「空飛ぶかにいくら」へようこそ!

『ばけばけ』作山モデル|佐久間信恭〜小泉八雲・夏目漱石との関係

スポンサーリンク
スポンサーリンク

明治という激動の時代、日本の英語教育の礎を築いた一人の学者がいました。
佐久間信恭(さくま のぶやす)さん。

朝ドラ『ばけばけ』作山のモデルとなった人物で、言語学者、脳科学者・苫米地英人氏の曽祖父としても知られています。

佐久間信恭さんは、熊本第五高等学校(五高)の名物教授として、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんや夏目漱石さんといった、日本近代文学の巨人たちと深く関わります。

華々しい功績を持つ、誇り高き英語学者・佐久間信恭さんについて、小泉八雲さん、夏目漱石さんらとの関係を紐解きながら、ご紹介いたします。

スポンサーリンク

佐久間信恭とは

プロフィール

佐久間 信恭(さくま のぶやす)
1861年5月19日(文久元年4月10日)〜1923年(大正12年)5月1日

出身:江戸川深川森下町

戦前日本の英語学者。
第五高等学校教授。
東京高等師範学校講師。
苫米地英人の曽祖父。

家族・子孫

大久保家
父:大久保忠恕 – 静岡藩少参事
兄:忠文
長弟:松平康国(漢学者)
次弟:捨六

佐久間家
養父:佐久間信久(幕府陸軍歩兵奉行並)
養祖母:寿量
妻:久満くま(旧会津藩士佐治梅坡長女)
子:信光(東京大学経済科卒、三井物産勤務)
長女:恂子
次女:愛子
三女:千代子(英文学者苫米地英俊の妻)
孫:苫米地俊博
曽孫:苫米地英人

スポンサーリンク

佐久間信恭|妥協なき人生

幕臣の血と「ブラウン塾」での原体験

1861年(文久元年)
佐久間信恭さんは江戸深川森下町に、旗本・大久保忠恕たださとさんの次男として生を受けました。
徳川幕府を支えたエリート家系の出自で、
小泉八雲さんより11歳下です。

その後、旗本・佐久間信久さんの養子となり
1868年(明治元年)7歳
明治維新により、佐久間家は一家で駿河国沼津へと移住しました。

1872年(明治5年)11歳
横浜へと拠点を移した後、
「これからは西洋人に直接、学問を学べ」という言葉を遺し、養父が亡くなります。
佐久間信恭さんはこの教えを忠実に守り、横浜市学校の元教師サミュエル・ロビンス・ブラウン(ヘボンと並び、黎明期の日本に多大な影響を与えた宣教師)が開いた「ブラウン塾」の門を叩きました。

信恭少年はいつも頬を赤らめていたことから、ブラウン氏の娘から「チェリー」という瑞々しい愛称で親しまれます。

札幌農学校での研鑽とキリスト教

1877年(明治10年)16歳
札幌農学校(現・北海道大学)に入学した佐久間信恭さん。
一学年上には、後に日本を代表する思想家となる内村鑑三さんや新渡戸稲造さんらがいました。
内村鑑三さんの著作において「S」として登場する人物が、佐久間信恭さんです。

当時の札幌農学校は、クラーク博士の影響を受け、キリスト教精神が色濃く残る学び舎でした。佐久間信恭さんもまた熱心な信者になったとされますが、後年、ご本人はこれを否定しておられます。

1882年21歳頃〜
卒業した佐久間信恭さんは、内務省勤務を経て、福島、福岡、同志社などで教鞭を執り、英語教育の現場へと身を投じていきました。

小泉八雲との「決裂」の真相

1891年(明治24年)30歳
熊本の第五高等中学校(五高)に英語科主任として着任すると、そこで出会ったのが、同僚となった小泉八雲さんでした。

着任当初、2人の関係は極めて良好でした。
佐久間信恭さんの娘が病に伏せった際、八雲さんは一日に何度も使いを出して容態を案じたと伝えられています。
そして八雲さんの代表作の一つである『心(KOKORO)』の表紙を飾った少年の絵は、信恭さんの札幌農学校時代の同期の長男がモデルです。

(出典:明星大学図書館サイト)

ただ、この友情は長くは続きません。
この頃のことを、小泉八雲さん・セツさんの長男・小泉一雄さんが触れておられます。

熊本時代には当時第五高等中学校長たりし嘉納治五郎氏及英語教師佐久間信恭氏等に依り父は相当得る処あった。但し、佐久間氏とは後に大喧嘩をした。
(引用『父小泉八雲』小泉一雄)

なぜ、2人は決裂したのでしょうか。
そこには、日本という国に対する「理想」と「現実」の衝突がありました。
八雲さんにとって日本は、西洋の物質主義から切り離された「美わしき夢の世界」であるべきでした。

対して、佐久間信恭さんはリアリスト。
小泉八雲さんが西洋の暗黒面を語れば、佐久間信恭さんは「姑の嫁いびり」のような日本の泥臭い現実を語り、幻想を打ち砕くのです。

日本はへルンにとって美わしき夢の世界であった。この世界を破壊する事はへルンの堪え難いところであった。熊本で佐久間信恭と同僚であった。初めは非常に親しく、佐久間の娘の病気の時の如きは痛く心配して一日に何回となく使をやって病状を問わせた事もあったが、その後次第に疎くなった。これはへルンの説明によれば、へルンがフランス革命当時の惨状などを説いて西洋の暗黒面を語るに対して、佐久間は、嫁をいじめる姑の実例の話などして日本の暗黒面ばかりをきかせてへルンの美わしき世界を打ち破るからであった。
(引用『小泉八雲 ラフカディオ・へルン』田部隆次 )

