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朝ドラ『虎に翼』原爆裁判の経緯と判決文

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2024年度前期NHK連続テレビ小説『虎に翼』で伊藤沙莉さん演じる主人公「猪爪(佐田)寅子」のモデルとなるのは、日本初の女性弁護士「三淵嘉子(みぶちよしこ)」さん。

三淵嘉子さんは日本の歴史上で初めて法曹界に飛び込んだ女性ですが、世界的に重要な裁判「原爆裁判(原爆訴訟)」の裁判官も務められました。

こちらでは、「原爆裁判」の概要や経緯をご紹介していきます。

 

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「原爆裁判」とは

広島・長崎でアメリカの原子爆弾投下により被爆した5名が
1955年(昭和30年)4月
日本政府を相手取り損害賠償訴訟を起こした裁判です。
原告の名をとって「下田訴訟(シモダケース)」とも言われています。

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「原爆裁判」5名の原告

下田隆一さん
(広島市中広町)
広島で被爆し、長女16歳、三男12歳、二女10歳、三女7歳、四女4歳が爆死。
ご自身もケロイド、腎臓・肝臓に障害が残り、就業不能となります。

浜部寿次さん
(東京都新宿区)
東京に単身赴任中、長崎で妻と4人の娘たち全員が爆死。

多田マキさん
(広島市皆実町)
広島で被爆 顔、肩、胸、足に大きなケロイド。
ひどい痛みで就労が続かず、夫に醜さが原因で家出されます。

岩渕文治さん
(兵庫県宝塚市)
広島での原爆投下により、養女とその夫、その子どもを亡くします。

川島登智子さん
(大阪府寝屋川市)
14歳、広島で被爆し、顔、左腕などを負傷。
両親を原爆で亡くします。

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「原爆裁判」の弁護士

岡本尚一弁護士
戦後の裁判を引き受けた際、連合国側が原爆投下に対して何らの反省も示さなかったことから「原爆訴訟」の提訴を決意されました。
歌人でもあり、原爆の悲惨を歌った歌集「人類」を著しています。

松井康浩弁護士が後を引き継ぎます。

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「原爆裁判」の裁判官

裁判長:古関敏正
裁判官:三淵嘉子、高桑昭
国際法学者:高野雄一、田畑茂二郎、安井郁

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「原爆裁判」の主張

原爆投下は国際法違反である。
原爆の被害を与えたアメリカに対する原告の損害賠償請求権が、国が締結したサンフランシスコ講和条約により放棄されてしまった。
憲法29条3項(私有財産の正当な補償)により補償されるべきであるという主張です。

サンフランシスコ講和条約とは
1951年9月8日日本の主権の回復が認められた平和条約。
・戦争状態の終結、日本の主権の回復
・朝鮮半島・台湾など領土の放棄
・国際協定の受諾
・賠償
日本には戦時賠償の義務が課せられましたが、アメリカは冷戦の中で日本を共産主義の防壁に育てる方針に転換したため、対日賠償請求権を放棄しました(連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄)
と同時に、日本のアメリカへの賠償請求権も放棄しています。
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「原爆裁判」の経緯

では、三淵嘉子さんの担当した「原爆裁判」の経緯を時系列でご紹介します。

1954年(昭和29年)1月8日|「原爆損害求償同盟」発足

「原爆損害求償同盟」というアメリカ政府に訴訟を起こすグループの発起人総会が開かれます。

【メンバー】
弁護士:岡本尚一、海野晋吉
作家:大田洋子
平和運動関係者:関屋正彦氏ら10名

【主張】
死者1人あたり100万円の代償金

岡本弁護士
原爆は必然的に人民を殺傷しようとする凶器で、これを投下したことは無意志の人民を殴殺したものと考える。
アメリカの良心的な裁判官もわれわれの訴えには賛意するものと確信している。
大田洋子氏
原爆使用というアメリカの過去の罪は罪としてあくまで追及するべきです。
一方がこうした訴えをすることで将来人類の歴史から戦争を放棄するべく世界の各国民によびかけるのは当たり前のことでしょう。

