NHK朝の連続テレビ小説『ばけばけ』に登場する、
錦織友一(吉沢亮さん)の友人・庄田多吉(濱正悟さん)。
「大盤石」と呼ばれる錦織さんに対して、「半分弱」と自称する、松江の秀才です。
と紹介されるこの人物。
特定の歴史人物をモデルにしたものではなく、明治期の松江の英語教育や学問を支えた若者たちを象徴する複合的な創作キャラクターではありますが、参考にされたモデルは、明治時代の教育者本庄太一郎さんだと考えられます。
こちらの記事では、ドラマでは描ききれない本庄太一郎さんの実像に迫ります。
『ばけばけ』庄田多吉モデル・本庄太一郎とは

プロフィール
本庄太一郎・本荘太一郎(ほんじょう たいちろう)
【生没】
1863年(文久3年)8月〜1927年(昭和2年)
1862年11月生まれの友人・西田千太郎さん(錦織友一モデル)の1歳年下。
【出身】
松江市雑賀町(さいかまち)
友人・西田千太郎さん、妻・渡部トミさんと同じ出身地。
日本の教育者・官僚。
東京高等師範学校教授や長野県立松本中学校長などを歴任し、台湾においても教育行政に携わりました。
身体的特徴
校長はあごひげを生やし、「ちょっと日本離れの容貌」で、「全く古武士然とした有徳の先生として、当時生徒は勿論、社会の尊敬の的となって居た」といわれている。
(旧制京都府第一中学校の学校史)
あごひげを蓄え、威厳のある姿が想像できます。
家族・子孫
本庄太一郎さん自身の直系子孫についての具体的な記録は多くありません。
父:本庄久兵衛
母:本庄ヨシ
妻:渡部トミ
長男:本庄三郎
ということがわかっています。
【半分弱の庄田多吉】
錦織と共に検定試験を受けた半分弱の庄田多吉さん。この人物は史実で西田千太郎と受験した本庄太一郎を参考にしたのでしょう。本庄は雑賀町出身で、東京高等師範学校教授や長野県立松本中学校長を歴任し活躍します。のちに本庄は雑賀小学校初の女性教員を妻にします。
(引用:2025年10月24日「松江歴史館」xポスト)
長男の本庄三郎さんは、父の没後にその業績(教育に関する資料など)を整理し、後世に伝える活動をしておられました。
時系列
1863年(文久3年) 雑賀町に生まれる
1873年(明治6年) 雑賀町南小学校入学
1876年(明治9年) 教員伝習変速中学入学
1876年(明治15年)松江中学授業補助に
1885年(明治18年)西田千太郎さんと上京、文部省検定試験受験
1886年(明治19年)東京尋常中学校着任
1888年(明治21年)渡部トミさん雑賀小学校着任
1889年(明治22年)東京帝国大学文科特約生に
1890年(明治23年)東京府尋常中学校教務主幹
小泉八雲さん松江へ
1891年(明治24年)小泉八雲さん熊本へ
1892年(明治25年)東京府尋常師範学校
1893年(明治26年)京都府尋常中学校校長
1894年(明治27年)小泉八雲さん神戸へ
1896年(明治29年)小泉八雲さん東京帝国大学着任
1897年(明治30年)西田千太郎さん結核で逝去
1902年(明治35年)千葉で海水浴中に「教科書事件(収賄事件)」容疑で逮捕
1903年(明治36年)無罪に
1907年(明治40年)台湾総督府国語学校長・台湾総督府中学校長
1915年(大正4年) 長野県松本中学校長
1916年(大正5年) 長野県松本中学「本庄太一郎校長排斥事件」→退職
(学生の自治を認めなかったことが理由)
1917年(大正6年) 地元松江で衆議院選挙立候補→落選
1919年(大正8年) 神戸市教育課長
1925年(大正14年)退職
1927年(昭和2年) 東京市内で逝去
(参照:「文検合格者」のライフヒストリー:本荘太一郎の経歴pdf)
西田千太郎とともに歩んだ前半生

