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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とその家族(両親・兄弟・2人の妻・子ども・子孫)

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2025年後期朝ドラ『ばけばけ』は多くの怪談話を著した小泉八雲さんと妻の小泉セツさんを主役モデルにした物語が放映されています。

こちらのページでは朝ドラ『ばけばけ』レフカダ・ヘブンのモデル・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんとその家族(両親・養父母・養祖父・兄弟姉妹・妻・子供たち)についてご紹介しています。

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(誕生日・死因)

プロフィール

小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)
(1850年6月27日〜1904年9月26日)

【名前】
ミドルネームは、出身地「レフカダ島の」という意味。
ファーストネームは、父の故郷にある聖パトリック大聖堂の聖人から名付けられましたが、渡米と同時にこの名を捨てています。
日本では、「Hearn」から「ヘルンさん」と呼ばれていました。
帰化名「八雲」は、「出雲国」にかかる枕詞の「八雲立つ」に因んで義父に付けられました。

【経歴】
アイルランド人の父とギリシャ人の母から生を受けます。
4歳で母と別離、7歳で父と別離して以降、父母と会うことはなく、父の叔母に育てられます。

その大叔母が破産すると移民として渡米し、苦労を重ねながらもジャーナリストに才能を開花させます。

その後、憧れの地・日本で小泉セツさんと所帯を持ち、終の棲家に。

セツさんの語り部としての協力もあり出版した怪談などは、「再話文学」として評価され、東京大学や早稲田大学などで教鞭をとりました。

【死因】
心不全。

1904年9月26日心臓発作で54歳の生涯を閉じます。
(引用:小泉八雲記念館公式サイト)

この日、突然胸の痛みを訴えたラフカディオ・ハーン。
食事をやめて書斎へ行くと、胸に手を当てて部屋の中を歩き回ります。
セツさんが布団にいざなうと、胸に手を当てたまま静かに息を引き取ったということです。

代表作

『骨董(Kotto)』1902年
幽霊滝の伝説、茶碗の中、常識、他

『怪談(kwaidan)』1904年
耳なし芳一のはなし、むじな、ろくろ首、雪女、葬られた秘密、食人鬼、他
1850年 0歳 イオニア諸島 合衆国 レフカダ島で生まれる
1854年 4歳  両親が離婚
父方の大叔母から厳格なカトリック教育を受ける
1865年 16歳  カレッジの回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左眼に当たって失明
以後左眼の色が右眼とは異なるようになったため、写真は右側からのみ撮らせるようになる。
1866年 17歳 父、西インドから帰国途中に病死
大叔母、破産
1867年 17歳 カレッジを退学
1869年 19歳  アメリカへ
日雇い仕事など貧困時代を経て
フランス語を活かしジャーナリストとして活躍
1874年 24歳 アリシア(マティ)・フォリーと結婚
1877年 27歳 離婚
1890年 40歳 アメリカの出版社の通信員として来日するも契約破棄
英語教師に
1891年 41歳  小泉セツ(小泉節子)と結婚
1896年 46歳 帰化し「小泉八雲」となる
東京帝国大学文科大学の英文学講師に
1902年 52歳 『骨董(Kotto)』
1903年 53歳 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)
1904年 54歳 『怪談(kwaidan)』
1904年 54歳  狭心症で息を引き取る
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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)父母

父|チャールズ・ブッシュ・ハーン

チャールズ・ブッシュ・ハーン
(Charles Bush Hearn )
1818年〜1866年

イギリス領アイルランド東部ダブリン出身。
地元の医学部を卒業し、イギリス陸軍の軍医補になったチャールズは、赴任先のギリシャイオニア諸島のローザ・アントニウ・カシマチと恋に落ち、駆け落ち同然でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が生まれます。

妻子を故郷ダブリンに呼び寄せるも、チャールズ自身はめったに帰ってこられません。
たまたま黄熱病にかかり帰省していた時、未亡人となった初恋の女性アリシア・ゴスリン・クロフォードに再会。

