「空飛ぶかにいくら」へようこそ!

藤原道長の4人娘|天皇の后となった彰子・妍子・威子・嬉子の宿命

スポンサーリンク

正室と側室、妾との間に7男6女を授かり、
娘たちを次々と入内させ、権力の頂点にのぼりつめた藤原道長。

嫡妻・源倫子との間には

藤原彰子
藤原頼通
藤原妍子
藤原教通
藤原威子
藤原嬉子

という子どもたちがいます。

こちらでは、入内により道長を支えた4人の娘たちにスポットを当て、どのような生涯をたどったのかその宿命についてご紹介いたします。

大河ドラマ『光る君へ』をご覧になる際などの参考にしていただけましたら幸いです。

 

スポンサーリンク

藤原4姉妹(彰子・妍子・威子・嬉子)比較表

まずは4姉妹の比較表を作成いたしましたので、ご覧ください。

彰子 妍子 威子 嬉子
生誕 988年 994年 1000年 1007年
入内年齢 満11歳 満15歳 満18歳 満14歳
夫帝 一条天皇 三条天皇
(居貞親王)
後一条天皇
(敦成親王)
後朱雀天皇
(敦良親王)
夫との関係 従兄妹 従兄妹 甥叔母 甥叔母
夫との年齢差 8歳下 18歳下 8歳上 2歳上
後一条天皇
(敦成親王)
後朱雀天皇
(敦良親王)
禎子内親王 章子内親王
馨子内親王
後冷泉天皇
(親仁親王)
身位 女御→皇后(中宮)→皇太后→太皇太后 女御→皇后(中宮)→皇太后 女御→皇后(中宮) 東宮妃→皇太后
享年 満86歳
1074年
満33歳
1027年
満36歳
1036年
満18歳
1025年

 

天皇に入内した4姉妹のうち2人が男の子を、2人は女の子を出産しており、藤原彰子以外の3人は若くして亡くなっていることがわかります。
(父・道長は1028年死去)

平安時代の寿命
平安時代に書かれた日記や文学作品には、60歳を祝う還暦や70歳を祝う古希などが登場しません。
このことから平安時代の平均寿命は、
中期で男性:50歳くらい、女性:30〜40歳くらいと推定されています。
死因の半分が結核。ほか脚気や栄養失調、皮膚病などで亡くなる人が多かったとのことですが、女性の寿命が短いのは出産で命を落としていたからだと思われます。

では詳細をご紹介いたします。
4人はどのような運命をたどったのでしょうか。

 

スポンサーリンク

藤原道長の娘|藤原彰子

988年(永延2年)の9月から12月の間に誕生した長女・藤原彰子。
紫式部や和泉式部、赤染衛門が仕えていたことでも有名です。

祖父・源雅信が母・源倫子を天皇の后にと望むも叶わなかったこともあり、彰子に大きな期待が寄せられます。

999年(長保元年)11月1日【彰子11歳】
裳着の儀を済ませた彰子は、一条天皇の後宮に入内。

一条天皇は、すでに従姉妹・藤原定子を中宮として寵愛していましたが、定子は「長徳の変」で定子の兄(藤原伊周・隆家)が訴追されると自ら髪を切り出家します。

定子は出家後も帝との逢瀬を続け、第1皇女・脩子内親王を、第1皇子・敦康親王を出産します。

1000年4月2日【彰子12歳】
彰子は皇子懐妊が望めない状態で中宮となります。

翌年、定子が第2皇女・媄子内親王出産直後に亡くなると、彰子は一条天皇の唯一の正室となり、13歳にして第1皇子・敦康親王の養母となります。

1008年(寛弘5年)9月11日【彰子19歳または20歳】
入内から約9年。
懐妊した彰子は30時間の難産のすえ 一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産します。

道長は大喜びですが、
1009年(寛弘6年)正月末【彰子20歳】
亡き定子の長兄・藤原伊周が彰子と敦成親王の呪詛事件への関与が発覚します。

翌年の正月に伊周が亡くなると
1010年(寛弘7年)11月25日【彰子22歳】
彰子は安産で敦良親王(後朱雀天皇)を出産しました。

1011年(寛弘8年)6月13日【彰子22歳】
病に伏した一条天皇は、三条天皇(居貞親王)に譲位する際、定子との子・敦康親王を後継にと考えますが、藤原行成等の意見でそれをあきらめ、彰子との敦成親王を東宮とします。

それに怒ったのは敦康親王の養母の彰子でした。
ですがこの時の彰子には政治能力がなく、なすすべがありません。
そのまま6月22日に一条天皇が崩御され、22歳で未亡人となりました。

1012年(長和元年)2月14日【彰子23歳】
皇太后となった彰子は、妹の妍子が宴三昧で公卿たちを煩わせていたことに配慮して宴を取りやめます。
このことに感動した藤原実資は、著書『小右記』の中で

「賢后と申すべきである」

と彰子を評しています。

1016年(長和5年)1月29日【彰子27歳】
三条天皇の譲位により息子・敦成親王が即位すると、その翌年に父・道長が出家します。
彰子は摂政である弟・藤原頼通と力を合わせて一門を統率し、政治を支えていくことになります。

