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浮世絵師・東洲斎写楽と喜多川歌麿

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2025年NHK大河ドラマ

『べらぼう〜蔦重つたじゅう栄華えいが乃夢噺ゆめばなし〜』

に登場する代表的な浮世絵師は2人。

蔦屋重三郎が才能を見抜き、プロデュースしたその2人の浮世絵師・喜多川歌麿&東洲斎写楽についてご紹介いたします。

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蔦屋重三郎プロデュースの浮世絵

浮世絵には様々な題材がありました。

・風景を描いた「風景画」
・人気役者を描いた「役者絵」
・「花鳥画」
・歴史上の人物や戦いの一場面を描いた「武者絵」
・華やかな遊女などを絵を描いた「美人画」
・性生活の様子を描き花嫁道具にもなっていた「春画」

時期によって好まれたジャンルは違いましたが、
数ある錦絵の中から耕書堂蔦屋重三郎がプロデュースした代表的な題材が「美人画」「役者絵」です。

美人画

人々の憧れの的であった吉原の遊女たちを描いた浮世絵の華「美人画」。
代表格は、美人画の名手として世界にも名高い「喜多川歌麿」です。

喜多川歌麿は、全身ではなく顔を中心として上半身を大きく描いた「美人大首絵」で一世を風靡しました。

役者絵

美人画と並び、浮世絵の題材としてよく描かれた「役者絵」。
役者絵とは歌舞伎の役者を描いたものです。
「葛飾北斎」「東洲斎写楽」という2大巨匠の役者絵が有名です。

その他

狩野派などの基本的な絵画技法を身につけていた「喜多川歌麿」は、花鳥画の世界でも才能を発揮していました。

※「四大浮世絵師」喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重のうち、歌川広重の『東海道五十三次』、葛飾北斎の『富嶽三十六景』など「名所絵(風景画)」が人気が出たのは蔦屋重三郎が亡くなった後のことです。
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蔦屋重三郎と喜多川歌麿(美人画)

黄表紙などでヒットを飛ばした蔦屋重三郎は、「美人画」で大ヒットを飛ばします。

最強のライバル・西村屋&鳥文斎 栄之・鳥居清長

一枚絵の錦絵を強化しようとしていた蔦屋重三郎は、美人画に照準を合わせていきます。

ただその分野には8頭身の「清長美人(きよながびじん)」で人気絶頂だった「西村屋与八」&「鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)」「鳥居清長(とりいきよなが)」という最強コンビがいました。


『美南見十二候』鳥居清長筆(出典:千葉美術館公式サイト

『美南見十二候・九月 漁火』
背の高いヘルシー美人を描くのが得意な鳥居清長。
窓の外の漁火と、三人の女性が描かれています。魚を誘う漁火は9月の風物詩でした。
タッチがとても繊細で、色使いもまとまっています。
着物の柄も三人三様、月と漁火のぼんやりとした灯りに照らされる夜の色使いも美しく、表現力と風情を感じることができます。
「西村屋与八」は『雛形若菜初模様(ひながたわかなのはつもよう)』の刊行をめぐり蔦屋重三郎とトラブルが発生したことのある版元です。ドラマでは西村まさ彦さんが演じられています。

蔦屋重三郎がパートナーに選んだ絵師は、それまでに起用していた北尾重政や北尾政演(山東京伝)ではなく、喜多川歌麿でした。

2人の付き合いは長いのですが、歌麿は蔦屋重三郎と仲良くする前は西村屋で起用を望んでいた経緯がありました。

当時の西村屋は鳥文斎栄之や鳥居清長の起用に力を入れていたため、歌麿は西村屋を出て蔦屋重三郎もとで仕事を始めたと言われています。

蔦屋重三郎の家に居候する喜多川歌麿は、黄表紙や挿絵に才能を発揮しながらも、一枚絵では西村屋&鳥居清長コンビに負けを喫していました。

それが蔦屋重三郎が幕府から処罰されると、二人の熱意は急激にあがってきます。

歌麿は栃木に移り住んで活動を続けます。

新たな試み・美人大首絵

『歌撰恋之部:夜毎二逢恋』喜多川歌麿筆(出典:ColBase

 

