2026年大河ドラマは『豊臣兄弟!』。
豊臣秀吉・秀長兄弟と秀吉率いる豊臣家は、日本史上もっとも大きく出世した兄弟、そして天下を取ったにも関わらず滅亡した一族として知られています。
この豊臣家の栄枯盛衰は、人々の興味を駆り立ててやみません。
いかにして一族は成り上がったのか、そしてどのように滅んだのか。
こちらでは、大河ドラマを観るうえで知っておきたい豊臣一族のメンバーをご紹介いたします。
バックボーンを知ることで、大河ドラマを楽しむ一助になれば幸いです。
豊臣秀長・秀吉|兄弟
豊臣秀長(仲野太賀)

兄の天下取りを支えた名宰相
(1540年〜1591年)
天下人・豊臣秀吉の弟。小一郎(こいちろう)。
兄の天下取り支え続けた「天下一の補佐役」。
人柄は
「威ありて猛からず靄然とし仁有り(威厳はあるが獰猛ではなく穏やかで思いやりがある)」
「朴訥仁義に厚き御仁」
などと評価されています。
兄を追うように織田信長に仕え、武将となった秀長は、秀吉の片腕として活躍。
徳川家康や小早川隆景、大友宗麟ら要人との交渉役も務めました。
一方で、大名として領地の内政にも手腕を発揮。
最後の領地大和国(奈良)では城下町発展のため多様な施策を講じます。
豊臣一族発展のために欠かせない存在でしたが、52歳で逝去。
ここから豊臣家が変わっていきます。
豊臣秀吉(池松壮亮)

貧しい農民から天下人へ上りつめた奇才
(1537年〜1598年)
小一郎の3歳年上の兄・藤吉郎(とうきちろう)。
尾張中村の貧しい農家で生まれ育ちながら、主君・織田信長のもとでメキメキと頭角を現し、天下統一を果たします。
これは日本史上、他に類を見ない大出世。
天皇家や公家をルーツに持つ武将や二世武将、豪族武将が多い時代、天才とも言える才覚と周りの支えに恵まれていました。
本能寺の変で主君信長が討たれるといち早く京へ駆けつけ、後継者となりました。
ですが、天下を取った直後に弟秀長を失い、朝鮮出兵も失敗。
志半ばで亡くなります。享年62。
豊臣兄弟|母と姉
母・なか(坂井真紀)
戦国のゴッドマザー
(1513年〜1592年)
豊臣兄弟姉妹の母。大政所。
(「なか」という名は江戸期の物語で登場する名)
夫・弥右衛門の死後、織田家に仕えていた竹阿弥と再婚して織田信長とのつながりができたことが、豊臣兄弟の運命を作ったと言えるかもしれません。
61歳、長浜城で秀吉と同居。
74歳、家康の上洛を促すための人質となっています。
あさひ、秀長に先立たれ、反対していた朝鮮出兵の最中に亡くなりました。80歳。
姉・とも(宮澤エマ)
3人の息子を失った悲劇の姉
(1532年〜1625年)
豊臣兄弟の姉。
一家と同格の弥助と結婚し秀次・秀勝・秀保を儲けます。
秀次・秀勝は秀吉の、秀保は秀長の養子となります。
次男と三男が病没した後、秀次は謀反の罪を着せられ自死。
秀次の妻子も、秀吉の命令で処刑されてしまいます。
子と孫が全員死に出家したともは、4人兄弟の中で一番長生きをします。94歳。
妹・あさひ(倉沢杏菜)
徳川家康と再婚させられた妹
(1543年〜1590年)
豊臣兄弟の妹・徳川家康の正室。朝日姫。
なかが再婚した竹阿弥との娘と言われますが、不明。
佐治日向守(または副田甚兵衛)と結婚するも、
1586年43歳で離婚させられ、徳川家康の正室に。(夫の自害説あり)
どちらの夫とも子を授からなかったとされています。
44歳、家康の人質となった母と再会し、46歳から家康と別居し上方で過ごします。2年後の48歳で逝去。
豊臣秀長|妻子
正室・慶/慈雲院(吉岡里帆)
秀長唯一の息子を産み、支えた妻
(?〜1596年)
秀長の正妻。実名不明。法名「慈雲院芳室紹慶」。
1581年頃、秀長との子・与一郎が早逝すると、仙丸を養子に迎え、豊臣家を支えます。
秀長が大和国の統治を任された後は、ともに大和郡山城に入りました。
亡くなったのは夫の死から5年後。豊臣家の盛衰を見届けました。
息子・与一郎
早逝した跡取り