2人の子ども(後一条天皇・後朱雀天皇)に先立たれた彰子。

「ひと声も君に告げなんほととぎす この五月雨は闇にまどふと」

など肉親の死を悼んだ歌が多く残されています。

1074年(承保元年)10月3日【彰子86歳】
法成寺阿弥陀堂で87歳で息を引き取りました。

 

スポンサーリンク

藤原道長の娘|藤原妍子

994年(正暦5年)3月に誕生した藤原妍子。
妍子は、道長の4人娘の中でもひときわ美しく、派手好きだったといわれています。

1010年(寛弘7年)【妍子16歳】
数えで17歳となった藤原妍子は、当時東宮だった居貞親王に入内。

居貞親王は父・道長の姉の子で、妍子にとっては18歳上の従兄弟でした。

入内翌年【妍子17歳】
一条天皇が崩御すると、居貞親王は三条天皇として即位し、妍子は中宮となりました。

ただ三条天皇には先に入内していた藤原娍子という愛妻がおり、すでに4人の皇子をもうけていました。(第1皇子である敦明親王は妍子と同い年)

娍子は、父親を天然痘で亡くし後ろ盾を失っていましたが、美貌にすぐれ、三条天皇から深く寵愛されていました。

一方、妍子は父・道長という強力な後ろ盾を持つものの、同時に道長と不仲だった三条天皇からは「道長の手の者」と見なされ疎まれていたと思われます。

1013年(長和2年)7月6日【妍子19歳】
妍子は姫皇子の禎子内親王を生みますが、姫皇子誕生の報せに父・道長はたいへん不機嫌だったということです。

その後も子どもが生まれることはなく、枇杷殿に移り住み、禎子内親王を大切に育て上げます。

1016年(長和5年)4月【妍子22歳】
道長に譲位を迫られた三条天皇が、敦成親王(あつひら:一条天皇と藤原彰子の子。後一条天皇)に皇位をゆずると、
皇太后となった妍子は、枇杷殿皇太后と呼ばれます。

1017年(寛仁元年)5月9日【妍子23歳】
三条天皇に先立たれ、妍子は遺された一人娘の禎子内親王を大切に育て、
1027年(万寿4年)3月【妍子33歳】
禎子内親王が敦良親王(あつなが:後朱雀天皇)へ入内するのを見届けます。

1027年9月14日【妍子34歳】
妍子は34年の人生の幕をおろしました。

父・道長は、次女の死に

「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私たちも供をさせてくれ」

と泣いてすがったと伝えられています。

スポンサーリンク

藤原道長の娘|藤原威子

1000年(長保元年)2月に誕生した藤原威子。

1018年(寛仁2年)3月【威子18歳】
威子は、姉・彰子の皇子・後一条天皇の元服を待ち、入内します。

帝より数えで9歳年上ということで、威子自身は恥ずかしがっていたそうです。

1018年(寛仁2年)10月【威子18歳】
威子が中宮として立后し、祝宴が開かれます。
道長は、三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて娘で占めるという前代未聞の権勢を誇り、

「このよをば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

という歌を詠みました。

その後、威子は姫皇子である内親王を出産し、皇子を授かることはありませんが、後一条天皇が

「昔は女帝が立ったこともあるのだから」

と威子を庇ったというエピソードがが『栄花物語』に記述されています。

後一条天皇の後宮には、他の妃が入内しませんでした。
これは威子が道長の娘として気を使われていたこともありますが、夫婦仲もよかったのかもしれません。

1036年(長元9年)4月【威子36歳】
後一条天皇が数え年29歳で崩御すると、威子も後を追うように半年足らずで疱瘡により亡くなります。

残された姫皇子たちは、藤原彰子と藤原頼通が後見として養育し、後冷泉天皇、後三条天皇のもとに入内しますが、2人とも子どもには恵まれませんでした。

 

スポンサーリンク

藤原道長の娘|藤原嬉子

1007年(寛弘4年)1月5日に誕生した藤原嬉子。
この時、母・源倫子は44歳。
18歳の彰子が第七夜の産養を主催し、母と末妹に織物衣と産着を贈りました。
このことについて道長は『御堂関白記』の中で

「未だ家から立たれた皇后が、母の為にこのようなことをなさったことはない。百年来、聞いたことがない」

と絶賛しています。

1021年(寛仁5年)【嬉子14歳】
数えで15歳になった嬉子は、長兄・頼通の養女となり、皇太弟の敦良親王(あつながしんのう:第69代後朱雀天皇)へ入内します。頼通の娘として入内させることで、頼通世代への影響力を確保するという道長の思惑がありました。

1025年(万寿2年)8月3日【嬉子18歳】
入内から4年、嬉子は待望の皇子を出産すると、出産から2日後に麻疹が原因で亡くなります。

嬉子のあまりにも早い死に、父・道長は動揺しました。

藤原実資の著書『小右記』『権記』によると

陰陽師・中原恒盛らを呼びだし、中国の故事にある
「屋敷の東の屋根に上り、衣を振って三回名前を呼ぶ」(『礼経』檀弓編三)に従って「魂呼(たまよばい)」という蘇生の儀式を命じたそうです。
この魂呼の儀式は陰陽師の職務行為に反しており、後に恒盛は注意を受けたとも『小右記』に記述されています。

この時生まれた皇子は、のちの第70代後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)となっていきます。

タイトルとURLをコピーしました