朝ドラ『ばけばけ』で、シャーロット・ケイト・フォックスさん演じるイライザ・ベルズランドの実在モデル・エリザベス・ビスランドさんについてご紹介いたします。
『ばけばけ』イライザ実在モデル|エリザベス・ビスランドとは
朝ドラ『ばけばけ』でシャーロット・ケイト・フォックスさん扮するイライザ・ベルズランドは、NHK公式サイトで次のように紹介されています。
アメリカで活躍する女性記者でヘブンの同僚。聡明で、世界を飛び回る行動力を兼ね備えた“パーフェクトウーマン”。ヘブンに日本行きを勧める。
(引用:NHK公式サイト)
実際のエリザベス・ビスランドさんはどのような人物だったのでしょうか。
エリザベス・ビスランド|プロフィール
エリザベス・ビスランド・ウェットモア
Elizabeth Bisland Wetmore
(1861年2月11日〜1929年1月6日)
アメリカのジャーナリスト・編集者。
才知と美貌に恵まれ、実業家の妻となり、世界中を旅した女性。
1889年〜1890年:同じ女性記者のネリー・ブライと世界一周レースを競い、世界の注目を集めました。
1906年:ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と親交を結んでいたエリザベス・ビスランドは、彼の没後に伝記『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡(The Life and Letters of Lafcadio Hearn)』を執筆します。
年譜 (ラフカディオ・ハーンとエリザベス・ビスランド)
ラフカディオ・ハーン (小泉八雲) |
エリザベス・ビスランド | |
1850年 | 0歳:ギリシャ レフカダ島で生まれる | |
1854年 | 4歳:両親が離婚 | |
1861年 | 0歳:アメリカルイジアナ州プランテーションで生まれる | |
1865年 | 16歳:失明 | |
1866年 | 16歳 父、病死 大叔母、破産 |
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1867年 | 17歳:カレッジ退学 | |
1869年 | 19歳:アメリカへ 貧困→ ジャーナリストに |
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1873年 | 12歳: ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットに詩を投稿 |
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1874年 | 24歳: アリシア(マティ)・フォリーと結婚 |
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1877年 | 27歳:離婚 ニューオーリンズへ |
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1881年 | 31歳: ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット文芸部長に |
ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットから原稿料が支払われ始める |
1882年 | 32歳 記事「死んだ花嫁」執筆 エリザベス・ビスランドと出会う |
21歳 「死んだ花嫁」を読み ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットに勤務 ラフカディオ・ハーンと出会う |
1887年 | 26歳: ニューヨーク『ザ・サン』勤務 |
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1889年 | 28歳〜: 80日間世界一周旅行で 日本を訪れる |
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1890年 | 40歳: 通信員来日 契約破棄→英語教師に |
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1891年 | 41歳: 小泉セツ(小泉節子)と結婚 |
30歳: 法律家チャールズ・W. ウェットモアと結婚 |
1896年 | 46歳: 帰化し「小泉八雲」 東京帝国大学文科大学の英文学講師に |
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1902年 | 52歳『骨董(Kotto)』 | |
1903年 | 53歳東京帝国大学退職(後任は夏目漱石) | |
1904年 | 54歳 『怪談(kwaidan)』 狭心症で息を引き取る |
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1906年 | 43歳: 伝記『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』刊行 →印税を遺族に |
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1909年 | 来日 ラフカディオ・ハーンの妹ミンニー来日 |
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1929年 | 67歳 息を引き取る |
『ばけばけ』イライザ実在モデル|エリザベス・ビスランドの生涯とラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーンに憧れ記者に
1861年2月11日:
アメリカ・ルイジアナ州セントメアリー郡のプランテーション生まれ。
南北戦争後のプランテーション時代は、困難な生活を強いらていました。
1873年(12歳)以降:
エリザベス・ビスランドさんは、新聞ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットに「B・L・R・デーン」というペンネームで詩を投稿し始めます。
1882年の冬(21歳):
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「死んだ花嫁」という記事を読み、ジャーナリストを志したエリザベス・ビスランドさん。
ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットで働き始めました。
この新聞社にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が文芸部長として勤務しており、親交を結びます。
1887年(26歳)頃〜1889年:
ニューヨークに移り『ザ・サン』に勤務します。
ニューヨーク・ワールドを含む各社で働き、雑誌『コスモポリタン』の編集者の職に就きながら他の雑誌にも寄稿しています。
世界一周旅行で来日
1889年(28歳)11月:
ニューヨーク・ワールドは、ジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』を模した80日間世界一周旅行を企画。
ネリー・ブライ記者を世界一周に派遣すると発表。
雑誌『コスモポリタン』を買収したジョン・ブリスベン・ウォーカーは、エリザベス・ビスランドの派遣を決定。
その6時間後、エリザベス・ビスランドさんは出発しました。
エリザベス・ビスランドさんはニューヨークから西回り、ブライは東回りで競争をさせられましたが、ブライさんは12月25日に香港に到着するまで、ライバルの存在を知らされておらず。
その後は、抜きつ抜かれつありながらエリザベス・ビスランドさんが敗れますが、76日半で旅を完遂。
この競争は世界中の注目を集めました。
エリザベス・ビスランドさんは『コスモポリタン』誌に旅行記を連載し、それは後に単行本『In Seven Stages: A Flying Trip Around The World』(1891年)として刊行されました。
ラフカディオ・ハーンの日本行きのきっかけ
この旅行で、日本には2日間滞在し、芝の東照宮を見て感嘆し
「我もアルカディアにありき」
と記しています。
また、マクドナルドとも知り合ったことが、ラフカディオ・ハーンの日本行きを決める要因の一つになりました。
ラフカディオ・ハーンと同じ年に結婚
1891年
ラフカディオ・ハーンが小泉セツさんと結婚したこの年に、
エリザベス・ビスランドさんも、法律家チャールズ・W. ウェットモアさんと結婚。
その後も、生涯にわたる深い交友があり、大量の手紙を出し合う2人。
ラフカディオ・ハーンさんは、来日後9作目『日本雑記』をエリザベス・ビスランドさんのために書いています。
ラフカディオ・ハーンさんのの長男・小泉一雄さんは、著書『父小泉八雲』の中で
エリザベス・ビスランド女史との親交は、あるいは一種の恋愛ともいえるかもしれぬ。しかし、それは白熱の恋ではない。沢辺の蛍のごとき清冽な恋である。
(引用:『父小泉八雲』小泉一雄)
と記しておられます。
お互いの才能を尊敬しあい、深い友情を育んでおられたことがわかります。
ラフカディオ・ハーン没後の遺族支援
1906年
没後に伝記『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡(The Life and Letters of Lafcadio Hearn)』を執筆したエリザベス・ビスランドさん。
この印税は、小切手で小泉セツさん送られます。
また、生前、手紙で長男小泉一雄さんの海外留学をラフカディオ・ハーンさんに頼まれていたエリザベス・ビスランドさんは、小泉セツさんに一雄さんの渡米を促します。
47歳のエリザベス・ビスランドさんが小泉セツさんに宛てた手紙がこちらです。
私は一雄のことを考えてきました。もし、西洋の教育を受け、英語を身につけるとすれば、渡米をいつまでも先に引き延ばすことは出来ません。前から言っているように、彼がまず私の所に来て、今後は私の家を第二の家と見做して欲しいのです。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
人脈を使い、学費が軽く済むようにする、金銭的援助もするとその手紙には書かれています。
エリザベス・ビスランドさんの夫は、鉄道会社との経営にも携わっており、その関係で無料でニューヨークまで行けるパスを所持していたようです。
1929年、67歳でその生涯を閉じました。