2025年後期朝ドラ『ばけばけ』は多くの怪談話を著した小泉八雲さんと妻の小泉セツさんを主役モデルにした物語が放映されています。
こちらのページでは朝ドラ『ばけばけ』主人公・松野トキのモデル・小泉セツさんとその家族(両親・養父母・養祖父・兄弟姉妹・夫・子供たち)についてご紹介しています。
小泉セツ(誕生日・学歴・死因)
ではまず、小泉セツさんについてご紹介いたします。
プロフィール
小泉セツ(小泉節子)
(1968年2月4日 〜 1932年2月18日)
読書好きの実母と出雲神話などを物語る養母を持ち、物語が大好きな少女でした。
『怪談』などを著した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんと結婚した後は、日本の怪談、神話、説話などの語り部として小泉八雲さんの著作活動に大きな役割を果たします。
また、華道や茶道の基本を身につけ、伝統芸術の眼識を持っていた点でも小泉八雲さんの日本理解の手助けになりました。
【名前】
小泉セツ(小泉節子)
戸籍上の本名は「小泉セツ」ですが、ご本人は「小泉節子」と呼ばれることを好んでいたそうです。
【誕生日】
1968年(慶応4年)2月4日
節分生まれなので「セツ」と名付けられます。
10月から明治元年となる時代の変わり目の年でした。
【学歴】
1879年 内中原小学校下等教科卒業
勉強好きなセツさんですが、養父の事業の失敗により、小学校の上等教科への進学は叶いません。
【死因】
1931年
脳溢血で倒れますが、その後回復。
1932年1月下旬
再度脳溢血で倒れ、
2月18日64歳
夫と暮らした家で、孫たちに見守られながら息を引き取りました。
豊島区雑司ヶ谷霊園の小泉八雲さんのお墓の隣に埋葬されています。
小泉家と稲垣家
「小泉家」に生まれたセツさんは、生後7日で「稲垣家」に養子に出されます。
【小泉家】
・代々出雲松江藩主・松平直政(家康の孫)に仕えた家柄
・三職「家老・中老・番頭」のうち「番頭」
・家禄300石
・当主は代々「弥右衛門」を名乗る
【稲垣家】
・小泉家の縁戚
・「並士」の家柄
・家禄100石
・当主は代々「万右衛門」を名乗る
「小泉家」は「稲垣家」より圧倒的に格上の家柄でした。
生涯
1868年 | 0歳 | 出雲 松江藩の家臣・小泉家に生まれる 生後7日目で子供のなかった親類・稲垣家の養女に |
1875年 | 7歳 | 小泉家・稲垣家、家禄奉還 |
1876年 | 8歳 | 小学校入学 稲垣家零落のため引っ越し |
1879年 | 11歳 | 小学校卒業→機織り女工に |
1886年 | 18歳 | 鳥取の士族・前田為二と結婚 |
1887年 | 19歳 | 実父・湊死去 借金の実態を知り夫・前田為二逃げ出す |
1890年 | 22歳 | 婚姻解消、実家小泉家に復籍 |
1891年 | 23歳 | 1月単身のラフカディオ・ハーンの家の住み込み女中に 8月事実婚 11月熊本へ 養父母養祖父同居 |
1893年 | 25歳 | 長男・一雄誕生 |
1894年 | 26歳 | 神戸へ |
1896年 | 28歳 | 夫が帰化 東京へ |
1897年 | 29歳 | 次男・巌誕生 |
1898年 | 30歳 | 養祖父・稲垣万右衛門死去(80歳) |
1899年 | 31歳 | 三男・清誕生 |
1900年 | 32歳 | 養父・稲垣金十郎死去(59歳) |
1903年 | 35歳 | 長女・寿々子誕生 |
1904年 | 36歳 | 夫・小泉八雲急逝(54歳) |
