2025年の大河ドラマは
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(つたじゅうえいがのゆめばなし)。
横浜流星さん演じる蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が主人公です。
蔦重がウォルト・ディズニーにも例えられる商才を開花させた時代、政治の中枢には田沼意次(たぬまおきつぐ:渡辺謙)がいました。
そして、田沼意次の失脚の影には「反田沼派」松平定信(まつだいらさだのぶ:寺田心)の暗躍があったとささやかれています。
このページでは、蔦重のビジネスにも大きな影響を与えることとなった松平定信と「寛政の改革」についてご紹介いたします。
2025年大河『べらぼう』松平定信/田安賢丸の年表
まず、蔦屋重三郎や世の中の動きと、松平定信/田安賢丸に起きた出来事を比べてみました。
年 | 蔦屋重三郎 | 松平定信/田安賢丸 | 世の中の動き |
---|---|---|---|
1750年 | 東京・吉原で誕生 | 1758年田安徳川家に誕生 幼名・賢丸 |
1751年徳川吉宗、没 1760年徳川家治、10代将軍に 1767年田沼意次、側用人に |
1773年(23歳) | 吉原大門前に貸本屋『耕書堂』を開業 | 1769年(12歳) 修身書『自教鑑』を著す |
1772年田沼意次、老中に |
1774年(24歳) | 遊女本評判記「一目千本」を出版 | 1774年(17歳) 白河藩主の養子になる 兄・治察死去 田安家当主不在に |
1774年『解体新書』刊行 |
1775年(25歳) | 吉原細見「籬の花」(まがきのはな)を出版 | ||
1776年(26歳) | 北尾重政・勝川春章などによる「青楼美人合姿鏡」(せいろうびじんあわせすがたかがみ)を出版 | ||
1777年(27歳) | 通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草寺などに店舗を構える | ||
1780年(30歳) | 朋誠堂喜三二の黄表紙を出版 | ||
1782年(32歳) | 山東京伝の黄表紙「御存商売物」(ごぞんじのしょうばいもの)を刊行 | 1782年「天明の大飢饉」 | |
1783年(33歳) | 日本橋通油町に進出、洒落本をはじめとした本を出版 | 1783年(26歳) 白河藩主となる |
1784年田沼意知、刺殺 |
1785年(35歳) | 山東京伝の代表作「江戸生艶気樺焼」(えどうまれうわきのかばやき)を刊行 | 1787年(30歳) 老中首座に就任 「寛政の改革」 1789年(32歳) 囲い米の制 棄捐令発令 |
1786年 将軍家治死去 田沼意次失脚 1787年 家斉、将軍に就任 「天明の打ちこわし」 |
1791年(41歳) | 寛政の改革により、山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され、過料の処罰を受ける | 1790年(33歳) 出版物の規制強化 1792年(35歳) 林子平処罰 「尊号一件」 |
1792年 ラスクマン来航 |
1794年(44歳) | 執拗な弾圧のなか、東洲斎写楽の役者絵を出版 | 1793年(36歳) 老中解任 |
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1797年(47歳) | 脚気により死去 番頭・勇助が二代目蔦重となる |
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1829年(72歳) 死去 |
2025年大河『べらぼう』松平定信/田安賢丸と御三卿
南湖神社の松平定信像(福島県白河市)
御三卿「田安徳川家」
松平定信は「享保の改革」を進めた8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の孫にあたります。
将軍を出せる家柄「御三卿(ごさんきょう)」の一つ、「田安徳川家」の初代当主・徳川宗武(とくがわむねたけ)の七男として生を受けました。
江戸時代に徳川将軍家から分立した田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の3家。
8代将軍徳川吉宗の次男・宗武を当主として田安徳川家が、その四男・宗尹(むねただ)を当主として一橋徳川家が始まり、9代将軍家重の次男・重好(しげよし)を当主として清水徳川家が創設されました。
目的は、将軍の跡継ぎを輩出すること。
将軍の住む江戸城の田安・一橋・清水門内の屋敷に居住し、将軍に後継がない場合に将軍家を相続することになっていました。
「御三家」といわれる尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家とも似ていますが、「大名」ではなくあくまで「将軍家の一族」という点で、御三卿の方が格上という位置づけです。
幼名は賢丸(まさまる)。
生母は、とや(香詮院)。
兄たちは長男から四男までが早世し、五男・治察(はるあき)が世嗣となると、
田安賢丸(松平定信)と同母兄の六男は、後に父の正室となる宝蓮院(ほうれんいん:花總まり)が養母となり育てられました。
