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『ばけばけ』錦織友一(吉沢亮)モデル|西田千太郎

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朝ドラ『ばけばけ』で、吉沢亮さん演じる錦織友一の実在モデル・西田千太郎さんについてご紹介いたします。

 

登場人物と実在モデル
松野トキモデル|小泉セツとその家族
ヘブンモデル|小泉八雲とその家族
松野フミ(池脇千鶴)モデル|稲垣トミ
松野司之介(岡部たかし)モデル|稲垣金十郎
山根銀二郎(寛一郎)モデル|前田為二
雨清水タエ(北川景子)モデル|小泉チエ
雨清水傳(堤真一)モデル|小泉湊
雨清水三之丞(板垣李光人)モデル|小泉藤三郎
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の母|ローザ・アントニウ・カシマチ
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の父|チャールズ・ブッシュ・ハーン
錦織友一(吉沢亮)モデル|西田千太郎
イライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)モデル|エリザベス・ビスランド
「花田旅館」平太・ツル・ウメモデル|「冨田旅館」太平・ツネ・信
「松江新報」梶谷吾郎(岩崎う大)モデル|「山陰新聞」岡本金太郎
蛇と蛙(阿佐ヶ谷姉妹)モデル
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『ばけばけ』錦織友一モデル|西田千太郎とは

朝ドラ『ばけばけ』錦織友一は、NHK公式サイトで次のように紹介されています。

松江随一の秀才で、「大磐石(だいばんじゃく)」の異名を持つ。松江中学で英語教師を務め、外国人教師として松江にやってきたヘブンを公私でサポートする。トキとも奇妙な縁で知り合い、深く関わっていく。

モデルとなった西田千太郎さんとは、どのような人物だったのでしょうか。

西田千太郎プロフィール

西田千太郎
(1862年11月9日〜1897年3月15日)
小泉八雲の勤務校の教頭にして親友
『ばけばけ』錦織友一のモデル

【出身】島根県松江市雑賀町
【学歴】 藩立修道館
→雑賀小学校
→教員伝習校変則中学(松江中学校)
→松江中学校退学

家族

西田半兵衛 松江藩士
西田精(きよし) 東京帝国大学工科大学助教授
九州帝国大学工科大学教授
安食クラ 1884年に結婚
長女 西田キン 1885年生まれ
長男 西田哲二 1888年生まれ
東京帝国大学工学部卒業
30才で早逝
次男 西田敬三 1891年生まれ
東京大学農学部水産学科卒業
農商務省水産局、同水産講習所
→1922年朝鮮総督府水産試験場技手・場長
→1945年帰国
広島大学水畜産学部教授・学部長
三男 兵士郎

年譜

1862年 0歳 島根県松江市雑賀町に生まれる
1880年 18歳 松江中学校を退学
授業手伝いになる
1884年 21歳 安食クラと結婚
1885年 22~23歳 長女キン誕生
松江中学校退職
1886年 23歳 中等教員免許試験合格
姫路中学校教員に
1887年 24歳 坂出私立済々学館教長に
1888年 25歳 長男・哲二誕生
島根県尋常中学校教諭に
1889年 26歳 島根県尋常中学校教頭心得
1890年 27歳 小泉八雲と出会い、同校講師に迎える
1891年 28歳 小泉八雲夫妻の媒酌人?
島根県尋常中学校校長心得に
次男・敬三誕生
1894年 31歳 島根県私立教育会から功績賞を受ける
三男・兵士郎誕生
1895年 32歳 日本弘道会松江支会長就任
1897年 34歳 結核で病没
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『ばけばけ』錦織友一モデル|西田千太郎の生涯

(出典:小泉八雲記念館公式サイト)

17歳:中学を退学

1862年11月9日
松江藩(現島根県)の足軽(下級武士)出身の西田半兵衛の長男として生を受けた西田千太郎さん。

西田家は、小泉セツさんの実の母・小泉チエさんの実家(塩見家)の家来筋だったとも言われています。

小泉の祖母松寿院(チエ刀自)は何時になっても昔の気位を棄てぬ人で、西田先生に対しても「おうおうこれは千太か、久しぶりじゃったのう。えらい立派にならっしゃって、平兵衛(西田氏の尊父)もさぞかし満足じゃろう。ちと当方へも話におじゃい」等如何にも横柄な態度に四辺の人々は冷や汗をかいた等の話も聞いた。
(引用:『父小泉八雲』小泉一雄)

1880年(17歳)
常に学年トップの秀才だった西田千太郎さんは、松江中学を退学し、母校で生徒に教える授業手伝となりますが、教員免許は持っていませんでした。

中退したのは、体が弱く、家が貧しかったためと言われています。

21歳:結婚、23歳:教員免許取得

1884年(21歳)安食クラさんと結婚。
1885年(22歳)長女キンさん誕生。

西田千太郎は松江中学を中途退学、一時東京に遊学したこともあるが、母校に教鞭を執る傍ら、独学自修によって心理、教育など数課目の検定試験に合格し、一、二の中学に教えた後再び松江中学の教頭となって帰ったと言われる。
(引用『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』田部隆次)

