手塚治虫さんより9歳年上のやなせたかしさんですが、手塚治虫さんのことを、同じ漫画家ではあるものの、別世界の人だと思っていました。
その2人がどう交わり、どのような関係を構築したのか、ご紹介いたします。
手塚治虫
プロフィール
手塚治虫|手塚 治(本名)
1928年11月3日〜1989年2月9日(享年60歳)
【出身】大阪府豊能郡豊中町
【職業】漫画家、アニメ監督、医師
【学歴・資格】
池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)
→大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)
→大阪帝国大学附属医学専門部
(正式な医師ではなく軍医を養成するコース)
→大阪大学医学部附属病院にてインターン
→医師国家資格取得
【代表作】
『新寶島』『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』『どろろ』『ブッダ』『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『アドルフに告ぐ』
兵庫県宝塚市に住み、初恋相手が宝塚少女歌劇団の生徒さんだったという治少年。
昆虫採集に熱中し、ディズニー映画を愛好していたそうです。
小学3年で初めての漫画「ピンピン生チャン」を、小学5年には長編漫画「支那の夜」を制作し、学校の有名人になりました。
エリートコースを進むなか、戦争を経験し、空襲で九死に一生を得ます。
終戦後、『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載して、大阪で話題を呼びます。
1946年、同人誌『まんがマン』で出会った酒井七馬さんとの合作長編ストーリー漫画『新寶島』を制作すると大ヒット。
『新寶島』は革新的で、戦後ストーリー漫画の原点として捉えられています。
(※『あんぱん』91話)
在学中から『ジャングル大帝』などの連載を持ち、医学部との両立が難しくなるものの、1留した後、卒業。
上京後は、トキワ荘(藤子不二雄の2人や赤塚不二夫、石ノ森章太郎などが入居した伝説のアパート)に入居し、『リボンの騎士』など精力的に漫画を描き始めます。
その後も様々なジャンルの漫画に挑戦しながら、アニメ制作会社「虫プロダクション」を設立。
『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』など大ヒットアニメも制作していきます。
テーマ性を重視したストーリー漫画の第一人者として、また、漫画表現の開拓者的存在として、漫画とアニメという2つの分野で後世に大きな影響を与えた人物として、「漫画の神様」と呼ばれるようになりました。
年表
1928年 | 0歳 | 大阪で生まれ、宝塚で育つ |
1946年 | 18歳 | 4コマ漫画『マアチャンの日記帳』雑誌掲載 |
1947年 | 19歳 | 貸本漫画『新寳島』を発表し、大ヒット 大阪大学医学専門部に入学 |
1950年 | 22歳 | 『ジャングル大帝』連載開始 |
1951年 | 23歳 | 『鉄腕アトム』の前身『アトム大使』連載開始 大阪大学医学専門部卒業 |
1952年 | 24歳 | 医師免許取得 上京 『鉄腕アトム』連載開始 |
1953年 | 25歳 | トキワ荘入居 『リボンの騎士』連載開始 |
1954年 | 26歳 | 「虫プロダクション」設立 |
1956年 | 28歳 | 『火の鳥』連載開始 |
1969年 | 41歳 | 『千夜一夜物語』公開 |
1973年 | 45歳 | 『ブラック・ジャック』連載開始 |
1979年 | 51歳 | 『ブッダ』連載開始 |
1983年 | 55歳 | 『アドルフに告ぐ』連載開始 |
1986年 | 58歳 | 『火の鳥 太陽編』執筆。 |
1989年 | 60歳 | 2月9日胃癌で息を引き取る |
1990年 | ー | 第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞受賞 |
やなせたかし
プロフィール
やなせたかし(柳瀬 嵩)
(1919年2月6日-2013年8月)
世界的大ヒットアニメ『それいけ!アンパンマン』の生みの親。
デザイナーとしては、三越の包装紙のロゴなどを手掛けます。
作詞家としては『手のひらを太陽に』を作詞。
NHK番組で放送され大評判となりました。
手塚治虫さんにキャラクターデザインを依頼された『千夜一夜物語』は大ヒット。
初めてのアニメ『やさしいライオン』は「毎日映画コンクール」の大藤信郎賞を受賞しています。
年表
1918年 | 0歳 | 東京で生まれる |
1920年 | 2歳 | 弟・千尋誕生 |
1924年 | 5歳 | 新聞社で働く父が赴任先のアモイで病死 母、祖母と高知の親戚宅で暮らす 弟・千尋が伯父夫婦の養子になる |
1926年 | 7歳 | 伯父夫婦の家に引き取られる |
1929年 | 12歳 | 高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)進学 |
1939年 | 21歳 | 東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)卒業 東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職 |
1941年 | 23歳 | 徴兵、日中戦争(中国戦線)に出征 |
1945年 | 27歳 | 弟・千尋が乗る駆逐艦が攻撃され戦死 |
