こちらでは、「栃木実父殺害事件」について紹介します。
朝ドラ『虎に翼』の事件でも取り上げられる「尊属殺人の重罰規定」に係る実際の事件の一つとしてもっとも知られている事件となっています。
お役立ていただけましたら幸いです。
栃木実父殺害事件|概要
1968年(昭和43年)10月7日、8日
「娘が父親を絞め殺す」
「熟睡中にヒモで 娘の恋愛からけんか」
「乱暴され発作的に」
という見出しが地方新聞の見出しを飾ります。
1968年10月5日夜
栃木県矢板市の市営住宅六畳間栃木県宇都宮市で起こったこの事件は、のちに社会を震撼させる事実をはらんでいました。
実の父親を殺めた娘(29歳)は、14歳のときから長年にわたり実父(53歳)に近親相姦を強いられ続けていたというのです。
娘は実の父との子を5人出産。
2人の子が亡くなり、父親と3人の子供、5人で暮らしていました。
4度の中絶手術を受け、これ以上妊娠しないよう不妊手術も受けさせられていたのでした。
栃木実父殺害事件|経緯
まず、事件の経緯です。
父と娘の関係
娘が初めて実父に乱暴されたのは中学2年の三学期。
母親に相談しても
「どうりで私のところにこなくなったからおかしいと思っていた(原文ママ)」
と言われただけでしたが、夫婦仲は悪化していきます。
娘が16歳のときに母は弟たちを連れて北海道へ出ていくもののほどなくして戻ってくると、娘を求める父親を止めに入った母親も暴力を振るわれる日々が続きました。
娘は何度か脱出を図りますが、父親は酒癖が悪く、酔うと刃物を持ち出し半狂乱になって連れ戻されてしまいます。
17歳で初めて父親の子供を出産すると、逃げる気力が失われていきました。
あきらめると同時に子供は産まれ続け、父親と娘、その子供で事件の現場となる市営住宅に引っ越します。
その様子は、一見すると平凡な家族のように見えたと言います。
初めての恋
青春時代を味わうことなく、逃げ出そうとすれば暴力で引き戻される地獄のような日々を送る娘でしたが、家計の足しにと、下の子が幼稚園に入園すると近所の印刷工場に勤め始め、そこで7歳年下の男性と恋に落ちます。
娘29歳。男性22歳。
工場勤務が終われば一緒に駅まで帰ったり、喫茶店に寄ったりして身の上話などをするものの、夫婦のように暮らしている男が実の父親だとはとても言い出せませんでした。
ただ、私の初めての恋だったのです。
事件
男性に結婚を申し込まれ、娘は父親に話します。
「父ちゃん、今からでも私を嫁にしてくれるという人があったらやってくれるかい」
父親は、烈火のように激怒し、刃物を持ち出します。
「今から相手の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる」
「勤めをやめて家にいるから、いかないで」
娘は止めに入ります。
ある日、外に出ようとした娘が父親につかまり、衣服を剥ぎ取られ悲鳴をあげたところで、近所の人たちが駆けつけました。
いったんバス停まで逃げ出した娘ですが、追いかけてきた父親に連れ戻され、体を求められ続けます。
「生活をめちゃくちゃにしてやる」
「どこまでも追いかけて苦しめてやる」
「この売女」
と、娘を監禁する父親。
監禁10日後、追い詰められた娘は、泥酔した父親の首に腰紐を巻き付けました。
首を絞められながら、父親は
「くやしいか」
と何度も娘に問い、娘は絞め続けたということです。
栃木実父殺害事件|判決
事件はどのような判決がくだされたのでしょうか?
争点は「刑法第200条」
この事件は、最高裁までもつれ込みました。
争点は「普通殺人」「尊属殺人」どちらを適用するのか、ということでした。
刑法第200条は、
と尊属への殺人を重罰と定めており、「尊属殺人」の場合は執行猶予がつかず実刑になるケースがほとんどでした。
判決
1970年(昭和45年)5月
一審:宇都宮地裁は「尊属殺人の重罰規定は違憲」
通常の殺人罪を適用したうえで、心神耗弱での過剰防衛。
と判断しました。
検察は控訴します。
二審:東京高裁は「尊属殺人の重罰規定は違憲ではない」
心神耗弱、情状酌量の上で
懲役3年6月を言い渡しました。
弁護側が上告します。
1973年(昭和48年)4月4日
最高裁は「尊属殺人の重罰規定は違憲」
懲役2年6月に減刑し、3年の執行猶予をつけました。
尊属殺の重罰規定を巡って違憲か合憲かが争われた裁判で、最高裁判所が初めて違憲審査権を発動し、刑法200条は違憲であるとの判断を下したことは、実に画期的でした。
穂高のモデル・穂積重遠氏が1950年10月、尊属殺人の重罰規定は違憲とする意見を出してから実に23年が経っていました。
桂場等一郎のモデル|石田和外
『虎に翼』で寅子の父・直言が逮捕される「共亜事件」と呼ばれる事件のモデルとなったのは「帝人事件」でも名判決文を起案したのも、松山ケンイチさん演じる桂場等一郎のモデル・石田和外さんです。
事件が事実無根であることを強調するため、
「水中に月影を掬するが如し」
という名文句を使って全員に無罪を言い渡し、
「司法界に石田あり」
と一躍注目されました。
石田和外さんは福井県に生まれ、父が他界したことで一家で上京。
東京帝国大学(東京大学)法学部を卒業し、司法省に入省されます。
第5代最高裁判所長官に就任した際には就任時には
「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」
と述べ、司法の独立を守ろうとされました。
剣道家としても有名で、第2代全国剣道連盟でもあります。