1954年(昭和29年)3月|国際人権連盟議長から拒絶

ニューヨークの国際人権連盟議長・ロジャー・ボールドウィン氏から「原爆損害求償同盟」の協力を断る書状が届きます。

ロジャー・ボールドウィン氏
原爆賠償の訴訟が成立するなら焼夷弾による被害者も賠償請求できる。
原爆訴訟は法律的に根拠がなく、日米関係にも有害。

 

1955年(昭和30年)4月25日|「原爆訴訟」(東京)

下田隆一さん、多田マキさん、浜部寿次さんが、日本政府を相手取り「原爆訴訟」を起こし、賠償金としてそれぞれ30万円、20万円、20万円を求めます。

弁護士:岡本尚一(原水爆損害求償・使用禁止同盟理事長)
政府は米国と平和条約を締結した際、戦争によって生じた一切の損害賠償請求権を放棄した。
従って国は個人の受けた損害を賠償すべき。

日本政府が勝手に権利を放棄したせいで、国民が損失を被っているので、保証すべきという主張ですね。

1955年(昭和30年)4月27日|「原爆訴訟」(大阪)

岩淵文治さん、川島登智子さんが大阪で「原爆訴訟」を起こし、それぞれ20万円を求めます。
東京の裁判と同じ岡本尚一弁護士が代理人となります。

1955年(昭和30年)7月16日|第2回公判準備手続き

東京地裁で第2回公判準備手続きが行われます。
国は請求棄却を求めています。

1958年(昭和33年)4月5日|岡本尚一弁護士死去

代理人である岡本尚一弁護士(67歳)が病死します。

1960年(昭和35年)2月8日|第1回口頭弁論

東京地裁で第1回口頭弁論が開かれます。
争点は「原爆投下が国際法違反かどうか」

日本政府
原爆投下が戦争を早く終わらせ、より多数の人命殺傷を防ぐために用いられたのなら、国際法違反とは言えない

1963年(昭和38年)1月29日|弁論再開

弁論再開。
東大、京大、法政大学教授による鑑定が出揃います。

田畑茂二郎京大教授、高野雄一東大名誉教授、安井郁法政大教授
無差別の原爆投下は国際法違反

1963年(昭和38年)12月7日|判決

古関敏正裁判長、三淵嘉子裁判官、高桑昭裁判官による判決がくだされます。
すべての口頭弁論に出席したのが、三淵嘉子裁判官でした。

古関敏正裁判長
原子爆弾の投下は無防備都市に対する無差別爆撃で国際法上違法である。
しかし、損害賠償請求権は国際法上も国内法上も個人にない
原爆犠牲者には深く同情する。できれば戦争による災害を少なくし十分な救援策を講じたい。
しかし、これは当裁判所の職責ではない。

米軍による広島・長崎への原爆投下は、国際法が要求する軍事目標主義に違反し、さらに原爆は非人道的兵器であり、「戦争に際して不必要な苦痛を与えてはならない」との国際法に違反するという結論でした。

この判決が出るに至るまで実に8年の歳月を要しました。

その間に、原告である岩淵文治さんは死去し、亡き岡本尚一弁護士の後を松井康浩弁護士が引き継ぎました。

【判決文一部抜粋】
人類の歴史始って以来の大規模、かつ強力な破壊力をもつ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争を全く廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである。
けれども、不幸にして戦争が発生した場合には、いずれの国もなるべく被害を少なくし、その国民を保護する必要があることはいうまでもない。このように考えてくれば、戦争災害に対しては当然に結果責任に基く国家補償の問題が生ずるであろう。現に本件に関係するものとしては「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは、とうてい原子爆弾による被害者に対する救済、救援にならないことは、明らかである。国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告〔国〕がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。
しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続きによってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法及び立法に基く行政の存在理由がある。戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。

1963年(昭和38年)12月26日|控訴断念・判決確定

岩淵文治さん以外の原告4名が控訴を断念。
翌27日に判決が確定しました。
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「原爆裁判」まとめ

米国との友好を損ないかねない「原爆裁判」は、協力者が少なく原告にとって困難を極めました。

原爆投下の違法性を明らかにし、同時に被爆者を救援する「原爆裁判」。
前者は叶い、後者は当時まだ被爆者を救護できていない日本政府を促します。
核爆弾の使用が国際法に反するという最初の判例となった「原爆裁判」はその後、世界における核抑止力としても大きな意味をもたらしました。
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