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『虎に翼』よね・花岡・桂場・穂高・久藤・多岐川・星などモデル一覧

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朝ドラ『虎に翼』は主人公をはじめ、多くが実在の人物をモデルにして描かれています。

実際のモデルのエピソードを知ることでより深くドラマを楽しめるかと思います。

こちらのページでは、モデルとなった人物を一覧表で、また、一人ひとりをクローズアップしてお届けします。

寅子の再婚相手である星航一との出会いについても触れていますので、お楽しみいただけましたら幸いです。

 

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『虎に翼』 よね・桂場・穂高・久藤・多岐川・星モデル一覧

ではさっそく主要登場人物の実在モデルをご紹介します!

 

役柄 役名 モデル
主人公 猪爪寅子いのつめともこ 三淵嘉子みぶちよしこ 快活で歌とダンスが得意。場の空気を和らげる話術。酒豪。
猪爪いのつめはる 武藤むとうノブ お嬢様。
「女性は結婚して家庭に入って守るべき」
猪爪直言いのつめなおこと 武藤貞雄むとうさだお 婿。エリート。
「職業をもった自立する女性になってほしい」
佐田優三さだゆうぞう 和田芳夫わだよしお 優しく朴訥で無口。
女性弁護士仲間 山田よね・久保田聡子くぼたさとこ 久米愛くめあい 女性運動の指導的役割。
「スラックスでつかつか歩いてくるイメージ」
裁判官 花岡悟はなおかさとる 山口良忠やまぐちよしただ 「法を裁く人間が闇米を食べることなどあってはならない」
女子部設立 穂高重親ほだかしげちか 穂積重遠ほづみしげとお 女権拡張に尽力。渋沢栄一の孫。
名裁判官 桂場等一郎かつらばとういちろう 石田和外いしだかずと 帝人事件の名判決文。
家庭局総務局長 久藤頼安くどうよりやす 内藤頼博ないとうよりひろ アメリカ帰りの頭脳明晰なイケメン上司。
家庭裁判所の父 多岐川幸四郎たきがわこうしろう 宇田川潤四郎うだがわじゅんしろう 嘉子と共に家裁を設立。オープンな人柄。
義父 星朋彦ほしともひこ 三淵忠彦みぶちただひこ 初代最高裁判所長官
再婚相手 星航一ほしこういち 三淵乾太郎みぶちけんたろう 裁判官

 

一人ひとりご紹介いたします。

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『虎に翼』 猪爪寅子のモデル|三淵嘉子

女性検事の第2号となった佐賀小里さんによると

三淵嘉子さんは、

丸ぽちゃでおしゃべり好きの明るい人

だそうです。

猪爪寅子のモデル・三淵嘉子さんは、1914年(大正3年)台湾銀行シンガポール支店に勤務する父のもと、シンガポールで生まれました。
帰国すると、4人の弟たちから慕われる快活な少女に成長。
宝塚歌劇団のファンでダンスが得意な嘉子さん。
女学校に入学するとたちまち人気者になりました。
謝恩会で「青い鳥」のチルチルを演じ、上級生のアイドル的存在になったのでした。

父の勧めで法律を学ぶため進学を決意します。
母には反対されましたが明治大学専門部女子部法科に入学。

1938年(昭和13年)高等試験司法科に挑み、同じ明治大学出身の中田正子さん、久米愛さんと共に合格。
「女性弁護士誕生!」と大きく取り上げられました。
戦後、当時のことを振り返り、「女性を強調する報道に違和感があった」と発言しています。

これが『虎に翼』30話の名演説につながっているのですね!

 

弁護士としてのスタートを切った嘉子さんが伴侶として選んだのは武藤家に書生として住み込んでいた和田芳夫さんでした。

夫を戦病死で失うと、翌年には両親が相次いで死去。
息子と3人の弟を背負って立ち尽くしました。

戦後、日本国憲法が交付されます。
嘉子さんは裁判官としての採用を願い出ますが、まずは 民法の改正作業に関わることになります。

その後、全国に家庭裁判所が設立されると嘉子さんはその司令塔となる最高裁定局に配属されました。

戦災孤児や傷ついた人たちの再出発を支援する家庭裁判所の理念に共鳴した嘉子さんは、懇親会の席で当時流行していた「りんごの歌」やシャンソンを歌って大いに盛り上げました。

41歳になった嘉子さんは裁判官の三淵乾太郎さんと結婚します。
お互いに連れ子がいる再婚でした。
嘉子さんは乾太郎さんの子供たちと衝突しながらも、育て上げ社会に送り出しました。