田安家を継いだ兄・田安治察が病弱だったため、幼い頃から聡明だった田安賢丸(松平定信)が、田安家の後継者、そして子のいなかった第10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の後継候補と目されていました。
白河藩への養子縁組
ですが、16歳の頃、陸奥白河藩に養子に出されます。
これは、家格の上昇を狙った陸奥白河藩主・松平定邦(まつだいらさだくに)と田沼意次(たぬまおきつぐ:渡辺謙)が協力して実現したことだと言われています。
その半年後、田安家の世嗣・田安治察が亡くなります。
養子となっても江戸城の田安屋敷で暮らしていた定信は、田安家に当主が不在となったことを受けて養子の解消を願い出ますが、田沼意次により却下され、田安家の当主を継ぐことができません。
御三卿当主を継げないことは、将軍への道が閉ざされてしまったこと。
これは、幼い頃から聡明だと評判の松平定信が次の将軍になる可能性を消したかった人物、同じ御三卿の一橋家と田沼意次の画策だと言われています。
松平定信の養母・宝蓮院は定信が田安家を相続する話を取り付けていたものの、それも後になり田沼意次らに反故にされたと、定信の自伝「宇下人言(うげのひとこと)」に記されています。
結局、将軍家治の世嗣となったのは、一橋徳川家、当時6歳の徳川家斉(とくがわいえなり)。
一橋家は次期将軍を輩出することができ、意次は幼将軍のもとで長期的に権力を安定させる基盤づくりができました。
この計画を知った定信は、田沼意次の刺殺まで考えるほど恨んでいたとのことです。
2025年大河『べらぼう』松平定信/田安賢丸と田沼意次
松平定信は、白川藩主として藩政を率いるようになると、手腕を発揮します。
天明の大飢饉
1783年(天明3年)
天候不良と冷害のための凶作から「天明の大飢饉」と呼ばれる飢饉が起こります。
凶作が予想されていたにもかかわらず対策が遅れ、東北諸藩は江戸へ米を送り続けなければなりません。また、幕府は全国の城に蓄えた城米を江戸に送らせて村役人や農民が所持している米の売買を禁止しました。
非常時の援助金である拝借金もほぼ認られず、幕府からの援助もほとんど無し。
各藩の被害はどんどん拡大していきました。
白河藩の対策
松平定信が名君として称えられたのは、この時、東北地方の他の藩が大きな被害を受けるなか、白川藩が1人の餓死者も出さなかったと(自伝「宇下人言」に拠る)からです。
「天明の大飢饉」が始まると、白河藩では、商人や裕福な家臣達が他の藩へ米を高値で売りつけ利益を上げていました。
そのため白河藩でも米不足が深刻化していきます。
定信の養父である松平定邦は、山間部を除いて被害が少なかった越後(白河藩の飛び地)から米を送ってもらいます。
これは、松平定信が養父に助言して実現したものです。
また、江戸へ赴き他の藩と交渉して米を手に入れたり、日用品を買い付けたり、公共事業を起こして雇用の促進を図ったりしました。
この評判は江戸や諸大名に伝わり、松平定信の名は一躍とどろきわたりました。
2025大河『べらぼう』老中・松平定信「寛政の改革」と失脚
田沼意次の勢力に衰えが見えると、松平定信が動きます。
「寛政の改革」
「天明の大飢饉」における藩政の建て直しの手腕を認められた松平定信は、政権から田沼派を追い出し、少年だった第11代将軍・徳川家斉のもとで老中のトップ「老中首座」「将軍輔佐」となりました。
さらに祖父である徳川吉宗に倣って、「寛政の改革」を推し進めます。
①8代将軍・徳川吉宗が行った享保の改革 :1716年(享保元年)~
②老中・松平定信が行った寛政の改革 :1787年(天明7年)~
③老中・水野忠邦が行った天保の改革:1841年 (天保12年)~
「寛政の改革」は、まず田沼意次の政治を否定し一掃することからのスタートでした。
■商業よりも農村の復興などに力を入れる。
「旧里帰農令」という、江戸に出てきた農民たちに費用を負担してUターン帰省させ、故郷の村で農業に励むことを奨励する政策。
各地で飢饉に備えた米の備蓄を行わせる「囲い米」。
■商人の力を弱め封建制度を建て直す。
当時は幕府の役人だった旗本・御家人たちがお金に困り、商人からお金を借りていました。
商人の力が強まり武士の力が相対的に弱くなる傾向はよくない考えた松平定信は、旗本・御家人の借金を帳消しにする「棄捐令(きえんれい)」を出すという強引な手法も使います。
無理やりな手段を用いてでも武士の威厳を取り戻し、武士がトップの封建制度を建て直そうとしたのでした。
■質素倹約に努め、「綱紀粛清」乱れた風俗を正す。
軽犯罪者への更生施設を作り、治安を良くしようと考えました。
治安維持の一環が、言論統制ともいえる「出版統制」です。
ですが、倹約や風俗の取り締まりを伴うその政策は、庶民の楽しみを奪うことにもつながり、松平定信の改革に不満を持つ人が増え始めました。
蔦屋重三郎の刊行した政治批判の黄表紙(洒落、滑稽、風刺をおりまぜた大人向けの絵入り小説。 半紙二つ折本で一冊五枚から成る)は、規制の鬱憤を晴らす意味からも大ヒット となりましたが、幕府はそれを許しません。
蔦重たちを、重罪として力で封じ込めました。
失脚の要因
さらに、朝廷や将軍にまで厳格に対応していく松平定信。
厳しすぎる「寛政の改革」は、人々の不満が高まった結果、約6年で幕を閉じることになりました。
松平定信失脚のキーマンとなったのは、一橋治済(ひとつばしはるさだ:生田斗真)でした。
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