妻子を残し単身上京して、2年ほど外国人教師から英語や西洋の学問を学び、教員免許のための試験勉強をします。

1886年(23歳)
東京で教員免許を取得後、兵庫県姫路の姫路中学校、香川県坂出の済々学館に赴任した後、
1888年(25歳)
島根県尋常中学校の教諭となります。
この年、長男・哲二さんが誕生します。

26歳:教頭

頭脳明晰だけではなく、親切で清廉だった西田千太郎さんは、「人格者」として多くの人に評価されていました。

1889年(26歳)
教頭となると、学校の再建に着手し、教授法の改善、経費の削減などに努めます。

27歳:小泉八雲と出会う

1890年(27歳)
当時の籠手田安定島根県知事(『ばけばけ』江藤安宗モデル)が高待遇で小泉八雲さんを松江中学に迎え入れると、教頭の西田千太郎さんは、職務上はもちろん、資料収集や取材活動への協力を惜しまず、私生活の世話を焼き、八雲さんが不自由なく過ごせるよう尽力しました。

・出雲大社昇殿
1890年9月上旬
西田千太郎さんが宮司(81代國造)・千家尊紀さんに小泉八雲さんを紹介し、西洋人として初めて出雲大社に昇殿。
・講演の通訳
1890年10月
「教育における想像力の価値」という八雲さんの講演を、西田千太郎さんの通訳で開催。

八雲さんは、親切で人間味あふれる西田千太郎さんのことが大好きになり、2人は親友と言える間柄になりました。

1891年(28歳)
島根県尋常中学校校長心得に。
次男・敬三さん誕生。
小泉八雲さん熊本に赴任。

西田千太郎さんは、小泉八雲さんが松江を離れても、文通を続けます。

八雲さんは熊本で書いた著書『東の国から』を
「出雲時代のなつかしい思い出に、西田千太郎へ」
と西田千太郎さんに献呈されています。

34歳:早すぎる死

1894年(31歳)
島根県私立教育会から功績賞を受け、
三男・兵士郎さん誕生。

1897年(34歳)3月
西田千太郎さんは、結核で亡くなります。
これは、小泉八雲さんが帰化し、神戸から東京へ移住した翌年のことでした。

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西田千太郎と小泉八雲の関係

西田千太郎さんの生涯は、36年と短く、小泉八雲さんと同僚だった期間も八雲さんが松江に滞在していた1年と2ヶ月ほど。

ですが、小泉八雲夫妻との関係がかなり密接なものだったことが、西田千太郎さんの日記や書簡、また小泉セツさんの『思ひ出の記』からうかがい知ることができます。

小泉八雲の評価

『思ひ出の記』には、小泉八雲さんと西田千太郎さんの関係について、次のような記述が見られます。

中学の教頭の西田と申す方には大層お世話になりました。二人は互いに好き合って非常に親密になりました。ヘルンは西田さんを全く信用してほめていました。「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません。私の悪い事、皆いってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」。
(引用『思ひ出の記』小泉節子)

小泉八雲記念館でも小泉八雲さんが「心から信頼を寄せた」と表現されています。

仲介者として

小泉セツさんとの出会いについて小泉八雲さん自身は語っていませんが、小泉八雲さんのひ孫・小泉凡さんは

西田千太郎教頭の仲介で、セツが世話係としてハーンのもとへ行きます。
(引用『思ひ出の記』小泉節子)

と書かれています。

小泉八雲さんが冨田旅館を出て借家を借りる際、西田千太郎さんに士族出身の女中探しを頼み、それを聞いた冨田旅館の女将・冨田ツネさんが旅館の女中お信さんの知り合いである小泉セツさんを西田千太郎さんに紹介した、と冨田旅館の女将が証言しています。

ただ、小泉セツさんの実母・小泉チエさんが西田千太郎さんを知っていたのなら、セツさんと西田千太郎さんが顔見知りだった可能性もあるかもしれません。

西田千太郎さんが、当時「洋妾」と蔑まれた外国人の女中になぜチエさんの娘セツさんを紹介したのかはわかりませんが、
西田千太郎さんを介して小泉セツさんは小泉八雲さんの住み込み女中になりました。

通訳として

1890年末または1891年1月(28歳)
セツさんが小泉八雲さんの家で住み込みで働き始めると、英語の堪能な西田千太郎さんが言葉が通じない2人を取り持つ役割を果たします。