1912年 | 44歳 | 実母・小泉チエ死去 養母・稲垣トミ死去(74歳) |
1932年 | 64歳 | 息を引き取る |
小泉セツ|父母・兄弟姉妹(小泉家)
血縁のある小泉家の家族を紹介いたします。
実父|小泉弥右衛門湊
八代目 小泉弥右衛門湊(こいずみやえもんみなと)
(1837年〜1887年)
セツさんの父・小泉湊さんは、代々松江藩主松平家に仕えた小泉家の8代目で、まさに「松江藩に名を馳せる上級武士」でした。
彼は小柄ながらも意識強固で、しかも覇気に富んだ侍であった。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
青年時代から武芸に秀でており、1866年の長州戦争では、長州軍に鉄砲を浴びせ撃退するという武功をあげています。
軍の小隊長として号令をかける美声も評判でした。
明治維新後は、機織会社を設立し、社長として旧藩士の娘を集めて機を織らせます。
実の娘・セツさんも織り子として11歳から勤め始めますが、湊さんはリウマチ(免疫異常によって関節や臓器に炎症が起こる病気)を患い、セツさんが人の世話の苦手な実母の代わりに看病します。
機織会社は倒産し、
セツさんが最初の結婚をした翌年1987年に50歳で亡くなります。
実母|小泉チエ
小泉チエ
(1838年3月21日〜1912年)
代々「江戸家老」を務める家柄(小泉家よりも格上で家禄1500石)の塩見増右衛門の長女。
美人で、三味線にも長け、草双紙に精通しているという藩内でも評判の女性でした。
湊さんと結婚する前、13歳になる前に高位の侍に嫁入りしたことがありますが、婚礼の夜、寝所に姿を見せない新郎が、庭で身分違いの女性と無理心中をはかったというエピソードを持ちます。
「御家中一番の器量」と褒めそやされた美人であった。また、彼女は十四才で花嫁として小泉家に迎えられるまで、松江城(千鳥城)の三の丸御殿を真向かいにした塩見家の広壮な屋敷で、名家老増右衛門の一人娘として三十人近くの奉公人にかしずかれて生い育った女である。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
1歳上の小泉湊さんと14歳で結婚し、30歳でセツさんを出産。
働くことのできないチエさんは、湊さんが亡き後、困窮し、物乞いになります。
セツの実母のチエは、ただ食べるために家に残る品々を次々と売り払った末、極端な貧困に陥った他の士族と同じように、人に食を乞う身となったのである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
セツさんは弁護士の妻に保護を依頼し、月々仕送りをしています。
兄弟姉妹
セツさんの両親の間には、11人の子どもが生まれています。
十一人の子を儲けて、セツは六人目にあたり(「亡き母を語る」)戸籍簿と照合すれば、五人の子供が夭折している。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
11人のうち5人亡くなったため、セツさんは6人兄弟の次女という扱いとなります。
【長兄】
小泉氏太郎(10歳上)
1858年3月21日〜
⇨父が病気になり繊維会社が倒産した後、町家の娘と駆け落ち
【姉】
小泉スエ(8歳上)
1860年〜
⇨セツさんが小泉八雲さんと結婚した翌年、本多家の養女に。
【次兄】
小泉武松(2歳上)
1866年〜1885年
⇨19歳で早世
【弟】
小泉藤三郎(2歳下)
1870年6月25日〜
小泉家後継者
雨清水三之丞のモデル?