松江・雑賀の士族
1863年8月
松江市雑賀町(さいかまち)の武士である父・本庄久兵衛さん、母ヨシさんの長男として生を受けた本庄太一郎さん。
雑賀町は、鉄砲隊、下級武士(卒)の多く住む松江大橋の南側の町で、私塾も多く、当時から教育熱心な地域として知られ、「雑賀教育」という言葉が生まれるほど文武両道を重んじる気風がありました。
本庄太一郎さん、西田千太郎さんだけではなく、若槻禮次郎さん(のちに総理大臣)、岸清一さん(のちに大日本体育協会会長)など、松江で立身出世を遂げた人の多くを輩出した町として知られています。
封建制度が終わった明治維新は、ほとんどの士族にとって苦しいものでしたが、同時に、意志ある下級武士出身の若者たちに立身出世のチャンスを与えました。
教育の道へ
本庄太一郎 本庄は明治九年九月、西田とともに、教員伝習校変則中学科に入り、一一年八月、二科に転じ、四か年を経て一五年七月二科の最初の卒業生になっている。卒業後同年八月一九日、松江中学校授業補助(月俸五円)となり、西田とともに教壇にたつ。
(『松江北高校百年誌』)
町内の一学年上の西田千太郎さんとは、同じ松江中学の出身で、卒業後も切磋琢磨し合う仲間だった本庄太一郎さん。
後を追うように母校の授業補助職に就き、
1885年(明治18年)22歳
正規の教師になるため、2人は上京して文部省検定試験を受験します。
西田千太郎さんは5科目中4科目(経済・心理・論理・教育)で1位という驚異的な成績(英語のみ不合格)を収め、本庄太一郎さんも全科目合格(英語・動物・植物・心理・教育学)を果たしました。
このニュースは、1886年(明治19年)6月21日付の「山陰新聞」に掲載され、故郷の松江でも話題になったそうです。
| 本庄太一郎 | 西田千太郎 | |||
| 1862年 | 0 | 島根県松江市雑賀町に生まれる | ||
| 0 | 島根県松江市雑賀町に生まれる | 1863年 | ||
| 1880年 | 18 | 教員伝習校変則中学(松江中学)中退 授業補助に |
||
| 19 | 教員伝習校変則中学 (松江中学)卒業 授業補助に |
1882年 | ||
| 21 | 島根第二中学(浜田中学) | 1884年 | 22 | 結婚 |
| 22 | 上京 | 1885年 | 23 | 上京 |
| 23 | 中等教員免許試験合格 東京府尋常師範学校に |
1886年 | 23 | 中等教員免許試験合格 姫路中学赴任 |
| 1887年 | 24 | 坂出私立済々学館教長 | ||
| 1888年 | 25 | 島根県尋常中学校赴任 | ||
| 26 | 帝国大学文科特約生 | 1889年 | 26 | 島根県尋常中学校教頭心得 |
| 27 | 東京尋常中学教諭 | 1890年 | 27 | 小泉八雲との出会い |
| 1891年 | 28 | 小泉八雲夫妻の媒酌人を務め、島根県尋常中学校校長心得に | ||
| 31 | 京都府尋常中学校校長 | 1894年 | 31 | 島根県私立教育会から功績賞を受ける |
| 1897年 | 34 | 結核で病没 | ||
表のように、正規の教師の資格を得た後、2人の道は分かれていきます。
西田千太郎さんは数年後、故郷で教師となり、小泉八雲さんと出会います。
そして、本庄太一郎さんは東京帝国大学文科の特約生となり、「ヘルバルト主義教育」と出会います。
「ヘルバルト主義教育」の影響