媒酌人として

西田千太郎さんの同僚で義弟の後藤蔵四郎さんは
「只言語相通ぜぬ此二人に意志相通する様よく親切を尽くしただけであった」
と言われています。
ただ、61歳の小泉セツさんは結婚について
「中学の西田さんという方が仲に立たれて話をまとめて下さったのでした。」
と『東京朝日新聞』に語られています。

1891年夏
西田千太郎さんは、小泉八雲さんを連れて出雲大社近くの稲佐の浜に遊びに行き、八雲さんから呼ばれたセツさんも後から合流しています。

出雲大社宮司・千家尊紀さんに屋敷に招かれ、出雲大社を参拝。

この時のことを後に「The Student」紙が
「出雲大神宮で結婚を挙行した」と掲載しています。

西田千太郎さんの日記では、この時期からセツさんの呼称が「ヘルン氏ノ妾」「愛妾」から「せつ氏」へと変わっています。

小泉八雲さんはまだ帰化しておらず、正式な結婚ではありませんが、出雲大社参拝が結婚式的な意味を持ち、同行した西田千太郎さんが媒酌人としての役割を果たしたということでしょうか。

松江に戻った1891年8月11日、小泉八雲さんは

「お話ししておかなければならないことは、国籍法上の問題があるため、ただ今のところは、ただ日本風に結婚しているということです。」

と友人のペイジ・M・ベイカーに手紙を書いています。

没後

熊本、神戸、東京と小泉八雲さんが引っ越しをした後も、文通でつながっていた2人。
八雲さんは、離れていても
「あのような善い人です、いかに神様悪いですねー私立腹」
と、いつも西田さんの体調を心配されていました。

西田千太郎さんが上京の翌年に亡くなったことを知ると、深く悲しんだ小泉八雲さん。
その後もずっと西田千太郎さんの面影が忘れられません。

亡くなった後までも「今日途中で、西田さんの後ろ姿見ました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした」などと話したことがあります。似ていたのでなつかしかったと言っていました。早稲田大学に参りました時、高田さんが、どこか西田さんに似ているといって大層喜んでいました。
(引用『思ひ出の記』小泉節子)

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西田千太郎はどんな人だったのか

小泉八雲セツさん夫妻の長男一雄さんは著書の中で

松江聖人と噂されており、父が最も信頼した日本人中第一の友人である。父の日本研究に多大な援助を与えた人。日本の人情風俗においても懇切丁寧に説明を施した。
(引用『父小泉八雲』小泉一雄)

と記されています。
そして小泉八雲記念館公式サイトには次のように記載されています。

西田は若くして結核を病み、ハーンの在松中も含め闘病の生涯でした。34歳の短い生涯でしたが、ハーンだけでなく教え子をはじめ松江市民に鮮烈な印象を与えました。教え子が語っています。「先生は我松江市の生める秀才の一人にて、頭脳極めて明晰且記憶力に富み…朋友知人皆これに感化せられ、氏に対し不平不満の言辞を漏せしことも予は未だ嘗て耳にせざりしなり」(和田玉一)、「実に明晰なる頭脳の持ち主であった。…先生の教室には粛然たる気が充ちてゐたことを想見する」(落合貞三郎)。
(引用:小泉八雲記念館公式サイト)

松江の秀才で、生徒をはじめ、皆に尊敬される人格者だった西田千太郎さん。
だからこそ人を見る目が厳しい小泉八雲さんから絶大な信頼を寄せられ、小泉夫妻の出会いと結婚の最も近くにいた人物となります。

もしかすると八雲さんセツさんの気持ちを通訳し、仲介した西田千太郎さんなくしては、小泉八雲夫妻の結婚はなく、再話文学『怪談』等の傑作も生まれなかったかもしれませんね。

【参考文献】
『父小泉八雲』小泉一雄:小山書店
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社
『思ひ出の記』小泉節子:ハーベスト出版
『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』田部隆次:中央公論社

役柄 実在モデル一覧
ヒロイン 小泉セツ
小泉八雲
松野フミ(池脇千鶴)モデル|稲垣トミ
松野司之介(岡部たかし)モデル|稲垣金十郎
最初の夫 山根銀二郎(寛一郎)モデル|前田為二
実母 雨清水タエ(北川景子)モデル|小泉チエ
実父 雨清水傳(堤真一)モデル|小泉湊
実弟 雨清水三之丞(板垣李光人)モデル|小泉藤三郎
夫の母 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の母|ローザ・アントニウ・カシマチ
夫の父 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の父|チャールズ・ブッシュ・ハーン
夫の親友 錦織友一(吉沢亮)モデル|西田千太郎
夫の女友達 イライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)モデル|エリザベス・ビスランド
夫の宿泊先 「花田旅館」平太・ツル・ウメモデル|「冨田旅館」太平・ツネ・信
夫を取材 「松江新報」梶谷吾郎(岩崎う大)モデル|「山陰新聞」岡本金太郎
蛇と蛙 蛇と蛙(阿佐ヶ谷姉妹)モデル
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