1946年 | 28歳 | 高知新聞社に入社 『月刊高知』 |
1947年 | 29歳 | 小松暢を追って上京、結婚 グラフィックデザイナーとして三越に入社 |
1953年 | 36歳 | 漫画の収益が三越の給料の3倍を上回り、三越退社、漫画家となる |
1961年 | 43歳 | 『手のひらを太陽に』作詞 |
1964年 | 47歳 | NHK『まんが学校』の講師として3年間出演 |
1968年 | 50歳 | 雑誌『PHP』連載絵本童話で「あんぱんまん」初登場 |
1969年 | 51歳 | 『千夜一夜物語』公開 『やさしいライオン』公開 「毎日映画コンクール」の大藤信郎賞受賞 |
1988年 | 70歳 | アニメ『それいけ!アンパンマン』放映開始 |
1990年 | 72歳 | 第19回日本漫画家協会賞大賞受賞 |
1996年 | 78歳 | 『香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム』開館 |
2011年 | 92歳 | 東日本大震災発災し、引退宣言を撤回 |
2013年 | 94歳 | 心不全で息を引き取る |
手塚治虫・やなせたかし|出会い
別世界
手塚治虫さんの『新寶島』が刊行されて大ヒットを記録したのと同じ年に、やなせたかしさんが上京しています。
大ヒット作を次々と生み出していく手塚治虫さんは、トキワ荘に入居し、石ノ森章太郎さんや藤子不二雄の2人、赤塚不二夫さん達とともに圧倒的パワー集団を形成していきます。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
同じ「漫画集団」の一員として面識のあった2人ですが、やなせたかしさんは手塚治虫さんを別世界の人と感じていたそうです。
1本の電話
そんなある日。
手塚治虫さんご本人から直々の電話を受けたやなせたかしさん。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
”手塚治虫”といえば、当時の漫画界のトップ。
最初はいたずらか冗談だと思ったそうですが、後日、虫プロダクションのプロデューサーから連絡があり、本気なのだと知ったそうです。
『千夜一夜物語』
接点の少ない2人は、アニメーションを通して結びついていきました。
抜擢の理由
『千夜一夜物語』は、性的なシーンなどを含む大人の内容が描かれます。
大人向けの漫画を描いていたやなせたかしさんのエロチズムを感じさせる画風を手塚治虫さんが気に入り、白羽の矢が立ちました。
今ではエロチズムとは真逆の印象のやなせたかしさんですが、当時の漫画や詩集、画集の女性は憂いを帯びた大きな瞳で上目遣いをしていたり、ミステリアスな表情をしていたり、色気を感じさせるものが多く見られます。
また、やなせたかしさんの持つ自由な発想や独特なキャラクター造形、そして作品に込められたメッセージ性も評価されていました。
『千夜一夜物語』
1本の電話をきっかけに、手塚治虫さんの長編アニメーション映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインと美術監督を務めることとなったやなせたかしさん。
『千夜一夜物語』は、手塚治虫さんが漫画で得た資金を注ぎ込み、虫プロ内外のスタッフで作り上げる大作です。
やなせたかしさんにとっては、初めてのアニメーション制作。
アニメの知識はまったくありません。
専門用語も知らないやなせたかしさんですが、現場に通い詰め、手塚治虫さんと机を並べて絵コンテを作成しています。
キャラクターデザイン
この『千夜一夜物語』の美術監督を務めるうち、やなせたかしさんはあることに気づきます。
それは、ご自身の「キャラクター造形」の才能です。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
シナリオを読むと同時に、キャラクターたちが次々に生まれてきては、いきいきと動き出したそうです。
キャラクターを生み出す力。
描きわける力。
キャラクターの魅力。
アニメでも実写でも、キャラクターの魅力は作品の魅力に大きな要素です。
後に『アンパンマン』の大ヒットに繋がる才能でもありますが、これは『千夜一夜物語』の経験で花開いたといえるでしょう。
やなせたかしさんは、キャラクターを作り出す過程で、声優となる役者をあてはめてみたり、役割ごとにイメージカラーを設定したりする作業も取り入れました。
こちらは朝ドラ『あんぱん』の登場人物が、キャラクターになぞらえられていたり、テーマカラーを持っていたりする点にも共通していますね。
『千夜一夜物語』は、画像について高い評価を得られます。
キャラクターデザインは、やなせたかしさんの真骨頂となっていきます。
世界に通用するアニメ超大作を、という意気込みで作られた本作は、のべ6万人のスタッフを動員し、7万枚の動画を費やして製作されました。主人公の顔もフランス人俳優ジャン・ポール・ベルモンドに似せたり、音楽もロックを多用したりとワールド・マーケットを強く意識した作りですが、結果としてその試みはいろいろな教訓を得る機会となりました。絵や音楽は高く評価されましたが、主人公はイスラム教徒なのに豚肉を食べたり、ワインを飲んだりする、といった基本的な生活習慣の描き方が受け入れられなかったようです。ワールド・マーケットを意識する、ということは多用な文化とその背景となる宗教のことまでしっかりと考えておく、ということでもあります。
(引用:手塚治虫オフィシャルサイト)
『やさしいライオン』
