2025年春に放送の
NHK連続テレビ小説「あんぱん」
登場人物の実在モデルについてご紹介いたします。
あらすじを読み解く中で参考にしていただければ幸いです。
2025年朝ドラ『あんぱん』モデル一覧
朝ドラ『あんぱん』の登場人物の実在モデル一覧です。
役柄 | 役名 (キャスト) |
実在モデル | |
ヒロイン | 朝田のぶ (今田美桜) |
小松暢 | ハチキンおのぶ ドキンちゃんのモデル |
夫 | 柳井嵩 (北村匠海) |
やなせたかし (柳瀬嵩) |
アンパンマン作者 |
のぶの父 | 朝田結太郎 (加瀬亮) |
池田鴻志 | 商事会社勤務 |
嵩の母 | 柳井登美子 (松嶋菜々子) |
柳瀬登喜子 | 地主の娘 美人で華やか |
嵩の父 | 柳井清 (二宮和也) |
柳瀬清 | 新聞記者 33歳で亡くなる |
嵩の弟 | 柳井千尋 (中沢元紀) |
柳瀬千尋 | 伯父伯母の養子となる アンパンマンのモデル |
嵩の伯母 | 柳井千代子 (戸田菜穂) |
柳瀬キミ | 千尋を溺愛 |
嵩の伯父 | 柳井寛 (竹野内豊) |
柳瀬寛 | 病院長で趣味人 |
『あんぱん』朝田のぶモデル|小松暢
プロフィール
小松 暢(こまつ のぶ)
(1918年 〜1993年11月22日)
高知新聞初の女性編集者
漫画家・やなせたかしさんの妻
やなせたかしさんとは同学年だと思われる
幼い頃から美少女だった小松暢さんは、世界で一番かわいいと自称し奔放わがままだけれど優しい「ドキンちゃん」のモデルと言われています。
乳がんを患い、1993年(平成5年)11月22日「いい夫婦の日」に亡くなります。
やなせさんの手を取り、穏やかな最期だったということです。
生涯
1918年 | 0歳 | 大阪で生まれる 柳瀬嵩さんと同学年? |
大阪の女学校卒業 | ||
最初の夫・小松総一郎さんと結婚 | ||
終戦後、小松総一郎さん病死 | ||
1946年 | 28歳 | 高知新聞社に入社 初の女性記者として『月刊高知』創刊 |
上京し、社会党選出の代議士の秘書となる | ||
1947年 | 29歳 | 2番目の夫・柳瀬嵩さんと結婚 |
1988年 | 70歳 | 乳がんを発症 |
1993年 | 75歳 | 11月22日息を引き取る |
『あんぱん』柳井嵩モデル|やなせたかし(柳瀬 嵩)
プロフィール
柳井嵩|やなせたかし(柳瀬 嵩)
(1919年2月6日-2013年8月)
世界的大ヒットアニメ『それいけ!アンパンマン』の生みの親。
デザイナーとしては、三越の包装紙のロゴなどを手掛けます。
作詞家としては『手のひらを太陽に』を作詞。
NHK番組で放送され大評判となりました。
漫画家・手塚治虫さんに『千夜一夜物語』のキャラデザを依頼され大ヒット。
手塚治虫さんがお礼としてやなせさんの作った『優しいライオン』をアニメ化し「毎日映画コンクール」の大藤信郎賞を受賞しています。
生涯
1918年 | 0歳 | 東京で生まれる |
1920年 | 2歳 | 弟・千尋誕生 |
1924年 | 5歳 | 新聞社で働く父が赴任先のアモイで病死 母、祖母と高知の親戚宅で暮らす 弟・千尋が伯父夫婦の養子になる |
1926年 | 7歳 | 伯父夫婦の家に引き取られる |
1929年 | 12歳 | 高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)進学 |
1939年 | 21歳 | 東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)卒業 東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職 |
1941年 | 23歳 | 徴兵、日中戦争(中国戦線)に出征 |
1945年 | 27歳 | 弟・千尋が乗る駆逐艦が攻撃され戦死 |
1946年 | 28歳 | 高知新聞社に入社 『月刊高知』創刊 |
1947年 | 29歳 | 小松暢を追って上京、結婚 グラフィックデザイナーとして三越に入社 |
1953年 | 36歳 | 漫画の収益が三越の給料の3倍を上回り、三越退社、漫画家となる |
1961年 | 43歳 | 『手のひらを太陽に』作詞 |
1964年 | 47歳 | NHK『まんが学校』の講師として3年間出演 |
1968年 | 50歳 | 雑誌『PHP』連載絵本童話で「あんぱんまん」初登場 |