すると、身重の妻ローザに結婚無効の申立をして、アリシアと連れ子を連れてインドへと赴任していきました。

もし私のあの酷いのパパさん私を訪ねて参りましょうならば、私、左様なら云います。私玄関から「往(い)んでくれ、もう来るなだい」(出雲弁)と叫びましよう。
(引用『父小泉八雲』小泉一雄)

ラフカディオ・ハーンが、最後に父に会ったのは7歳。
生涯、自分達を捨てた父チャールズを許すことはなく、インドからの手紙にも一度も返事を書きませんでした。

母|ローザ・アントニウ・カシマチ

ローザ・アントニウ・カシマチ
(Rosa Antonia Cassimati )
1823年〜1882年12月12日

ギリシャ、イオニア諸島キシリ島出身

地元の名士を父にもつローザは、裕福で美しい女性でした。

イギリス軍の軍医補としてやってきたチャールズ・ブッシュ・ハーンの子を妊娠し、出産。

夫チャールズは、アイルランドに滞在しており、長男ロバートの死(ラフカディオの誕生から1ヶ月半後に病死)にも次男ラフカディオ(小泉八雲)の誕生にも立ち会っていません。

ワンオペ育児のローザは、ラフカディオが2歳になると、夫の故郷アイルランドのダブリンへ移住します。

温暖な地中海育ちのローザは、言葉も通じない寒く陰鬱な北国アイルランドに馴染めず、次第に精神を病んでいきます。

第3子を懐妊すると、静養を理由にギリシャに返されます。
出産したばかりのローザに待ち受けていたのは、不倫夫からの結婚無効の申し立てでした。

その後、イタリア系男性と再婚の話が出ますが、息子たちを引き取らないことを条件に出され、生まれたての息子を乳母とともにアイルランドへ返すことに。

ローザは、2男2女4人の子どもに恵まれるも、息子たちが忘れられず、はるばるダブリンを訪れます。
その時、ハーン家に追い返され、息子たちには会えなかったとのこと。

結局、ラフカディオが最後に母に会ったのは、弟の里帰り出産前、4歳の時でした。

どんどん宗教に傾倒していったローザ。
躁うつ病と診断され、精神病棟で晩年10年間を過ごしました。

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)兄弟

兄|ジョージ・ロバート・ハーン

ジョージ・ロバート・ハーン
1949年頃〜1950年8月

ラフカディオ・ハーンより1歳上。
ラフカディオ誕生の1ヶ月半後に病死。

弟|ジェイムズ・ダニエル・ハーン

ジェイムズ・ダニエル・ハーン
1854年〜
ラフカディオ4歳年下の弟
母ローザがアイルランドからギリシャに里帰りし、誕生。

アイルランドに返されたジェームズは、ラフカディオが大叔母に引き取られた際、叔母の婿が経営していた学校に送られて、16歳まで過ごします。

その後、まったく会うことも連絡を取ることもなかった兄と同様にアメリカに渡り、偶然にも兄と同じオハイオ州ギブスンバーグで農業を営んでいました。

著名になったラフカディオは、弟・ジェームズから手紙を受け取り、文通を始め、その事実を知ることに。

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)異母姉妹

父チャールズ・ブッシュ・ハーンの再婚相手アリシア・ゴスリン・クロフォードの娘たちです。

異母姉妹|エリザベス

エリザベス・ハーン
ラフカディオに手紙を出しても返事をもらえなかった異母姉妹。

異母姉妹|ポージー

ポージー・ハーン
ラフカディオに手紙を出しても返事をもらえなかった異母姉妹。

異母妹|ミンニー・アトキンソン

ミンニー・アトキンソン
父チャールズとアリシアの間に生まれた異母妹。

未亡人のミンニーは、ラフカディオと書簡のやり取りをしており、ラフカディオはその中で、息子一雄をイギリスに連れて行くと答えています。

1909年
ラフカディオの死から5年、一雄より1歳下の娘ドロシーを連れて来日し、西大久保の小泉家を訪ねてお墓参りをしています。

この時のミンニーを、養母・稲垣トミさんは「いとほしげ」と表現されています。

ミンニーは、良きにつけ悪しきにつけ温順そのもので、来日の前年に撮られて、各種のハーン伝で使われている美しい写真と、訪日前の五通のマクドナルド宛書簡に、その純な性格がよく表れている。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)