喜多川歌麿は新たな試みを生み出しました。

役者絵の手法として使われる上半身だけを描くバストアップ「大首絵」を美人画に用い、美人画の世界に殴り込みをかけたのです。

これが大ウケ。ついに西村屋の牙城を崩し、美人画の頂点にのぼりつめます。

大首絵は顔や手を大きく描くので、細やかな表情を描き出せました。
喜多川歌麿は女性の肌の柔らかな質感を出すため、輪郭線を描かず、空ずりで表現するといった技法も用いています。美しさを貪欲に求め続けた結果、内面まで映し出すような女性像は喜多川歌麿の真骨頂となったのでした。

歌麿の反骨精神

『高名美人六家撰・富本豊雛』喜多川歌麿筆(出典:ColBase

ところが松平定信がしいた寛政の改革では、美人画も制限を受けてしまいます。
遊女の名前などを掲載することが禁止となったのです。
すると歌麿は、それを批判するように、浮世絵の右肩にとんちの効いたなぞなぞの絵(判じ物)で暗示するという手法をとりました。

上の絵では、右上の「富くじ・藻・砥石・戸・夜・雛祭り」で「とみもととよひな」と読ませています。

ピンチにおいても工夫をして克服する精神は、蔦屋重三郎から影響を受けたものかもしれません。

喜多川歌麿:美人画以外の才能
美人画で有名な喜多川歌麿ですが、「春画」でも名作を残しています。
春画艶本『帆柱丸』は、男女の複雑な動きを大胆に描き、その中の語りかけるような表情なども高く評価されています。
また、「歴史画」である、豊臣秀吉の生涯を描いた『絵本太閤記』はたちまちベストセラーになります。幕府は「徳川家を揶揄するもの」とこれを発禁にし、歌麿にも手鎖50日の処罰が下されてしまいます。
それ以降は心身ともに陰りを見せるも、多くの作品を残しました。
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蔦屋重三郎と東洲斎写楽(役者絵)

当時、美人画と並んで人気があったのが、歌舞伎役者の姿を描いた「役者絵」です。
もちろん蔦屋重三郎も参入を考えます。

このときタッグを組んだのが、東洲斎写楽。

最強のライバル・西村屋&歌川豊国

当時の役者絵は勝川春章率いる”勝川派”が主流でしたが、引退を考える年齢だったため、新たな絵師待望論が湧き上がっていました。

ライバル西村屋は”歌川派”の歌川豊国に目をつけています。
蔦屋重三郎も”勝川派”の勝川春朗、勝川春英と組みますが、どうもパッとしません。

勝川春朗=葛飾北斎『富嶽三十六景』など大ヒットを飛ばした人物です。)

そこに現れたのが謎の新人・東洲斎写楽。
蔦屋重三郎はこの新人絵師に並々ならぬ才能を見出し、大きな期待をかけたのです。

写楽・鮮烈デビュー(第1期)

『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』東洲斎写楽筆(出典:ColBase

1794年(寛政6年)5月(第1期)
蔦屋重三郎は写楽の役者大首絵を一気に28点刊行します。全て大判で、背景に光沢を出す雲母摺(きらずり)という手法を用いたキラキラ豪華で手間のかかるものでした。

華々しいデビューを果たした東洲斎写楽の役者大首絵は、黒い背景から浮かび上がり、見るものの心を惹きつける強烈なインパクトがありました。
蔦屋重三郎の派手な売り出し方法も相乗効果をもたらし、江戸の町にセンセーションを巻き起こします。

ただ、その絵には賛否両論が巻き起こります。
画期的な絵が評価される一方、デッサン力など基礎技術が今一歩とする意見。

『三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしず』東洲斎写楽筆
(出典:ColBase

役者のファングッズ、ブロマイド的な役者絵ですから美化するのが当たり前。それに比べて役者を似顔絵的に描いた写楽の絵は、美醜を問わず役者の個性を際立たせていました。

役者の演技力や内面の魅力まで映し出す写楽の表現に対し、大田南畝は、

「あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず 一両年にして止ム」

と役者絵なのに男性の女形をリアルに描きすぎていると厳しく評価しました。(『浮世絵類考』大田南畝著)

