「空飛ぶかにいくら」へようこそ!

『ばけばけ』花田平太・花田ツル・ウメ実在モデル|冨田太平・ツネ・信

スポンサーリンク
スポンサーリンク

朝ドラ『ばけばけ』で、
ヘブンが松江で初めて泊まる宿「花田旅館」。
モデルは、文豪・小泉八雲さんが滞在した「冨田旅館」です。

生瀬勝久さん演じる主人の花田平太、
池谷のぶえさん演じる女将の花田ツル、
野内まるさん演じる女中のウメ。

それぞれの実在モデルについて、
小泉八雲さんとセツさんにどう関わったのか、
また、冨田旅館での小泉八雲さんについても
ご紹介いたします。

スポンサーリンク

『ばけばけ』花田旅館モデル|冨田旅館とは

島根県松江市にかつて存在した「富田旅館」は、小泉八雲さんが日本で暮らし始めた際に、最初に宿泊した場所として知られる旅館です。
(それ以前、取材のため関東などにも滞在しています)

規模

部屋数:10数室
従業員:女将、主人、女中、下働き
客層:役人、文化人、商売人など

冨田旅館は、家庭的で落ち着いた佇まいの人気旅館だったということです。

小泉八雲の滞在時期と滞在期間

滞在時期:1890年8月30日〜10月下旬または11月下旬
滞在期間:2〜3ヶ月

松江に着いてすぐに滞在されました。

場所と現在の様子

場所:大橋川に架かる松江大橋の北詰
現在、その場所は「大橋館」という老舗旅館が営業しています。

この大橋館には、
橋に佇む小泉八雲さんの石像と
「小泉八雲ゆかりの地-2 第一の宿・冨田旅館跡」
と書かれたパネルが設置されていて、観光ルートの1つとなっています。

住所:〒690-0843 島根県松江市末次本町40

スポンサーリンク

『ばけばけ』花田平太・花田ツルのモデル|冨田太平・冨田ツネ

では、次に「花田旅館」のモデル「冨田旅館」の主人と女将についてご紹介いたします。

花田平太のモデル|冨田太平

冨田太平
冨田旅館の主人。
旅館経営以外にも、町内会にも積極的に参加し、地域活動に力を入れていた。

冨田旅館の主人である太平さんは、後述する女中・お信さんへの対応により、小泉八雲さんを怒らせ「不人情者」と呼ばれています。

花田ツルのモデル|冨田ツネ

冨田ツネ
(1859年生まれ)
八雲さん滞在当時、31歳の若女将。
冨田旅館を支えるしっかり者。

ツネさんは、言葉や文化の違いに戸惑いながらも八雲さんに礼を尽くしていたそうです。

その記憶が鮮烈に残っていたのか、小泉八雲さんが何を食し、どのように過ごしていたのか、こと細かい事柄までお話しされています。

この証言は貴重な資料となり、冨田ツネさんは後世に小泉八雲さんの生活や人柄を伝える語りべとしての役割も果たした人物です。

また、小泉八雲さんとセツさんの出会いの仲介者の一人だと話されています。

スポンサーリンク

『ばけばけ』花田旅館女中ウメのモデル|冨田旅館お信

冨田旅館で小泉八雲さんが最も心を許していた人物は、女中のお信さんでした。

ウメのモデル|お信(おのぶ)

お信
(1875年前後生まれ)
6歳から冨田旅館の女中として働く。

ハーンの来着以来、三度の食事や入浴など、身の回りの世話の一切は冨田旅館の三十二歳になる女将のツネと、六歳で身を寄せ、当時女中働きをしていた十四、五歳のお信の手に委ねられていた。お信はハーンから大層可愛がられて、天神境内の盆踊りを見、冷たい井戸水の「釣瓶呑み」の店に寄って帰るといった、夜の行楽のお供もすれば、遊びの程度だろうが、英語も教わるといった親しみようであった。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

八雲さんが訪れた時14〜15歳だったお信さんは、八雲さんにとても可愛がられており、夏祭りや薬師参りに同行したエピソードが残っています。(『出雲に於ける小泉八雲』根岸磐井)

この「目のお薬師さん」と呼ばれる一畑薬師への参詣は
1990年11月の日曜日のことだったと言われています。

同年11月18日の「山陰新聞」では、
目を患ったお信さんを小泉八雲さんみずから眼科に連れていき、治療費を支払ったというエピソードを、美談として報道しました。

ですが、これには八雲さんと冨田旅館との関係悪化が背景にあります。

小泉セツさんの著した『思ひ出の記』に

宿の小さい娘が眼病を煩っていましたのを気の毒に思って、早く病院に入れて治療するようにと親に頼みましたが、宿の主人はただはいはいとばかりいって延引きしていましたので「珍しい不人情者、親の心ありません」と言って大層怒ってそこを出たのでした。
(引用『思ひ出の記』小泉節子)