ですが、ラフカディオ・ハーンの生涯の女友達で、『生涯と書簡』を出版したエリザベス・ビスランドは、ミンニーを警戒します。

ミンニーが来日する前の年(一九〇八)の秋、ビスランドがロンドンで彼女に会って、『日本時代の書簡』のための書簡提供を求めた時に、「本からの収益は遺族へ」と聞いても、ミンニーは言を左右にしたービスランドは不快感を覚え、以後彼女を相手にしないことにする。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)

結局、エリザベス・ビスランドは、『生涯と書簡』のなかでミンニーに言及しません。
ミンニーは不満でしたが、後日、手紙を提供したミンニーへのお礼として、セツさんから100ポンドが贈られています。

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)大叔母

大叔母|サラ・ブレナン

サラ・ブレナン
〜1871年

サラ・ブレナンは、父方の祖母エリザベス・ホームズの妹で、子どものいない裕福な未亡人でした。
また、敬虔かつ厳格なカトリック信者でもありました。

宗教的な考えや同情から、ダブリンで精神を病んだ孤独なローザとラフカディオを屋敷に置き、面倒をみたうえ、ラフカディオの両親が離婚してからは、ラフカディオを引き取り、夫の遺した莫大な資産を継がせるために厳格な宗教教育を施します。

ただ、これが裏目に出て、ラフカディオにキリスト教への反感を植え付けてしまいます。

このようなサラ・ブレナンですが、遠縁にあたるヘンリー・モリヌーという青年実業家の事業に投資をして失敗。

1866年には破産してしまい、ラフカディオは全寮制神学校の退学を余儀なくされました。

退学となったラフカディオは、大叔母ブレナンのもとには戻らず、送られてきたお金で渡米し、その後二度と会うことはありませんでした。

1871年、ラフカディオは、ブレナン夫人が亡くなったという報せをモリヌーから受け取ります。

叔父|リチャード

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)2人の妻

1人めの妻|アリシア(マティ)フォリー

アリシア(マティ)・フォリー
【婚姻期間】1875年〜1877年

ラフカディオがシンシナティの下宿屋に住んでいた時の料理人。
マティと呼ばれています。
黒人奴隷と白人農場主の間に生まれた混血の女性。

1874年(ラフカディオ24歳)から同棲し、翌年、周囲の反対を押し切って結婚?しますが、異人種間結婚を禁じていた当時のオハイオ州法に抵触してラフカディオは解雇されます。

夫婦の仲も冷え、2年で破局しました。

再婚相手|小泉セツ

小泉セツ
(1968年2月4日 〜1932年2月18日)
【婚姻期間】1891年〜1904年

1968年節分松江の士族・小泉湊の次女として生まれた小泉セツさん。

生まれてまもなく遠戚である稲垣家に養女に入り、「お嬢」と呼ばれ大切に育てられますが、稲垣家は没落。小学校の上等教科への進学は叶いませんでした。

11歳、機織りの仕事で家計を助けます。

18歳、士族の前田為二さんと結婚しますが、
22歳、婚姻関係を解消して小泉家に戻ります。

一人住まいの英語教師ラフカディオ・ハーンの家に住み込み女中として働き始めました。

「怪談好き」という共通点がある二人は、意気投合。
同居から半年後、ラフカディオが41歳セツさん23歳で結婚します。

セツさんは、執筆に専念する夫に民話を口頭で伝え、それを基にラフカディオが書いた作品は「再話文学」として注目され高い評価を得ます。

夫の死後も遺された遺産のお陰で困ることなく、三男一女を育て、64歳で亡くなります。

1868年 0歳 出雲 松江藩の家臣・小泉家に生まれる
父は小泉弥右衛門湊
母はチエ
生後7日目で子供のなかった親類・稲垣家の養女に
1886年 18歳 前田為二を婿にとる
前田為二逃げ出す
1890年 22歳 婚姻を解消し小泉家に戻る
1891年 22歳〜23歳 2月単身のラフカディオ・ハーンの家の住み込み女中に
8月結婚
11月熊本へ
1894年 26歳  神戸へ
1896年 28歳 夫が帰化
東京へ
1904年 36歳 夫・小泉八雲死去
1932年 64歳 息を引き取る
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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)子ども・子孫