一年の内に、上の男の子二人を失った小泉家では、一家の支えとなるべき藤三郎が始末におえぬ男であることが分かったのである。彼は働こうともせず、日ごと野山に出かけては小鳥を捕らえ、これに餌を与えて飼育するのに夢中で、果ては、南側の陽の当たる廊下が鳥籠で塞がれてしまうまでになった。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
⇨藤三郎さんは、セツさんが実母チエさんに送った仕送りで生活し、小泉八雲さんの怒りを買い、後に45歳で空き家で亡くなっているところを発見されます。
【弟】
小泉千代之助(10歳下)
1878年6月30日〜
⇨岩見家養子となるが小泉家に復籍後、不明
姉弟たちには「小泉家で育った自分たちの方が格上」という意識があったそうです。
姉のスエさんは、上級武士のお嬢さまという意識が邪魔をして働きに出ることができず、弟・藤三郎さんは鳥にしか興味がありません。
経済的に姉弟を支えていたセツさんでしたが、大人になってから姉弟と絶交しています。
小泉セツ|養父母・養祖父(稲垣家)
次に、セツさんを養子として育てた稲垣家の家族のご紹介です。
セツは、自分が「貰い児」であることを知って不満に感じたが、稲垣家の親たちの愛情、可愛がりようは、また格別であって、彼女も心から愛し慕い、その親子の情もまた、生涯にわたって翳ることがなかった。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
養父|稲垣金十郎
稲垣金十郎(いながききんじゅうろう)
セツさんの養父。
小泉家の縁戚で「並士(なみし)」の家柄。
緊迫する京都で、警備の任に就いた経験があります。
子宝に恵まれずセツさんを養子にした26歳の金十郎さんは
いたって気のいい善良な侍であった。
王政復古の大政変を前にして、京都が緊迫した空気に包まれていた時に、京都警備の任にありながら、連日のように烏丸通りに家来を遣って、好物の菓子を買わせたり、後々まで、鳥羽・伏見の戦いをおもしろおかしく子供たちに語り聞かせるといった、好人物だったものである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
と、評されています。
お話が上手で、明るく、子ども好きな一面も垣間見えますね。
ですが、士族の家禄奉還の際に6年分の家禄を一括して受け取り、事業を始めようとしてから、家が零落してしまいます。
この時のことをセツさんの長男・一雄さんは
母の養父雲峰院殿は稍覇気に乏しい善良な人であった。詐欺にかゝった上に相手が悪辣極る奴で逆に無実の罪を着せられ、数年後には晴天白日の身とはなったものゝ、裁判費用で財産を悉く無くし、日常の生活費にも事欠くの有様となった。
(引用:『父小泉八雲』小泉一雄)
と記しています。
事業資金を騙し取られ、屋敷を明け渡しただけでなく、無実の罪まで着せられてしまったのです。
金十郎さんは、セツさんが2度目の結婚をすると、小泉八雲さんの赴任地で穏やかに同居し、1900年に胃潰瘍で亡くなります。
養母|稲垣トミ
稲垣トミ
(1834年〜1912年)
セツさんの養母で、稲垣金十郎さんの2歳年下の妻トミさん。
松江城下に住む原忠兵衛(家禄100石)の娘でしたが、出雲大社社家で上官を務める高浜家の養女となりました。
高浜家は、出雲大社宮司の千家家と同じく宮司職を分け合った北島國造をルーツに持ち、小泉家とも親戚でした。
妻のトミは二歳年下で、無学であったが、何事につけても器用で骨身を惜しまず立ち働く、実直で愛情豊かな女であった。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
愛情豊かな養母・トミさんは、
幼いセツさんに出雲神話をはじめ様々な説話を語って聞かせ、語り部としての素養に大きな影響を与えます。
また、稲垣家の男性陣は時代の変化に適応できなかったため、実直で真面目に働くトミさんとセツさんが生計を担っていました。
後に、トミさんは孫の一雄さんをおんぶして神社の石段で転び、孫をかばって自身は頬に大きな傷を負ったことがあります。
小泉八雲さんは、この「無私」の精神の尊さを、遺稿『おばあさんの話』に日本の典型的女性として書いています。
養祖父|稲垣万右衛門保仙
六代目 稲垣万右衛門保仙(いながきまんえもんほせん)