その後、新潟、浦和、横浜で家庭裁判所の所長として定年まで勤め上げ、職員たちから「うちのお母さん」と呼ばれ、慕われたそうです。

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『虎に翼』 猪爪はるのモデル|武藤ノブ

猪爪はるのモデルは武藤ノブさんです。

石田ゆり子さんが演じます。

地元は香川県丸亀市。

『虎に翼』では、はるさん手作りの香川県の郷土料理「醤油豆」が食卓を彩ります。

ノブさんは幼いころに父を亡くし、伯父夫婦に育てられます。

この伯父夫婦の姓が武藤。

不動産業や金貸し業を営んでおり、裕福な家庭の出身のお嬢さまとして育ちますが、朝から晩まで女中のように働かされていたという話もあります。

夫の貞雄さんとは異なり、

「女性は結婚して家庭に入って守るべき」

という当時の一般的な考え方を持ってました。

三淵嘉子さんが弁護士になることを決意し

明治大学専門部女子部法科を目指すため母校の卒業証明書をもらって家に帰ると

「嫁に行けなくなった」

と泣いたというエピソードが残っています。

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『虎に翼』 猪爪直言のモデル|武藤貞雄

父親である猪爪直言のモデルは、武藤貞雄さんです。

岡部たかしさんが優しく、妻に少し尻に敷かれる婿を演じられます。

明治19年生まれで武藤家の養子として迎えられました。

父親の旧姓は宮武。香川ではポピュラーな名字です。

香川県の丸亀中学を経て一高に進学し、最終的に東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。

大学卒業したのちは台湾銀行のシンガポール支部で働き始めます。

シンガポールで三淵嘉子さんが第一子として誕生。

その後ニューヨーク支店勤務を経て

1920年に台湾銀行東京支店日本に帰国し、

一家で東京都渋谷区で暮らします。

当時の日本では

「女性は家庭に入ることが一番」

という考え方が主流でしたが

貞雄さんは、

「職業をもった自立する女性になってほしい」

という現代的な考えを持っていました。

娘の嘉子さんに対しても

「何か専門の仕事を持ちなさい。医師や弁護士はどうかな?」

と先進的な考えを伝えていたとのこと。

三淵嘉子さんは、父の影響を受けて育ったことがわかります。

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『虎に翼』 佐田優三のモデル|和田芳夫

昭和16年(1941年)11月5日に、実家に書生として出入りしていた和田芳夫さんと結婚します。

嘉子さん28歳のときでした。

芳夫さんは、嘉子さんの父・貞雄さんの親友の親戚で、「夜学」といわれる明治大学の夜間部を卒業し紡績会社で働いていました。

優しく朴訥で無口なお人柄で、お二人はとても仲が良かったそうです。

結婚後に同僚には

「男の人っていざというときには意気地がないのね。なかなか結婚しようって言ってくれなかったわ」

と話していて、主導権が嘉子さんにあったことがうかがえます。

2年後の1943年1月には第一子の長男:芳武(よしたけ)さんが誕生。

しかし、芳夫さんは

翌昭和19年(1944年)6月に徴兵されています。

終戦後、上海から引き揚げ直後の

1946年5月23日に長崎の陸軍病院で肋膜炎のため亡くなり、死に目には会えなかったそうです。

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『虎に翼』 山田よね・久保田聡子のモデル|久米愛

女性検事の第2号となった佐賀小里さんによれば、

久米愛さんは、スラックスでつかつか歩いてくるイメージ。

中田正子さんや三淵嘉子さんと共に日本初の女性弁護士となり世間を沸かせた久米愛さん。

山田よねは物語上では日本初の女性弁護士とはならず、久米愛さんとは違いますが魅力的な役柄です。

また、寅子たち明律大学女子部法科の先輩である久保田聡子。
ものごとをはっきり言う性格で、面倒見が良く、密かに後輩に慕われています。女性初の弁護士になる役どころで、こちらも久米愛さんのイメージですね!