1969年 | 51歳 | 『優しいライオン』アニメ化 「毎日映画コンクール」の大藤信郎賞受賞 |
1988年 | 70歳 | アニメ『それいけ!アンパンマン』放映開始 |
1996年 | 78歳 | 『香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム』開館 |
2011年 | 92歳 | 東日本大震災発災し、引退宣言を撤回 |
2013年 | 94歳 | 心不全で息を引き取る |
『あんぱん』朝田結太郎モデル|池田鴻志
朝田結太郎|池田鴻志(いけだこうし)
のぶの父・朝田結太郎のモデルですが、小松暢さんの父は、高知県安芸市出身の池田鴻志さんだといわれています。
池田鴻志さんの勤務先は、財閥系商社「鈴木商店」という大企業。
鈴木商店とは戦前に大きく業績を伸ばした企業です。
財閥(鈴木財閥)の中核をなす戦前に存在した商社。
製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開し、保険・海運・造船などにも進出。
1874年(明治7年)
鈴木岩治郎さんが辰巳屋ののれん分けを許され、兵庫の弁天浜に「鈴木商店」を開業。
1894年(明治27年)
岩治郎さんが亡くなると、廃業の提案をよそに妻・鈴木よねさんが事業を継ぎ、辣腕を振るい次々と企業を買収。
1915年(大正4年)
貿易年商額:15億4,000万円(当時の国家予算の2倍)に成長。
1917年(大正6年)
国民総生産(GNP)の1割を売り上げる総合商社となる。
1927年(昭和2年)
昭和金融恐慌のあおりを受け、事業を停止。
事業精算後は「双日」「豊年製油(現・J-オイルミルズ)」「神戸製鋼所」「帝人」など鈴木商店の流れを汲む会社が日本の大手産業企業となっている。
鈴木よねさんは、大企業家としてタイム誌やワシントンポストなどでも報じられ、豪州日刊紙キャンベラ・タイムズ(1927年6月14日付)では「世界で最も金持ちな女性」として紹介される。
創業者の夫を亡くして奮闘する妻・鈴木よね役を天海祐希さんが演じたドラマ「お家さん」のモデルです。
小松暢さんの名字の「小松」は、最初の夫・小松総一郎さんに由来すると考えられます。
『あんぱん』柳井清モデル|柳瀬清
柳井清|柳瀬清(やなせきよし)
やなせたかしさんの父方の実家は、江戸時代から続く名家・柳瀬家。
高知県香美郡在所村(現・高知県香美市香北町)にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家ということです。
父・清さんは子供の頃から優秀で、
上海に留学(東亜同文書院)し、日本郵船、講談社、東京朝日新聞と転職します。
(東京朝日新聞に引き抜かれたのは、やなせたかしさんが産まれた翌年だという説と、記者として上海に移住した時にやなせさんが産まれたという説があります。)
やなせたかしさんの著した『アンパンマンの遺書』には父・清さんについて次のような記述があります。
父親は非常に優しく、毎日おみやげを買ってくるような人だった。気の強い母よりも、ぼくは父になついていて、これが後年までファーザーコンプレックスとなって、ぼくの人生に長く尾を引いていく。
『あんぱん』柳井登美子モデル|柳瀬登喜子
柳井登美子|柳瀬登喜子(やなせときこ)
やなせたかしさんの母も高知出身で、村長をするような地元の大地主・谷内家(三男三女)の次女です。
高知県立第一高等女学校に通う美人で才媛、華やかな女性だったということです。
その在学中に学生結婚していますが、実家に戻り
登喜子さんは、この田舎から当時の第一高女に行った方ですから、やはり気位が高かったそうです。柳瀬家はその頃、かなり傾いていたようですが、登喜子さんが早く結婚されて出戻ってきていましたので、東亜同文書院を出た清さんが、結婚をされたのだと思います。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)
清さんと再婚しますが、清さんが亡くなった後は、次男・千尋を夫の兄夫婦の養子にし、長男であるやなせたかしさんと母・登喜さんの実母・谷内鉄さんの3人で暮らしました。
洋裁をしながら生活を支え、しつけにも厳しかった登喜子さんですが、よくやなせたかしさんを映画館に連れて行ってくれたそうです。
母の人となりについて書いたやなせたかしさんの文章があります。
