江戸時代を代表する狂歌師、文人として文壇、歌壇の中心人物、太田南畝。
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、桐谷健太さんがポジティブなキャラクターの大田南畝を演じられます。
特に狂歌師として唐衣橘洲・朱楽菅江と共に「狂歌三大家」として有名な大田南畝について、吉原との関係やプライベートも含めた生涯をご紹介いたします。
大田南畝|プロフィール
【本名】
大田覃(ふかし・たん)
【通称】
大田直次郎
【筆名】
四方赤良(よものあから)
寝惚先生(ねぼけせんせい)
蜀山人(しょくさんじん)など
【身分】武士(幕臣・御家人)
【代表作】
『虚言八百万八伝(うそはっぴゃくまんはちでん)』
『通詩選』
大田南畝|年表
暦年 | 数え年 | 出来事 |
1749年 (寛延2年) |
1歳 | 小身の幕臣の家に生まれる |
1766年 (明和3年) |
18歳 | 作詩用語集『明詩擢材』刊行 |
1767年 (明和4年) |
19歳 | 狂歌集『寝惚先生文集』刊行 |
1769年 (明和6年) |
21歳 | 唐衣橘州らの狂歌会に初参加 |
1771年 (明和8年) |
23歳 | ”里與”と結婚 |
1780年 (安永9年) |
32歳 | 蔦屋黄表紙『虚言八百万八伝』刊行 |
1781年 (天明元年) |
33歳 | 蔦屋から黄表紙評判記『菊寿草』刊行 |
1783年 (天明3年) |
35歳 | 『万載狂歌集』大ヒット 蔦屋黄表紙『源平惣勘定』刊行 土山宗次郎の援助が始まり、吉原通いスタート |
1784年 (天明4年) |
36歳 | 蔦屋狂詩集『通詩選』編選 |
1785年 (天明5年) |
37歳 | 11月18日 初めて松葉屋を訪れる |
1786年 (天明6年) |
38歳 | 7月15日 松葉屋”三保崎”を身請け |
1787年 (天明7年) |
39歳 | パトロン土山宗次郎失脚 狂歌から離れる |
1793年 (寛政5年) |
45歳 | 6月15日 ”三保崎(おしず)”病死 |
1794年 (寛政6年) |
46歳 | 学問吟味で首席合格 |
1796年 (寛政8年) |
48歳 | 支配勘定に昇進 |
1798年 (寛政10年) |
50歳 | 3月11日 正妻”里與”が亡くなり 後妻”およね”を迎える |
1801年 (享和元年) |
53歳 | 大坂へ転勤 蜀山人を称し狂歌再開 |
1804年 (文化元年) |
56歳 | 長崎へ転勤 |
1812年 (文化9年) |
64歳 | 息子”定吉”が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職 隠居を諦め働き続ける |
1818年 (文政元年) |
70歳 | 『蜀山百首』刊行 |
1820年 (文政3年) |
72歳 | 随筆『一話一言』刊行 |
1823年 (文政6年) |
75年 | 逝去 |
大田南畝の生涯
『吾妻曲狂歌文庫』宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)筆
大田南畝の人生を年代別にご紹介いたします。
借金しながら学問に励む10代
1749年(寛延2年)【数え1歳】
江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)、御徒(徒歩で戦う身分)の父・大田正智(吉左衛門)、母・利世の嫡男として誕生。
あまり身分の高くない幕臣(将軍直属の家臣)の子(家禄70俵5人扶持)でしたが、幼少から学問に秀でた大田南畝は借金をしながら漢学や狂詩に励んでおり、貧しいからこそ文人として名を馳せようという気持ちがあったと言われています。
(この頃の同門に狂歌三大家の1人、朱楽菅江がいます。)
【18歳】
デビュー作『明詩擢材(みんしてきざい)』という用語辞典を刊行します。
平賀源内の序文でヒット、狂歌ブームを巻き起こす20代
【19歳】
書き溜めていた狂歌が同門の平秩東作に見出され、これを平賀源内が絶賛。
狂詩集『寝惚先生文集』を刊行します。
平賀源内が序文を書いたことが評判となり、大田南畝の名声もうなぎのぼり。
ここから江戸の「天明狂歌」と呼ばれる狂歌ブームが巻き起こったと言われています。
【21歳】
唐衣橘州らの狂歌会に参加すると
「四方赤良(よものあから)」を称して「四方連」を結成し狂歌会を自ら開催するなど、狂歌師として本格始動します。