(1568年頃?〜1582年以前)
豊臣秀長の長男。
元服し、結婚した後、亡くなりました。
1582年に入れ替わりで丹羽長秀の息子仙丸が養子になっています。
息子の嫁・岩
夫与一郎の没後、森忠政と再婚
(1575年〜1607年)
豊臣秀長の実子・与一郎の妻。賢勝院。
秀吉の正室・ねねの書の師匠の娘で、6〜7歳頃に与一郎に嫁ぎます。
与一郎亡き後、秀長の養女に。
森蘭丸らの弟・森忠敬と再婚し、2男3女を儲け、33歳で逝去。
側室・摂取院光秀せっしゅいんこうしゅう
秀長のもう一人の妻、後継者秀保の妻を産む
(1552年〜1622年)
豊臣秀長の側室の一人。秀長の家臣・秋篠伝左衛門の娘。
36〜37歳くらいに娘を産んだとされていますが、詳細は不明。
秀長の死後または生前、出家して尼寺(興福院)の院生になり71歳で逝去。
娘①
いとこで義兄である秀保の幼妻
(1587年頃〜)
豊臣秀長と摂取院光秀の娘。豊臣秀保の妻。
秀長が病に倒れた1591年、4〜5歳の時に、秀長の養子(姉・ともの三男)義理の兄の秀保といとこ同士結ばれ、1594年正式に結婚しますが、翌年秀保に先立たれます。
娘②
秀長と他の女性との娘
(1588年〜1609年)
豊臣秀長の末娘。母は不明。毛利秀元の妻。
秀長亡き後、秀吉の養女となり、7歳で毛利秀元(毛利元就の孫で、小早川隆景・吉川元春の甥)と結婚。22歳で早逝。
姉・とも|夫子
姉・ともの息子たちは、いずれも早逝しています。
長男・豊臣秀次
秀頼誕生で自害に追い込まれた悲劇の関白
(1568年〜1595年)
ともの長男。秀吉の後継者。
三好康長の養子となり活躍し、重用されます。
17歳、小牧長久手の戦いで徳川家康に大敗。池田恒興や森長可などを失う失敗をおかします。
23歳、小田原征伐などに参戦。秀吉の天下統一に伴い清洲城主に。
24歳、秀吉と茶々の一子・鶴丸が亡くなると、関白を譲られる。
26歳、秀吉と茶々の二子・秀頼誕生。秀次の娘と秀頼が婚約。
28歳、謀反の罪を着せられ高野山へと出奔し、自害。
次男・豊臣秀勝
江の2人目の夫、朝鮮で死す
(1569年〜1592年)
ともの次男。
16歳、浅井三姉妹の江(12歳)と結婚。
娘・完子(さだこ)誕生。
於次秀勝が亡くなった後、秀吉の養子となったと言われています(諸説あり)。
九州征伐に出陣しますが、所領について不満を述べ、秀吉から勘当。
その後許され小田原征伐に参加。甲府城主に。
23歳、岐阜城主に。
24歳、朝鮮出兵。唐島(巨済島)で病没。
三男・豊臣秀保
17歳で早逝した若き当主
(1579年〜1595年)
ともの三男。豊臣秀長の後継者。
(秀保誕生時、とも48歳。ともの実子ではない可能性あり)
10歳で秀長の養子となり、13歳で秀長の娘と結婚。
秀長の死に伴い、家督を継ぎます。
秀吉や多くの家臣たちに支えられ、中納言になり「大和中納言」と呼ばれます。
順調なスタートを切りますが、17歳で病に倒れます。
子どもがなかったため、秀長の築いた豊臣家ナンバー2「大和大納言家」はここで途絶えました。
なお、秀吉は葬式不要と通達しています。
豊臣秀吉|妻子
正室・寧々(浜辺美波)
多くの武将を育て秀吉を支えた糟糠の妻
(1548年〜1624年)
豊臣秀吉の正室。北政所(きたのまんどころ)。
「あの禿鼠にあなた以上の人を見つけることはできないでしょう」
と織田信長に褒められ、徳川家康からも一目置かれる戦国の母。
身分の高くない武将の娘で、実家に反対されながらも14歳で秀吉と結婚。
実子には恵まれませんが、加藤清正(虎之助)福島正則(市松)石田三成(佐吉)らの面倒を見ます。
前田利家の娘・豪姫、織田信長の四男・於次丸を養子に。
68歳で豊臣家滅亡を経験し、77歳で逝去。
実子?養子?・石松丸秀勝
秀吉の第一子?初代秀勝
(?〜1576年)
幼名は石松丸。
秀吉の実子か養子かはっきりしていません。
母親は側室・南殿という説もあります。
