後は二十二年間ご存命でおられました。

あはれなることは、降りおはしましける夜は、藤壺の上の御局みつぼねの小戸こどより出でさせたまひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、

心が痛く思われることは、退位なさった夜、藤壺の上のお局の小戸からお出になったところ、有明の月がとても明るかったので、

 

「顕証けんしょうにこそありけれ。いかがすべからむ。」
と仰せられけるを、(花山天皇が)
「明るくて目立つなあ。どうしたらいいだろうか。」
とおっしゃるので、
「さりとて、とまらせたまふべきやう侍らず。神璽しんし・宝剣渡りたまひぬるには。」
と粟田あはた殿の騒がし申したまひけるは(蔵人としてお仕えしている粟田殿が)
「そうはいっても、おやめになるわけにはまいりますまい。神璽・宝剣は(皇太子に)お渡りになってしまったことですし。」
と粟田殿がせき立てて申し上げなさったのは、

まだ帝出でさせおはしまさざりける先に、手づからとりて、春宮とうぐうの御方に渡したてまつりたまひてければ、帰り入らせたまはむことはあるまじく思おぼして、しか申させたまひけるとぞ。

まだ天皇がお出ましになっていないうちに、(粟田殿自身が、神璽と宝剣を)みずから取って、皇太子のほうにお渡し申し上げなさっていたので、(天皇が宮中に)お帰りになるようなことがあってはなるまいとお思いになり、そのように申し上げなさったということだ。

さやけき影を、まばゆく思しめしつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、

(天皇が)明るい月の光を、まぶしくお思いになっていたところに、月の表面に一群れの雲がかかって、少し暗くなってきたので、

「わが出家は成就するなりけり。」
と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、「私の出家は成就するのだなあ。」
とおっしゃって、歩き出しなさったところ、

 

弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)の御文の、日ごろ、破やり残して、御身も放たず御覧じけるを思しめし出でて、

(天皇は、亡くなった)弘徽殿の女御(藤原忯子)から送られたお手紙で、常日頃から破り捨てず残して、肌身離さず持ってご覧になっていたのを思い出しなさって、

「しばし。」
とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、「ちょっと待て。」
と言って、取りに戻りなさった時のことだよ、
粟田殿の、
「いかに、かくは思しめしならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」
と、そら泣きしたまひけるは。
粟田殿が、
「どうして、こんなに(未練に)お考えになられるのか。たった今の機会を逃せば、自然と支障も出て参りましょう。」
と、嘘泣きなさったのは。
花山寺におはしまし着きて、御髪みぐし下ろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、
「まかり出でて、大臣おとどにも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内あない申して、必ず参りはべらむ。」
と申し給ひければ、花山寺にお着きになり、剃髪して出家なさった後に、粟田殿は、
「(私は一旦)退出して、父の大臣にも、(私が出家する前の)変わらぬ姿を、もう一度見せて、事情を申し上げて、必ず(ここに戻って)参上いたしましょう。」
と申し上げなさったので、

 

「朕われをば謀るなりけり。」
とてこそ泣かせたまひけれ。あはれに悲しきことなりな。(天皇は)
「私を騙したのだな。(戻ってくるというのは嘘だろう。)」
とおっしゃって、お泣きになったんだ。お気の毒で悲しいことだ。
日ごろ、よく、
「御み弟子にて候さぶらはむ。」
と契りて、すかしまうしたまひけむが恐ろしさよ。
日頃、よく(粟田殿が)
「(天皇が出家なさったら私も出家して)お弟子として仕えましょう。」
と約束をして、だまし申し上げなさっていたことの恐ろしさよ。
東三条殿は、
「もしさることやしたまふ。」
と、危ふさに、さるべくおとなしき人々、何がしかがしといふいみじき源氏の武者むさたちをこそ、御送りに添へられたりけれ。東三条殿(道兼の父・兼家)は、
「もしかしたら、そういうこと(出家)をなさるかもしれない。」
と、危惧して、然るべき分別のある人々で、誰それという立派な源氏の武者たちを、お見送りにおつけになった。

京のほどは隠れて、堤の辺わたりよりぞうち出で参りける。

(武者たちは)京の町中あたりでは隠れていて、(鴨川の)堤のあたりからは姿を現して参上した。

寺などにては、
「もし、押して、人などやなしたてまつる。」
とて、一尺ひとさくばかりの刀どもを抜きかけてぞ守りまうしける。
(花山)寺などでは、(武者たちは)
「万が一、無理強いして、誰かが行動(=粟田殿を出家させること)し申し上げるのでは。」
といって、一尺ほどの刀を抜きかけて(粟田殿を)お守り申し上げたんだよ。
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