世は田沼時代。
大田南畝の国学や漢学の知識を背景にした作風は、当時の知識人たちに受け、交流を深めるきっかけになっていきました
【23歳】
富原福寿の娘・里與(りよ)と結婚。
里與は大田南畝より5歳下の17歳でした。
一男二女をもうけますが長女は夭折します。
狂歌会を主催し版元から注目される30歳前後
【28歳】
今の新宿辺りで「観月会」を主催し、版元から注目されます。
【31歳】
高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名以上の参加する大規模な「5夜連続観月会」を開催。
大河ドラマ『べらぼう』20話「寝惚けて候」では、料亭で蔦重が大田南畝に招かれ初めて狂歌の会に出席する様子が描かれています。
【32歳】
蔦屋から黄表紙『虚言八百万八伝(うそはっぴゃくまんはちでん)』を刊行。
大田南畝の代表作となります。
この頃、山東京伝らと出会い、大田南畝がその才能を見出したとも言われています。
評論家として重宝される30代前半
【33歳】
黄表紙評判記『菊寿草』を刊行。
分析に長けた大田南畝は、”評判記”と言われる評論本でもその実力を発揮します。
吉原の主人たちの結成した「吉原連」というグループの狂歌会に大田南畝が招かれ、蔦屋重三郎はたびたび吉原で接待をしていたと言われています。
そして狂歌師兼評論家の大田南畝が、耕書堂の名をあげる重要な役割を担うことになります。
※『菊寿草』のエピソードは、大河ドラマ『べらぼう』19話「鱗の置き土産」で描写されています。ドラマではまだ蔦重と出会っていませんが、実際は蔦屋からの刊行です。
名声もパトロンも妾も得た30代後半
【35歳】
朱楽菅江との共著『万載狂歌集』(『万載和歌集』のパロディ)刊行。
『万載狂歌集』は、書家、吉原連、幕臣、芸人、新興書肆、女郎に至るまでを網羅している点が驚きを持って受け入れられ、大ヒットとなります。
こちらには大文字屋の誰袖の歌も選出されています。
この頃、田沼政権下の勘定組頭・土山宗次郎に経済的な援助を受け始めた大田南畝。
吉原の主人たちが催す狂歌会へ招かれたことから、吉原にも通い出すようになりました。
【36歳】
蔦屋から狂歌集『通詩選』を編選。
30代後半、どんどん油の乗ってきた大田南畝は「うなぎ」の歌を多く残しています。
あな うなぎ いづくの 山のいもと背を さかれて後に 身をこがすとは
「あな=穴+ああの感嘆詞」「うなぎ=山芋変じて鰻となる故事を踏まえる」「いも=芋+妹(恋人)」「せ=瀬+背」「わかれ=分かれ(割かれ)+別れ」「こがす=焦がす(焼かれる)+(恋焦がれる)」
たくさんの掛詞を入れた狂歌は、鰻が焼かれて蒲焼になる様と白いうなじの女性への焦がれる恋との2つの意味に取ることができます。
【37歳】
大田南畝は恋に落ちます。
初めて松葉屋を訪れた大田南畝は、11月18日、松葉屋の遊女”三保崎(三穂崎)”と出会い、一目惚れしたようです。
天明五のとし霜月十八日、はじめて松葉楼にあそびて
香炉峯の雪のはだへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
いざゝらばふすまをはるのまつばやの玉だれのうちに冬ごもりせん
三保崎を三保の松原の天女に見立てる歌を多く残しています。
三保崎と三保の松原と松葉屋という掛詞もかなり気に入ったようです。
年明け2日、松葉屋に来て
天明六のとし正月二日、松葉楼にあそびて
一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉屋
さらに
六月四日の朝
きてかへる錦は三保の松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳
美人、衣を贈る
美人贈我錦衣装 孔雀双飛五彩章
夢断青楼消息絶 時開篋笥慕余香
これは、身請けが成立した時でしょうか。
【38歳】
7月15日、三保崎(三穂崎)を身請けします。
松葉樓中三穂崎 更名阿賤落蛾眉
天明丙午中元日 一擲千金贖身時
嘉平幾望 山谷道人書於越鳥巢
妾として山谷近くの「逍遥樓(二代目大文字屋主人の別荘)」で囲った後、自宅に離れ「巴人亭」を造って住まわせました。
八月二十八日、逍遥楼にうつりて
郭中の荘子のひびきあればにや逍遥楼とよばゞよばなん
大田南畝は三保崎の歌をたくさん詠んでいます。