1911年(明治44年)に大阪で生まれ、夕陽丘高等女学校、津田英学塾(現・津田塾大学)で英語を学んだ後、明治大学専門部女子部に入学されます。

当時、女性は良妻賢母になるという考え方が一般的でしたが、 久米愛さんは自由主義、個人主義の持ち主でした。

「ひとりぼっちでいてもなお自分を捧げられる仕事が欲しい」

と婚約者に宛てた手紙につづっていたそうです。

1938年(昭和13年)に結婚し 3人の子供を授かります。

夫は戦争に駆り出され、子連れで疎開をされました。戦後すぐにご長男を4歳で亡くされています。

1946年(昭和21年)明治大学短期大学教授に就任。

飾り気のない明るい誠実な人柄。
的確で合理的な判断。
まやかしを許さぬ 厳しさを持ち合わせておられたと言われています。

久米愛さんは三淵嘉子さんととても仲がよく、家族ぐるみのお付き合いもありました。

「久米さんは付き合えば付き合うほど素晴らしい人でした。
私は始終彼女を尊敬して、そして心の底から好きでした。」

と三淵嘉子さんは語られています。

女性の法律家のトップとしても注目を浴びています。
1950年(昭和25年)には 婦人使節団の1人として約4ヶ月のにわたりアメリカ各地を見学。
そこでアメリカのように日本での女性の地位を向上させるべく、女性 のために働く決意を固めたと言います。

帰国後日本婦人法律家協会(現・日本女性法律家協会)を設立し会長に就任。
三淵嘉子さんが副会長を務めます。

1959年以降は政府代表として度々国連総会に出席し、亡くなるまでの26年間、会長職を務めあげます。

そんな多忙な日々でも、家事をテキパキこなし、料理上手で子供にも愛情を注ぐなど家庭とも両立されていたということです。

女性運動において指導的役割を果たされた久米愛さんでした。

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『虎に翼』 花岡悟のモデル|山口良忠

佐賀県出身の裁判官・山口良忠さんが、花岡悟のモデルだと考えられます。

大学は京都帝国大学(京都大学)なので三淵さんと学友ではありませんが、ドラマの花岡とは大きな共通点があります。

第二次世界大戦中に活躍されましたが、34歳という若さで亡くなる山口良忠さん。

終戦後の食糧難の時代に、

「法を裁く人間が闇米を食べることなどあってはならない」

という信念のもと”闇米”をいっさい口にせず、食糧管理法に沿った配給食料だけを食べ続けた結果、栄養失調で餓死してしまいます。

その配給も、ほとんどを妻や2人の子ども達に食べさせており、自身は粥の汁をすすって生活していたそうです。

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『虎に翼』 穂高重親のモデル|穂積重遠

寅子を温かく導く穂高重親のモデルは、嘉子さんら女性法律家誕生の実現に深く関係した民放学者・穂積重遠さんです。

穂積さんは、渋沢栄一さんの初孫。
その影響で特に社会事業への関心を受け継いでおられました。

東京帝国大学(東京大学)法学部卒業後、講師に就任。
結婚後の欧米留学の辞令により、ドイツ・フランス・イギリス・アメリカに留学します。 この留学経験が人生の基軸を形成することになったそうです。

帰国後は東京帝国大学の教授に就任。
穂積さんは女性にも法律が必要だと考え、嘉子さんの母校である明治大学女子部の創設や 弁護士法改正に情熱を注ぎます。
女子部の開校式では、教師代表の挨拶で法律を学ぶ女性たちへ期待あふれる言葉を贈っておられます。