と記されています。

「小さい娘」はお信さんだとされています。
冨田太平さんの「不人情」に激怒した八雲さんは、冨田旅館を出て、小泉セツさんと出会った借家に住み始めました。

スポンサーリンク

冨田旅館と小泉八雲・セツの出会い

冨田旅館と八雲さん・セツさんの出会いについては、諸説あります。

主人が看病のため紹介

太平さんの話では、八雲さんの滞在3ヶ月ころ、極寒の松江で体調を崩した八雲さんを冨田夫妻が看病したものの回復せず、太平さんが小泉セツさんを紹介したとあります。

女将がお信の友達のセツを紹介

女将ツネさんは、

先生にどこか士族のお嬢様を奥様にお世話したいというお話しが西田先生よりありまして、色々物色した末に、お信の友達に小泉セツさんという士族のお嬢様があり、このお方がよろしかろうということになり、私もそれがよかろうと同意致しまして、私方より先生に紹介しました。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

「お信の友達に小泉セツさんという士族のお嬢様があり」
つまりお信さんこそが出会いのキーマンだったと証言し、『八雲の妻 小泉セツの生涯』の著者・長谷川洋二さんもこの説を支持しています。

セツさんが自身の友達を「宿の小さい娘」と称すのか。
そもそも果たして14、5歳の女性を「小さな娘」と形容するのか。少し違和感はありますが、女将さんがこの時まだセツさんに会ったことがなく、紹介した後に文句を言われたという次の証言が、生々しく、真実味を帯びてきます。

ご同棲の翌日、私は初めて京店のお宅に伺いますと、節子様の手足が華奢でなく、これは士族のお嬢様ではないと先生は大不機嫌で、私に向ってセツは百姓の娘だ、手足が太い、おツネさんは自分を欺す、士族ではないと、度々の小言がありましたので、これには私も閉口致しまして種々弁明しましても、先生はなかなか聞き入れませんでしたが、しかし士族の名家のお嬢さんに間違いありませんので間もなく万事目出度く納まりました。西田先生が表面の晩酌人となっているかも知れませんが実際は申せばお信の世話でした。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

スポンサーリンク

『ばけばけ』花田旅館モデル|冨田旅館の小泉八雲

最後に、冨田旅館で小泉八雲さんの様子を、主人太平さんと女将ツネさんの証言で作成された資料の中からご紹介いたします。

『冨田旅館二於ケル小泉八雲先生』

松江城のお堀の脇にある小泉八雲記念館には
『冨田旅館二於ケル小泉八雲先生』
という資料が収蔵されています。

冨田旅館の主人太平さん女将ツネさんの回想をまとめた記録で、具体的かつ詳細、多岐に渡ります。

小泉八雲エピソード

朝ハ牛乳、卵デ澄マサレタガ、昼ト晩トノ二食ハ巻鮨ヲ食フトイフ順デ魚肉ハ刺身デモ焼イタモノデモ煮タモノデモ食ベラレ乾物野菜ノ料理ニシテモ特別好悪モナカッタガ只糸蒟蒻丈ケハ嫌ヒデ「私ノ國コンナ虫居テソレ連想スル、イヤダ
(引用『冨田旅館二於ケル小泉八雲先生』)

【食事】
朝食:牛乳と熱々の目玉焼き「エッグスフーフー」
昼食と夕食:巻き寿司、刺し身など
【嗜好】
目玉焼きを一度に大量に食べていた
糸コンニャクが気持ち悪い虫に似ているとして非常に嫌っていた
【衣服】
浴衣
【執筆活動】
長時間引きこもって執筆
宍道湖を眺めながら長考
【来客(同僚、地元民)への態度】
礼儀正しく、静かに話を傾聴していた
【健康管理】
外出後の手洗いうがい

晩年に口述筆記という形で作られた資料(1936年)ということもあり、記憶の変遷を加味すると、正確な記録とはいえません。

けれどもその証言のなかに、主人や女将から見た小泉八雲さんの人となりや日常。さらに明治初期の松江の旅館や地域社会の様子も垣間見えるところが魅力です。

小泉八雲記念館
〒690-0872 島根県松江市奥谷町322
入場料600円

 

以上、小泉八雲さんと小泉セツさんの出会いのキーポイントとなった冨田旅館、主人と女将、女中のお信さんのご紹介でした。

 

【参考文献】
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社
『思ひ出の記』小泉節子:ハーベスト出版
松江文化情報誌『湖都松江』

タイトルとURLをコピーしました