母はあまり家にいませんでした。琴、三味線、謡曲、生け花、茶の湯、洋裁、盆景とありとあらゆる習い事をしていました。化粧も濃く、華やかに着飾って外出するので田舎では評判が悪く、ぼくはときどき母の悪口をまわりの人から聞かされることになります。気性は激しい反面、社交的で誰とでもすぐ親しくなりました。
(引用:『人生なんて夢だけど』やなせたかし著)
やなせたかしさんは小2の時、弟・千尋のいる伯父の家に預けられます。
母を待ち続けたやなせたかしさんですが、ついに母は迎えに来ませんでした。
登喜子さんは東京に住む官僚と2度目の再婚していたのです。
『あんぱん』柳井千尋モデル|柳瀬千尋
柳井千尋|柳瀬千尋(やなせちひろ)
やなせさんには2歳と年下の弟・千尋さんがいました。
色白で目が大きく、丸顔、快活な千尋さんは、誰にでも愛されるような少年です。
父・清さんが亡くなると父の兄・柳瀬寛さんの養子となり、夫婦と川の字で寝るほど可愛がられます。
後から伯父夫婦の家に預けられたやなせたかしさんは、弟にコンプレックスを持ちますが、弟・千尋さんは兄をとても慕ってくれます。
文武両道の千尋さんは、旧制高知高校(現・高知大学)を経て京都帝国大学(現・京都大学)に進学。
戦争が激しくなる中、海軍士官として台湾沖で駆逐艦「呉竹」に乗艦中、襲撃され戦死します。
なお、千尋さんは「人間魚雷」と呼ばれた回天塔には乗車しておらず、これは情報が錯綜した戦後に誤ってやなせたかしさんの耳に入ったものだと思われます。
『あんぱん』柳井寛モデル|柳瀬寛
柳井寛|柳瀬寛(やなせひろし)
やなせたかしさんの父の兄。
高知県香美郡在所村(現・高知県香美市香北町)の、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家・柳瀬家の長男として生まれ、
京都医専(現・京都府立医大)を卒業した後は、高知県南国市後免町に戻り、内科小児科医として「柳瀬医院」を経営されていました。
門田隆将さんの『慟哭の海峡』には次の記述があります。
レコードでの音楽鑑賞を好み、自ら琵琶も奏で出るほどの趣味人で、一方、オートバイにサイドカーをつけて、田舎道を疾走する活動的な面も持っていた。
家はサロンのようになり、田舎の文化人たちが集まり、毎夜、宴会が繰り広げられた。それが、柳瀬医院だった。
兄・清さんが亡くなるとその次男・千尋を養子にします。
続いて預かったやなせたかしさんに医院を継ぐかと提案しますが、絵の道に進みたいやなせたかしさんに理解を示し、浪人を許し、東京工芸学校図案科(現在の千葉大学工学部デザイン科)に進学させてくれました。
援助は卒業まで続きます。
恩返しのため、やなせたかしさんは製薬会社に就職を決めるものの、寛さんは50歳で倒れ、息を引き取ります。
柳瀬千尋が高知高校の二年を迎えようという昭和十四年春、衝撃的な出来事があった。育ての親、寛が急死したのである。
柳瀬家の当主として、弟・清の忘れ形見である崇と千尋を引き取ったばかりか、末弟の正周を同居させて面倒も見ていた。文字通り、柳瀬家を一人で背負っていた大黒柱である。
その寛が、働き盛りの五十歳に突然、倒れ、あっという間に帰らぬ人となったのだ。心臓麻痺、あるいは脳溢血とも伝えられる。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)
やなせたかしさんは死に目に間に合わず、号泣します。
『あんぱん』柳井千代子モデル|柳瀬キミ
柳井千代子|柳瀬キミ
京都出身だったそうです。
柳瀬寛さんが医大に通っていた頃に出会ったのかもしれません。
門田隆将さんの『慟哭の海峡』には、柳瀬キミさんについて次のような記述が見られます。
「おばちゃんは京都の人で、京都弁ながよ。歩いても内足で着物を着いて、ときたまエプロンをかけておいでた時もありましたがね。おばちゃんは美人でね、ちょっと変わった髪を結うておられてね。団子のようなものを首のあたりにこしらえて、風船を膨らませたような髪をしておいでた。私がよくおばちゃんの内足を真似してコネコネ歩いていたりしたんです。荷物をわざと提げてね。そしたら、”いやあねえ、のぶちゃん”ゆうておばちゃんにからかわれました」
2歳で養子にした千尋のことをとても可愛がっていたキミさん。
戦後、伯母の家を訪ねたやなせたかしさんに千尋の死を伝えた時の様子です。
「お母さんただ今帰りました」
伯母は泣き出した。もうひとりのちいさな叔母も涙ぐんだ。
「チイちゃんは死んだぞね」
と伯母は言った。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし著)