小泉セツさんは4人のお子さんに恵まれました。

長男|小泉一雄

小泉一雄
1893年11月17日生まれ
『父小泉八雲』の著者。
早稲田大学卒業し
ラフカディオの親友マクドナルドの経営する横浜グランドホテルに勤務。

父・小泉八雲の遺稿の整理や書簡集の編集などを行いました。
栗色の髪と青い目、父親似の鼻を持つ一雄さんを小泉八雲さんは夢中で可愛がっていたそうです。

名前の由来は「ラフカディオ」の「カディオ」という音から。

教え子たちの思い出には、人格円満な良き教師としての一雄の姿が見られる。しかし次第に不幸な精神状態に陥って行ったことは、『父小泉八雲』(一九五〇)の叙述を覆う気分で、疑うべきもない。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)

次男|稲垣巌

稲垣巌
1897年2月15日生まれ
蛙恐怖症で長身のイケメン。
4歳の時、トミさんと養子縁組を結び、稲垣家の後継になりました。
一雄さんの回想では、元気で闊達な幼少時代だったとのこと。

妻となる翠さんと大恋愛の末、出席日数が足らず
京都帝国大学工学部を除籍。
翌年、八重子さんが誕生すると
京都帝国大学文学部に入り直し、英語教師になります。

ですが、さる令嬢と不毛な恋に落ち、妻子は巌さんの元を去っていきました。
その後、癌により40歳で孤独な死を迎えます。

三男|小泉清

・小泉清
1899年12月20日生まれ
東京美術学校(現・東京藝術大学中退)
洋画家

ラフカディオの教え子・会津八一が清の絵に惹かれ、東京美術学校入学前の半年ほど一緒に暮らします。

在学中にモデルのシヅさんと恋に落ち、閏さんが誕生。

62歳の時にシヅさんが急逝すると、その3ヶ月後、みずからの人生に幕を下ろしました。

長女|小泉寿々子

・小泉寿々子
1903年9月10日生まれ
寿々子さん誕生の翌年に小泉八雲さんが急逝しました。
寿々子さんは3歳で風邪をこじらせ脳髄炎に罹ります。

子孫

小泉時(一雄)ー小泉凡ー小泉想
・稲垣明男(巌)ー明浩・つくし
・種市八重子(巌)
・佐々木京子(巌)ー長男ー守谷天由子
・小泉閏(清)ー達矢
・ブランデス蘭(清)
※()内は親

小泉時(タイム)
電気通信大学卒業
三井船舶⇨GHQ⇨在日米軍司令部報道部に勤務

一雄さんの息子の時さんは、盲目的なセツさんの愛情を受け、巌さんや清さんの娘の八重子さん、京子さん、蘭さんのために買っていたおもちゃまで、時さんにあげてしまうほどだったといいます。

守谷天由子(あゆこ)
ジュエリーデザイナー
日本語教師
夫はアイルランド人「ラフカディオ・ハーンの庭園」スタッフ。
ハーンさんの足跡を巡る旅をした際、ハーンさんの大叔母の別荘地があったトラモアで出会ったそうです。

小泉凡(ぼん)
島根県立大学短期大学部教授
小泉八雲記念館顧問
『思ひ出の記』(小泉節子著)の監修

 

【参考文献】
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社
『面白すぎて誰かに話したくなる小泉八雲とセツ』伊藤賀一:リベラル社
『妖怪に焦がれた男 小泉八雲大解剖』小泉凡監修:宝島社
『父小泉八雲』小泉一雄:小山書店

 

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