さらに、宣教師の存在も火に油を注ぎます。
八雲さんは宣教師を毛嫌いしていましたが、佐久間信恭さんが宣教師と結託して自分を追い出そうとしているという疑念(ボイコット疑惑)を抱くに至ります。

ハーン、同僚との感情的軋轢で辞職し、神戸クロニクル社の論説記者となる(10月)
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

1894年(明治27年)
小泉八雲さんは熊本を去っていきました。

夏目漱石との関係と、高潔ゆえの孤立


八雲さんが去った後の
1896年(明治29年)35歳
五高に後任として赴任してきたのが、若き日の夏目漱石(金之助)さんです。

ハーンの熊本時代の書簡を読むとMr.Sakuma,the chief English teacher と数回佐久間信恭が登場して来るが、最初は仲が良かったハーンも遂にこの佐久間と反目するに至り、五校におけるハーンボイコット事件(少なくともハーンはこのようなことがあったと信じていたのである)の張本人は佐久間であるときめこみ、…(中略)…漱石が熊本の第五高等学校に赴任した時、周囲の人々が心配したのはこの佐久間信恭と衝突しはせぬかと云うことであった。
(引用『夏目漱石の熊本時代』大村喜吉)

これは杞憂に終わります。
「善く喧嘩をする佐久間君と癇癪の強い夏目君(引用『夏目漱石の熊本時代』大村喜吉)」の関係は、小泉八雲さんの時とは対照的に、穏やかなものでした。

松山の中学校から五高へ転任してきた夏目漱石さんは、佐久間信恭さんの圧倒的な英語力を高く評価しており、学生たちに対し
「僕の分からないところは、佐久間先生に習ってから教える」
と公言して憚りませんでした。

一見、謙遜のようにも聞こえますが、プライドの高い夏目漱石さんが、これほどまでにストレートに他者の能力を認めることは極めて稀。夏目漱石さんにとって佐久間信恭さんは、単なる同僚ではなく、自らの知を補完する「仰ぎ見るべき専門家」だったようです。

一方で、この2人は、教育現場においては非常に対照的な存在でした。
佐久間信恭さんの授業はあまりに高尚で、妥協を許しません。
学生たちからは
「少しも分かりません、もっと平易に教えてください」
と不満が出るほど。
もちろん佐久間信恭さんは自らの水準を下げたりはしません。

対する夏目漱石さんは、後に『吾輩は猫である』などで見せるユーモアをすでに授業でも発揮し、有能で情熱的だと好意的に受け取られました。

佐久間信恭さんは、自分の確立した英語教育メソッド(佐久間式)に夏目漱石さんが染まらないことを苦々しく思っていた節もありますが、夏目漱石さんの圧倒的な英文学の知識と、学生からの人気を前に、小泉八雲さんの時のような強硬な態度は取れなかったようです。

「佐久間追放計画」

佐久間信恭さんの「妥協のなさ」は、学内政治においては仇となってしまいます。

当時の五高校長・中川元氏にとって、学問的プライドが高く、妥協を知らない佐久間信恭さんは極めて扱いにくい存在でした。
そして前校長であり、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長に転じていた嘉納治五郎氏に密かに働きかけたのです。

「佐久間を東京へ引き取ってくれないか」

結局、この「佐久間追放計画」が直接の原因となり、佐久間信恭さんは
1897年(明治30年)7月36歳、第五高等中学校非職。
1898年(明治31年)1月
依願退官という形で五高を去ることになりました。

「知の巨人」の終焉

五高を離れた後も、佐久間信恭さんの知への探究心は衰えません。
1902年(明治35年)4月41歳
東京高等師範学校(現・筑波大学)の講師を務め、國學院や明治大学でも教壇に立ちます。

ですが、ここでも軋轢ふたたび。

1914年(明治35年)3月53歳
英語科主任の岡倉由三郎(岡倉天心の弟)氏との対立により、職を辞することとなったのです。

どこへ行っても、彼は「佐久間信恭」。
権威に媚びず、自らの学問的信念を曲げないその姿勢は、明治の知識人が持っていた「士魂商才」ならぬ「士魂学才」の体現であったのかもしれません。

1923年(大正12年)5月1日、61歳
風邪に罹り、肺炎で自宅にてその生涯を閉じました。

スポンサーリンク

佐久間信恭|誇り高き英語学者の精神性

佐久間信恭という人物を振り返るとき、そこには単なる「英語学者」以上の像が浮かび上がります。

彼は、小泉八雲さんが見ようとした「美しい日本」をあえて否定し、現実の日本を直視させようとした冷徹な知性を持ち、そして同時に、夏目漱石という稀代の文豪に「師」と仰がれるほどの専門性を備えた、真のプロフェッショナルでした。

誰よりも熱く、そして誰よりも冷徹な「真理への情熱」を秘めていた佐久間信恭さん。
その妥協なき精神は、100年の時を超えて、今なお日本の知性の中に静かに息づいています。

 

【参考文献・参考サイト】
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二
『知られぬ日本の面影』小泉八雲
『父小泉八雲』小泉一雄
『小泉八雲 ラフカディオ・へルン』田部隆次
『夏目漱石の熊本時代』大村喜吉

タイトルとURLをコピーしました