全身像を描く(第2期)


『三代目大谷鬼次の川島治部五郎』東洲斎写楽筆
(出典:ColBase

続いて7月8月には、全身を描いた作品に変化します。
38点中、大判は8つだけ。
絵のサイズが小さくなり、第1期ほどのインパクトはなかったものの、役者のポーズや構成に工夫が凝らされており、芝居の緊張感の表現もアップ。
まずまずの評判を得ることができました。

突然の画力ダウン(第3期)

続いて11月にも64点もの役者絵を刊行しますが、以前のような迫力がなく、同じような構図のものが多く、評判はガタ落ちです。

なぜこんなにも画力が落ちたのか?
様々な憶測を呼びました。

・描く絵の数が多すぎて雑になった?
・多くの役者を取材する多忙さから雑になった?
・忙しぎて健康が悪化した?
・別人が描いた?

真実は伝えられていませんが、発刊数が多いことも原因の一つと考えられていたようです。

最後の刊行(第4期)

翌年の正月、蔦屋重三郎&東洲斎写楽は10点以上の役者絵と相撲絵を刊行します。

デビューから10ヶ月。
短い間に140点以上出版してきましたが、少しずつサイズが小さくなっていき、当初のようなインパクトが失われていきました。

そしてこの正月の刊行を最後に写楽は画業を辞めてしまいます。

理由ははっきり分からず、その後の写楽の行方も分かっていません。写楽は正体不明の「謎の絵師」として知られることとなりました。

この後、”歌川派”の歌川豊国が、西村屋から「美しい役者絵」を刊行し、人気を博していきました。

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東洲斎写楽の正体

ユリウス・クルト『写楽』の推測

絵自体の魅力に加え、その謎が今なお人々の興味を捉える東洲斎写楽。海外でもその人気は高く、謎を解明しようとする人は後を絶ちません。

1910年ドイツの心理学者ユリウス・クルトが書いた『写楽』では、写楽の直後に登場した歌舞伎堂艶鏡(かぶきどうえんきょう)という浮世絵師が写楽だと推測しています。

大田南畝著『浮世絵類考』からの考察

1790年に大田南畝が著した『浮世絵類考』の改訂版『増補・浮世絵類考』(山東京伝などが追記)の東洲斎写楽の項目を見てみると、

「写楽号東周斎、江戸八丁堀二住ス」

「天明寛政年中の人 俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住ス、阿波侯の能役者也
廻りに雲母を摺りたるもの多し」

「写楽は阿州侯の士にて、俗称を斎藤十郎兵衛といふよし、栄松斎長喜老人の話なり」

と、どんどん追記されています。
(栄松斎長喜老人とは、鳥山石燕の弟子)

蔦屋耕書堂に近しい人物たちの書が根拠となり、
現在の最有力候補は、能役者・斎藤十郎兵衛で落ち着いています。

写楽のモデルとなった2代め瀬川富三郎ではなく、3代め瀬川富三郎が著したとされる『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の欄には
「号写楽斎 地蔵橋」
という記載も見られます。

写楽が八丁堀に住んでいた点でも『増補・浮世絵類考』の信憑性が増します。

また、複数の資料から、阿波藩お抱えの喜多流能楽師(ワキ方)斎藤十郎兵衛が実在したことは間違いないようです。

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大河『べらぼう』蔦屋重三郎と喜多川歌麿&東洲斎写楽

こちらでは、江戸のメディア王・蔦屋重三郎がプロデュースした、後に天才浮世絵師と呼ばれる喜多川歌麿の美人絵と東洲斎写楽の役者絵にスポットを当ててご紹介いたしました。

タイミングとしては「寛政の改革」により出版規制がかかったころに蔦屋重三郎が勝負をかけたのがこの2人でした。

2人の絵師は蔦屋重三郎の男気に惚れ込み、また蔦屋重三郎は2人の才能に惚れ込んでいた、という関係のようです。

ドラマでどのように描かれるのか楽しみですね。

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