後に、秀吉は養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けました。
養子・於次秀勝おつぎひでかつ
父は信長、毛利家と縁組
(1568年〜1585年)
織田信長の四男(五男)。妻は毛利輝元の養女。
本能寺の変で父信長が討たれると、秀吉に従って兄信孝とともに山崎の戦いで明智光秀を破り、若くして丹波亀山城主に。
大徳寺で行われた信長の葬儀の喪主も務めます。
賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いに出陣。
18歳で病没。
甥・小早川秀秋
運命に翻弄されつつ大出世
(1582年〜1602年)
ねねの兄・木下家定の子。秀吉の養子。
実子のいない秀吉の後継者候補でしたが、鶴松誕生で一旦外されます。
鶴松亡き後、中納言に出世し、再び後継者候補に。
秀頼が誕生すると、翌年、13歳で小早川隆景の養子に出されます。
九州に33万石の領土を得た秀秋は、16歳にして朝鮮出兵の総大将を務めます。
19歳、関ヶ原の戦いで石田方から徳川方へと寝返り、徳川方の勝利に貢献したエピソードが有名です。
21歳の若さで病没しています。
側室・茶々/淀殿(井上和)
乱世に翻弄された浅井三姉妹の長女
(1569年〜1615年)
浅井長政と織田信長の妹・お市の間に生まれた“浅井三姉妹(茶々、初、江)”の長女。淀殿。
父が信長と対立し亡くなり、信長も本能寺の変で自害すると母お市は柴田勝家と再婚。勝家も賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れ、両親が自害。
仇である秀吉の側室になりました。
どの側室も産めなかった秀吉の子を2人出産。
長男鶴松は夭逝。
秀吉が亡くなり、大阪夏の陣で徳川家康に敗れてたことから、次男秀頼とともに46歳で自害。孫の国松は処刑されました。
長男・鶴松(捨丸)
早逝した秀吉待望の子
(1589年〜1591年)
53歳の豊臣秀吉と茶々の実子。
「捨て子はよく育つ」の伝承から捨丸(別名鶴丸)と名付けられましたが、病弱で、生後すぐに薬の手配や病の祈祷などが頻繁に行われた記録が残っています。
1591年、豊臣秀長の死から約7ヶ月後、2歳で早逝します。
次男・豊臣秀頼(拾丸)

家康の前になすすべがなかった待望の跡取り
(1593年〜1615年)
豊臣秀長の死の翌々年に生まれた秀吉と茶々の実子。
6歳の時に父秀吉が亡くなり、運命が暗転します。
徳川家康の孫・千姫と結婚し、国松誕生。
天下取りに動き出した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利すると、秀頼は「天下人の跡継ぎ」から摂津河内和泉の「大名」となってしまいます。
大阪城に浪人たちを集めて大阪の陣を起こしますが、徳川軍に敗れ、22歳で母代淀殿とともに自害。息子・国松は処刑されました。
息子の嫁・千姫
奈阿姫を救うため助命嘆願した家康の孫
(1597年〜1666年)
豊臣秀頼の正室。
徳川家康の孫。徳川秀忠と江の娘。茶々の姪。
秀頼と千姫との間には、実子がいませんでした。
奈阿姫を救うため、自身の養女にし、祖父に助命嘆願。
1616年、本多忠刻と再婚する輿入れの際、さらわれかける(千姫事件)。
70歳で死去。
孫・国松
8歳で処刑されお家断絶
(1608年〜1615年)
秀頼と側室との子。
大坂夏の陣の決着がつき、父が自害した時、国松は8歳。
大坂城落城後、乳母とともに脱出をした国松ですが、伏見町に潜伏しているところを見つかります。5月22日京都所司代の板倉勝重に送られ、翌日六条河原で処刑『綿考輯録』。豊臣家断絶。
自ら首を差し出した説あり(『日本切支丹宗門史』)
孫・奈阿姫/天秀尼
命拾いし尼となる
(1609年〜1645年)
大阪の陣の後、血の繋がらない千姫が家康に助命嘆願しました。
7歳の奈阿姫は仏門に入る条件で命を許され、
1645年、37歳で死去します。
出家していたため、子供はいません。


