朝ドラ『あんぱん』第2話では、父の銀座土産のあんパンの思い出を、嵩がのぶと屋村草吉に話します。
その回想シーンのパン屋には「美村屋」の文字が…。
銀座のパン屋といえば、あんパンで有名な「木村屋」。
こちらのページでは、美村屋のモデルと思われる木村屋の複数表示
「木村屋」「木村家」「木村屋總本店」
の違いについて、ご紹介いたします。
木村屋あんぱん誕生の背景
日本独自の「あんパン」。
まずは、木村屋があんパンを発明するまでの時代背景を紐解きます。
幕末につくられた兵糧パン
日本で初めて本格的にパンが作られたのは、幕末のことでした。
1842年(天保13年)伊豆韮山の代官で蘭学者 ・江戸太郎左衛門が乾パンに似た「兵糧パン」を家で試作します。
国防に危機感を抱く江川は、有事に備え、兵士の非常食として、米と違ってそのまま食べられ腐りにくいパンに注目したのです。
軍隊を中心に広まっていくパン。
一方で、腹持ちの悪さが兵士には不評でした。
外国人居留地のフランスパンとイギリスパン
町では、外国人居留地を中心にパンが焼かれるようになりました。
その頃は、幕府がフランスの軍事支援を受けていたため、「フランスパン」が中心だったということです。
ところが、イギリスと関係が深い薩摩、長州が実権を握った明治維新以降になると「イギリスの山形食パン」が主流になっていきます。
木村屋のあんぱん
同じ頃、日本ならではのパンが人気を博しました。
1874年(明治7年)に考案された木村屋の「あんパン」です。
当時 使われていたホップ種の代わりに、”酒種”を使って生地を発酵させたのが、画期的でした。
1900年(明治33年)に、木村屋はさらに「ジャムパン」を発売。
1904年(明治37年)には、中村屋が「クリームパン」を発売しました。
ドラマ『あんぱん』では、1927年(昭和2年)、銀座から遠く離れた高知の御免の地で8歳のヒロイン・のぶが初めてあんパンを口にすることになります。
木村屋
木村屋のあゆみ
1869年(明治2年)東京芝日陰町で「文英堂」として開業しました。
牛久の武士だった木村安兵衛が明治維新で職を失い、上京してパン屋を始めたのです。
1870年(明治3年)火災により京橋区尾張町(現在の銀座)に移転。
「木村屋」と屋号を改めます。
1874年(明治7年)に、創業者・木村安兵衛が日本人好みのあんこをしっとりとした生地で包んだ「酒種あんぱん」を考案すると、またたくまに大好評、木村屋はたちまち有名店になりました。
現在の場所に移ったのは、関東大震災で店が焼失した後、1927年(昭和2年)のことでした。
銀座木村家
銀座の一等地に店を構える「銀座 木村家本店」は、老舗の趣き漂う佇まいです。
七・八階には、パン工場があり、毎日いろいろな種類のパンがつくられていますので、できたての味をすぐにいただくことができます。
住所: 〒104-0061 東京都中央区銀座4丁目5−7
営業時間:10:00〜20:00
「木村屋」「木村家」「木村屋總本店」の違い
キムラヤの複数の表示
「木村屋」「木村家」「木村屋總本店」
こちらの違いについて「銀座木村屋總本店」公式サイトに次のような記載が見られます。
現在は、「木村家」は銀座本店(株式会社銀座木村家)、直営店向け製品のブランド名として、「木村屋總本店」はスーパー・コンビニ向け製品のブランド名として使用しております。
創業者が銀座に構えた店の屋号は「木村屋」で、後に「株式会社木村屋總本店」となりました。
「木村家」は現在、銀座本店に掲げてあります山岡鉄舟の書による看板「木村家」が由来とされており、以前は木村屋で技術を習得し一人前になった一般の職人へ、のれん分けをする際に「木村屋一家」という意味を込めて授けた屋号でもありました。 (現在はのれん分け制度は廃止されております。)
また、「銀座本店」については、7、8階にパン製造設備を持ち、喫茶・レストランの営業も行うなど独自の運営を致しておりますことから、平成21年に独立して株式会社となりその社名を看板にちなんだ「株式会社銀座木村家」とし、「株式会社木村屋總本店」とともに木村屋グループとして展開をしております。
(出典:「銀座木村屋總本店」公式サイト)
要約すると
・「木村屋」「木村屋グループ」
「木村屋」は創業者が銀座に店を構えた頃の屋号(後の「株式会社木村屋總本店」)で、
「木村家」と「木村屋總本店」は「木村屋グループ」の中に含まれる。
・「木村家」
株式会社銀座木村家(=銀座本店)&直営店向け製品のブランド名
(銀座本店の「木村家」の看板に由来するとされ、かつて暖簾分けの為に使った屋号)
・「木村屋總本店」
株式会社木村屋總本店
スーパー・コンビニ向け製品のブランド名
ということになります。
明治末期から大正初期にかけての東京のパン業界では、木村屋系と三河屋系が2大勢力であり、その暖簾分けでなければ繁盛しないと言われたほどだったそうです。
木村屋3代目の木村儀四郎さんが1902年(明治35年)に木村屋系の店の集まりである「木村屋世襲会」を作りましたが、日露戦争までは10軒程度だった木村屋名のパン屋が、大正初期には100軒以上となり、混乱状態となってしまいます。
その結果、直接の暖簾分け以外の孫店やひ孫店とは関係を絶ち、正統な木村屋系統店にのみ認可証を出すようになったとのこと。
名前の表記の違いは、木村屋が紆余曲折しながら成長を続けてきた痕跡ともいえるかもしれません。