我恋は天水桶の水なれや屋根より高きうき名にぞ立つ
この時、三保崎こと「おしづ」は、大田南畝より16歳くらい年下の22〜24歳。
松葉屋での三保崎は、1位の五代目鳥山瀬川から数えて18位だったことが細見から判っています。
また、大田南畝は三保崎に取材して『松楼私語』を書いたり、喜多川歌麿の浮世絵『三保の松原道中』にも賛を寄せたりしています。
「寛政の改革」でピンチ!普通の武士に戻ります宣言の40代
【39歳】
松平定信による「寛政の改革」が始まり、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人として悉く粛清されていくと、パトロン・土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまいます。
【40歳】
蔦屋重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を刊行しますが、さらに文筆界で粛清の嵐が吹き荒れ、蔦屋重三郎や仲間の山東京伝も処罰を受けます。
世間では、「寛政の改革」批判の狂歌
世の中に蚊ほどうるさきものはなし
ぶんぶ(文武)といひて夜もねられず
の作者だと見られていましたが、大田南畝はわざわざ釈明文を書き、潔白を主張します。
我かつてみづからあやまりてり汝まのあたり諌めてかくさず、我かつて人にそしらる、汝悔りをふせぎて容れず
狂歌などから距離を置き、武士としての道を選んだことが、1803年(享和3年)に書かれた日記『細推物理』から判ります。
試験に首席合格、出世コースに乗る40代後半
【45歳】
愛妾おしず(三保崎)が発病します。
正妻に看病させるわけにもいかず、市ヶ谷の浄栄寺へ入り、そのまま亡くなったということから、やはり正妻とおしずの関係や、大田南畝が正妻に気を使っていたことも推測できます。
6月19日に亡くなったおしずは、29歳〜31歳だったと推定されます。
共に過ごした月日は8年足らずでした。
これ以降、大田南畝は19日に自宅で例会を催しています。
【46歳】
「学問吟味登科済」が創設されたのを機に、心機一転これを受験すると、首席合格を果たす大田南畝。
世間では出世できないと思われていたものの
【48歳】
支配勘定に昇進します。
2年後、書類の山を見て
五月雨の日もたけ橋の反故しらべ今日もふる帳あすもふる帳
と詠んでいます。
【50歳】
正妻”里與”が亡くなると、後妻”およね”を迎えます。
以降は武士として要地に転勤しながらキャリアを積み、出世していくことになります。
狂歌を再開した晩年
『蜀山人(大田南畝)像』鳥文斎栄之筆(出典:ColBase)
江戸を離れ、要地・大坂に赴任すると「蜀山人」の名で狂歌の創作を少しずつ再開し、随筆『一話一言』なども執筆するようになりました。
ただのんびり過ごすということはなかなかできず
【64歳】
息子の定吉が支配勘定見習として召しださますが、心の病を患い、失職してしまいます。
このことで自身の隠居を諦め、働き続けたそうです。
【73歳】
浄栄寺に赴いておしず(三保崎)の法要を執り行った大田南畝は、次の歌を残しています。
水無月十九日、例の晴雲忌に、甘露門にて。
三十年にひととせたらず二十日には、ふつかにみたぬ日こそわすれね
【75歳】
登城の道での転倒が元で死去。
辞世の歌は
今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん
だと伝わっています。
大田南畝と三保崎のお墓|本念寺
お墓は小石川の本念寺(文京区白山)にあります。
そして、その墓石のちょうど裏側に背の低い墓石が設置されています。
正面には
寛政五年癸丑
晴雲妙閑信女
六月十九日
と彫られており、亡くなった日から
大田南畝の愛妾・おしず(三保崎)のお墓だとわかります。
お墓の側面には南畝が記した文字が見られます。
不知姓為字 辞仙境因仏寺 寓我室
扶我酔八九年託終始命之薄病為累
書在袖衣在笥豈無従于爲涕蔵白山
覆一簣歳癸丑夏之季南畝子書
姓を知らず賤を字と為す
仙境を辞し仏寺因る
我が室に寓し
我が酔いを扶くること八九年
終始を託す
命の薄く病を累と為す
書は袖に在り衣は笥に在り
豈に涕涙に従ること無からんや
白山に蔵め一簣を覆ふ
歳は癸丑 夏の季
南畝子書す
〒112-0001 東京都文京区白山4丁目34−7
都営地下鉄三田線「白山」駅から徒歩6分