セツさんが稲垣家にいた頃の当主は、金十郎さんの父・稲垣保仙(6代目万右衛門)さんでした。
黒船来航以降、壱岐では砲術方を務め、大阪、京都御所の警備などにあたった人物で、武士としてのプライドが高かったようですが、セツさんのことは可愛がっていました。
藩主の「御子様方御番方」を務めてきたこともあって、大の子供好きであった。そのような次第で、稲垣家は養女のセツを迎えて大いに喜び、一家を上げて可愛がり、また、身分の高い家に生まれた女の子であるからといって「お嬢」と呼んで育てたのである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
また、小泉八雲さんの帰化名「八雲」は、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を
という、クシナダヒメを娶ったスサノオノミコトの歌の「出雲」にかかる枕詞「八雲立つ」に因んで、保仙さんがつけたと伝えられています。
兄弟姉妹
稲垣金十郎さん・トミさん夫婦に子どもはおらず、稲垣家にセツの兄弟姉妹はいません。
小泉セツ|2人の夫
小泉セツさんの2人の夫を紹介いたします。
最初の夫|前田為二
前田為二(まえだためじ)
因幡(旧鳥取藩)の貧窮士族の前田家の次男。
1886年、26歳で18歳のセツさんと結婚し、稲垣家に婿入りしました。
為二さんも、セツさん同様に物語好きで、近松門左衛門の浄瑠璃者を愛読するような人物でした。
セツさんは為二さんに勧められて月琴の演奏を習ったりもしています。
ですが、この幸せは長続きしませんでした。
格下の前田家を見下し、稲垣家の家風を叩き込もうとする厳しい義父と義祖父の態度や、あまりの貧窮ぶりに耐えられず、1年足らずで失踪します。
大阪にいることを突き止めたセツさんが出向いて説得するものの、為二さんは戻っては来ませんでした。
再婚相手|小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)
(1850年6月27日~1904年9月26日)
「ラフカディオ」は出身地「レフカダ島の」という意味で、
日本では「Hearn」から「ヘルンさん」と呼ばれていました。
両親が離婚すると、厳格なカトリックの大叔母に育てられ、逆にキリスト教嫌いになります。
当時のオハイオ州では異人種間との結婚が違法とされていたため、会社を首になり、3年後に離婚。
出版社の通信員として来日したものの契約解除し、出雲へ。
結婚後は、妻のセツさんを一番の協力者として多くの著書を残し、帰化し、生涯仲良く暮らしました。
小泉セツ|子ども・子孫
小泉セツさんは4人のお子さんに恵まれました。
子ども
・小泉一雄(長男)
1893年11月17日生まれ
早稲田大学卒業
横浜グランドホテルに勤務
父・小泉八雲の遺稿の整理や書簡集の編集などを行われました。
栗色の髪と青い目、父親似の鼻を持つ一雄さんを小泉八雲さんは夢中で可愛がっていたそうです。
・稲垣巌(次男)
1897年2月15日生まれ
4歳の時、トミさんと養子縁組を結び、稲垣家の後継になりました。
・小泉清(三男)
1899年12月20日生まれ
東京美術学校(現・東京藝術大学中退)
洋画家
・小泉小泉寿々子(長女)
1903年9月10日生まれ
寿々子さん誕生の翌年に小泉八雲さんが急逝しました。
寿々子さんは3歳で風邪をこじらせ脳髄炎に罹ります。
子孫
・稲垣明男(巌)ー明浩・つくし
・種市八重子(巌)
・佐々木京子(巌)ー長男ー守谷天由子
・小泉閏(清)ー達矢
・ブランデス蘭(清)
※()内は親
小泉時(とき)
電気通信大学卒業
三井船舶⇨GHQ⇨在日米軍司令部報道部に勤務
守谷天由子(あゆこ)
ジュエリーデザイナー
日本語教師
夫はアイルランド人「ラフカディオ・ハーンの庭園」スタッフ。
ハーンさんの足跡を巡る旅をした際、ハーンさんの大叔母の別荘地があったトラモアで出会ったそうです。
小泉凡(ぼん)
島根県立大学短期大学部教授
小泉八雲記念館顧問
『思ひ出の記』(小泉節子著)の監修
【参考文献】
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社
『面白すぎて誰かに話したくなる小泉八雲とセツ』伊藤賀一:リベラル社
『妖怪に焦がれた男 小泉八雲大解剖』小泉凡監修:宝島社
『父小泉八雲』小泉一雄:小山書店