また、女性運動家の支援者という側面もあり、
平塚らいてうさんが新婦人協会を設立した時には、穂積さんに助言を求めたと言われています。

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『虎に翼』桂場等一郎のモデル|石田和外

『虎に翼』では、寅子の父・直言が逮捕されるという衝撃の展開が起こります。

ドラマ内で「共亜事件」と呼ばれる事件のモデルとなったのは「帝人事件」。

ドラマと同じ名判決文を起案したのが、松山ケンイチさん演じる桂場等一郎のモデル・石田和外さんです。

事件が事実無根であることを強調するため、

「水中に月影を掬するが如し」

という名文句を使って全員に無罪を言い渡し、

「司法界に石田あり」

と一躍注目されました。

石田和外さんは福井県に生まれ、父が他界したことで一家で上京。
東京帝国大学(東京大学)法学部を卒業し、司法省に入省されます。

第5代最高裁判所長官に就任した際には就任時には

「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」

と述べ、司法の独立を守ろうとされました。

剣道家としても有名で、第2代全国剣道連盟でもあります。

奥様は剣道の師範の娘。

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『虎に翼』 久藤頼安のモデル|内藤頼博

沢村一樹さん演じる久藤頼安のモデルは内藤頼博さん。

最高裁判所に家庭局が誕生し、三淵嘉子さんが事務官として配属されましたが、その時の秘書課長(翌月からは総務局長)でした。

学習院を経て東京帝国大学(東京大学)法学部卒業後、裁判官になった内藤さん。

1940年にはアメリカ・ニューヨークの家庭裁判所を視察し、この経験が日本で初めての家庭裁判所の設立に反映されているといわれています。

いわゆるお殿様の出で、父親は高等遊民として職を持たず、内藤さん自身はかなり突出した頭脳を持っていたそうです。

170cm、イケメンの殿様ということでかなりモテたという話も残っています。

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『虎に翼』 多岐川幸四郎のモデル|宇田川潤四郎

滝藤賢一さん演じる多岐川幸四郎のモデル・宇田川潤四郎さんは、最高裁判所の初代家庭局長で「家庭裁判所の父」と呼ばれました。

早稲田大学を卒業してすぐ高等文官試験司法科に合格して裁判官となりました。

戦争中は満州に赴任。

戦争で我が子を亡くし、妻にも先立たれています。

帰国して多くの浮浪児を目の当たりにして衝撃を受けた宇田川さんは、非行防止のボランティアを進めます。

このバイタリティ溢れる人柄やリーダーシップが評価され、家庭裁判所誕生と同時に最高裁の初代家庭局長に就任。

その設立準備には三淵嘉子さんも加わっています

宇田川さんは、家庭裁判所の活動方針として「独立的・民主的・科学的・教育的・社会的性格」を具有した”家裁の五性格”を掲げ、これが家裁の方針となりました。

宇田川さんのオープンで多様な議論を歓迎する性格により、家庭局は風通しの良い自由な雰囲気でした。
嘉子さんも当時のことを

「事務官も雇いもみんな気分としては対等でしたね」

と語っており、のびのび 仕事ができていたことが伺えます。

病床に伏してしまった宇田川さんは、お見舞いに訪れた嘉子さんの手を握りながら

「どうか後のことをよろしく頼む」

と伝え、それが遺言となったそうです。

 

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『虎に翼』 星朋彦のモデル|三淵忠彦

寅子の再婚相手の父である星朋彦のモデルは、三淵忠彦さんです。

三淵忠彦さんは岡山で生まれ、東京帝国大学(東京大学)に入学しますが、両親と弟を相次いで亡くし学業を中断します。

その後、再び京都帝国大学(京都大学)に入学し直し、卒業後は東京地方裁判所判事を務めますが、45歳で判事を退官し、三井信託株式会社の法律顧問として60歳まで勤め上げます。

悠々自適の老後に転機が訪れます。

1947年(昭和22年)日本国憲法が施行されると同時に最高裁判所が発足。

優秀な裁判官だった三淵忠彦さんに白羽の矢が立ちます。

1950年(昭和25年)の定年まで勤め、退官した4ヶ月後に亡くなります。

生前書き上げた随筆集『世間と人間』の内容は、動物や食べ物、裁判など多岐にわたりますが、仕事への情熱や誠実な人柄が伝わってきます。

三淵嘉子さんが息子である三淵乾太郎さんと再婚したのは、この6年後のことです。

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『虎に翼』 星航一のモデル|三淵乾太郎

寅子の再婚相手・星航一のモデルは同じ裁判官の三淵乾太郎さん。

2人の結婚は、嘉子さんが結んだ三淵忠彦さんとの縁にありました。

結婚から遡ること8年前の1948年(昭和23年)
最高裁民事局で働いていた嘉子さんは、ある日突然、忠彦さんから呼び出されました。

最高裁長官との面識など全くなく何事かと長官室を訪れたところ、忠彦さんの口から出たのは明治大学の恩師の名前でした。

嘉子さんの話を聞き、興味を持った忠彦さんが呼び出したのだと言います。

この出会いがきっかけで 嘉子さんが忠彦さんの民法本の改訂作業を手伝うなど交流を深めました。

ところが、忠彦さんは1950年(昭和25年)に亡くなってしまいます。
アメリカ滞在中に忠彦さんの死を知った嘉子さんは、帰国後すぐに三淵家を弔問し乾太郎さんと出会い交流を深めていったということです。

前夫の死から10年。
再婚によって「一家の大黒柱」という重圧から解かれた嘉子さんの心には驚くほど余裕が生まれたとのこと。

ただ、2人とも裁判官でしたので、転勤による別居の際には寂しさが押し寄せ、胸が締め付けられたという嘉子さん。

仲の良い様子は、三淵邸・甘柑荘に所蔵される写真でもうかがい知ることができます。

 

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