帝国大学で学んだ「ヘルバルト主義教育」
1889年(明治22年)26歳
帝国大学文科特約生となった本庄太一郎さんは、約1年3ヶ月間「ヘルバルト主義教育」についての授業を英語で受講し、大きな影響を受けます。
19世紀ドイツの教育学者ヘルバルトが提唱した、「道徳的品性の陶冶」を目的とし、「管理・教授・訓育」の三部門と「明瞭・連合・系統・方法」の4段階教授法を柱とする学問としての教育学で、知識の習得を心理学的プロセスに基づいて体系的に捉える教育方法論です。
「教授のない教育はない」とし、単なる知識伝達ではなく、道徳的な目的を持った「教育的教授」だけが真の教授であるとしました。 明治時代に日本にも導入され、近代日本の教育に大きな影響を与えました。
京都でのキャリア
1893年(明治26年)33歳
東京帝国大学文科で教育学を学び、東京の学校に1〜2年ずつ勤めた後、校長として京都府尋常中学校に6年間在籍された本庄太一郎さんは、次々と改革を実行します。
赴任してこられた氏は、次々と新しい制度(新徽章、校訓、柔術、撃剣、卒業証書授与式、操行点制等)をつくり出して、学校を整えて行かれた。これら諸制度がのちのちまで、受け継がれていったのである。
(旧制京都府第一中学校の学校史)
改革は学内に留まらず、京都に公立図書館の設置を提唱するなど、広い視野で行われました。
教育方針:道徳と体育を重視
校長は熱心な国家主義道徳の鼓吹者で、従来の英数偏重を改め、道徳と体育を特に重視する改革を行われた。これは氏が中学校に於て、「確乎たる精神」と「強固な身体」を養うことこそが、国家に須要な人物を作るために必要と考えていられたからである。
(旧制京都府第一中学校の学校史)
これは東京帝国大学で研究した「ヘルバルト主義教育」の思想に基づくものだったと思われます。
教科書事件

海水浴中の逮捕
1899年(明治32年)36歳
本庄太一郎さんは「京都府視学官」として、行政に携わるなど、順調に出世街道を歩んでいるように見えました。
が、1902年(明治35年)39歳
事件は突然降りかかります。
千葉で海水浴中に逮捕されてしまったのです。
容疑は「教科書事件」でした。
1902年(明治35年)の汚職事件(教科書疑獄事件)。
教科書出版社が、教科書審査の権限を持つ地方の視学官や師範学校長、知事などに金品を贈り、自社の教科書を採用させようとしたもの。
この事件を契機に、小学校の教科書は国の検定制から国定制度へと移行し、第二次世界大戦までこの制度が続きました。
無罪確定
100名以上の関係者が有罪となったこの事件。
本庄太一郎さんも予審では
「書籍採用方の請託を容れ価格三十三円許の袴時一反を収賄し又其後菓子折在中金二百円を収賄したり」
と判断されましたが、すぐに控訴し、翌年無罪が確定します。
ヨーロッパ視察と台湾の校長に就任
この後、4年間の動きは不明ですが
1906年(明治39年)43歳
公費でヨーロッパへ視察旅行に行き、
1907年(明治40年)44歳には
台湾総督府国語学校長・台湾総督府中学校長となっておられます。
「本庄太一郎校長排斥問題」と統一主義
本庄太一郎校長排斥問題
さて、1915年(大正4年)52歳
新しい赴任地・長野県でも精力的に改革を進める本庄太一郎さん。
ただ、この改革は反発を招きます。
大正五年度は、松本中学の校史に残る大事件が惹き起こされた。本庄太一郎校長排斥問題がそれである。
(「長野県松本中学校・長野県松本深志高等学校九十年史」)
1915年(大正4年) 長野県松本中学校長に就任
→校風と教員人事の刷新
→生徒の自治を認めなかった
→意義を申し立てた生徒の処分
→生徒と卒業生らの抗議活動
→新聞に掲載
→1916年(大正5年)健康上の問題で退職
急激な改革がそれまでの校風にそぐわず失敗に終わっただけでなく、退職に追い込まれてしまったのです。
衆議院選挙出馬

納得がいかなかったのでしょうか。
翌1917年(大正6年)54歳
地元松江で衆議院選挙立候補した本庄太一郎さんは、政党政治を否定し、権力を集約させる「統一主義」を主張されました。
ただ、長野・松本中学で問題となった「自治の否定」という考え方は、選挙でも受け入れられず、落選に終わります。
(有効票689に対し、得票数260)
神戸市教育課長時代
1919年(大正8年)56歳
神戸市教育課長に就任すると、こちらでも尋常小学校舎拡充計画を推進するなど改革に着手。
これまでの教員を一層し、自分が考えた教員人事を強行して反発を招きますが、学区を廃止した行政の考えと一致していたため、大きな問題にはなりませんでした。
信じる道を貫き、みずから盾となったのかもしれません。
神戸市教育課長を退職された2年後
1927年(昭和2年) 東京市内で逝去されたそうです。
64年の人生でした。
【参考文献・参考サイト】
・「文検合格者」のライフヒストリー:本荘太一郎の経歴pdf
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81008682/81008682.pdf(2026.1.22閲覧)
・「松江歴史館」x