1967年にラジオドラマで放送され、1969年に絵本化した『やさしいライオン』。
『やさしいライオン』は、母を失ったライオンのブルブルと子供を失った犬のムクムクの話です。
今見ると絵が下手くそではずかしいが、技術的に未熟な欠点を超えて多くの人に愛されてきたことは作者としてはうれしい限りである。 絵本、ステージ、紙芝居、CD-ROMと「やさしいライオン」は今も走り続けていて、すっかり古典のスタンダードになってしまった。
望外のことである。
(引用:やなせスタジオオリジナルアーカイブ)
手塚治虫の提案
手塚治虫さんの熱意、大勢のスタッフが一丸となり不眠不休で働く現場に馴染めなかったというやなせたかしさん。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
1967年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、
1970年春、やなせたかしさん初の原作・監督・脚本作品として、東宝チャンピオンまつりにて公開されました。
ポケットマネー
当初、虫プロダクションの役員会議では
「そんな実験映画に予算は付けられない」
と反対意見もありましたが、最終的に「手塚先生のポケットマネーでやる」ことになり製作されたそうです。
結果「やさしいライオン」は、第12回児童福祉文化奨励賞や第24回毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞することになります。
手塚治虫さんは、やなせたかしさんの才能を発掘し、キャラクターデザインの才能を開花させ、やなせアニメを世に送り出したきっかけとなりました。
手塚治虫・やなせたかし|晩年
手塚治虫の死
1988年10月。
キャラクターデザインの才能を存分に発揮したTVアニメ『それいけ!アンパンマン』がスタート。
アニメは順調でしたが、時代は昭和の終焉を迎え、手塚治虫さんは胃がんを患っていました。
1989年1月7日。
ご病状が思わしくなかった昭和天皇が崩御され、元号が昭和から平成へ移り変わったそのひと月後、1989年2月9日。
手塚治虫さんが天国へと旅立たれました。
病名については伏せられており、生きることに何ら疑問を持っておらず
「頼むから、仕事をさせてくれ」
が最期の言葉となったそうです。
すれ違い
手塚治虫さんの亡くなる4ヶ月前に放映が始まったアンパンマンについて、やなせたかしさんは次のように語られています。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
「漫画の神様」手塚治虫さんの偉大さを感じつつ、追いかけて続けてきた存在に近づいた感慨がにじみます。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
2人同時受賞
1990年。
手塚治虫さんは第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
やなせたかしさんは日本漫画家協会賞大賞を受賞。
この時のことをやなせたかしさんはこう記されています。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
手塚治虫・やなせたかしの関係
大人漫画と子供漫画
2人は「漫画集団」に所属していました。
赤塚不二夫、石ノ森章太郎(石森章太郎)、サトウサンペイ、ちばてつや、長新太、手塚治虫、はらたいら、藤子不二(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄)、松本零士、やなせたかしなど
「漫画集団」とは、アメリカのナンセンス漫画の影響を受けた「大人漫画」を描く漫画家グループです。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)
当初大人向けの漫画を描いておられたやなせたかしさん。
そのやなせたかしさんの描く「大人のエロチシズム」を気に入り『千夜一夜物語』に抜擢した手塚治虫さん。
別世界の人から恩人へ
『千夜一夜物語』制作において、手塚治虫さんと机を並べて絵コンテを作成した経験がきっかけとなり、やなせたかしさんはキャラクターデザインの才能を開花。
また、ポケットマネーでやなせたかしさんの『やさしいライオン』をアニメ化してくれた手塚治虫さんは、やなせたかしさんにとっては「別世界の人」から「恩人」へと関係が進みます。
運命の交錯
さらに『千夜一夜物語』前後を境に2人の進む道が定まっていきます。
子供向け作品を描いていた手塚治虫さんが大人向け作品を作ることが増え、逆に大人向け作品を描いていたやなせたかしさんが子供向け作品を作ることが増えたのです。
やなせたかしさんはこのことを『運命の交錯』と表現されています。
やなせたかしの思い
2009年に江戸東京博物館で開催された「手塚治虫展」では、
「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」
というやなせたかしさんのコメントが紹介されました。
ドキュメンタリーでは、「後進の漫画家たちの才能に嫉妬していた」などとお話されていた手塚治虫さんですが、やなせたかしさんを始めとする多くの漫画家たちに、知識や技術、経験を伝え、チャンスを与えていたことがわかります。
乱暴な言い方ですが『アンパンマン』は、手塚治虫さんがいたからこその名作かもしれませんし、やなせたかしさんとの出会いが手塚治虫さんの漫画傾向に影響を与えた可能性もあり、お2人にとってあの1本の電話が運命だったかもしれません。