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2024年大河『光る君へ』花山天皇の人物像と出家・退位エピソード

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こちらのページでは、

2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』でも話題にのぼった

花山天皇の人物像と出家・退位エピソードについて

ご紹介いたします

お楽しみいただければ幸いです。

 

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花山天皇プロフィール

花山天皇のプロフィールを紹介します。

幼名:師貞(もろさだ)
父親 :冷泉天皇
母親 :藤原懐子
生誕:968年11月29日
在位:984年9月24日 (15歳)〜986年8月1日(17歳)
崩御:1008年3月17日(39歳)

花山天皇の父は第63代・冷泉天皇、で母は藤原伊尹(これまさ)の娘・懐子(かいし)の間に生を受けます。
父・冷泉天皇は精神疾患を患っており、花山天皇も同じ問題があったと伝えられています。
そこにつけ込んだのが、藤原道長の父・藤原兼家(かねいえ)。
花山天皇は弘徽殿(こきでん・寵愛を受けている女御が住む場所)で寵愛する忯子(よしこ・しし)と楽しく過ごす日々。
ですが忯子は懐妊中、20歳の若さで亡くなります。
氏子は藤原兼家の異母弟である藤原為光の娘でした。
ドラマ中「胎児はいいが母親は殺すな」と言っていたのはそのためかもしれません。
たくみに出家を勧められた花山天皇は、986年に陰謀によって出家させられます。

無理やり仏門に入らされたもの。その後、本格的に仏教信仰と仏道修行を行うようになります。

花山法皇(入覚)は播磨国の円教寺を訪れ、比叡山延暦寺で受戒を受けています。

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花山天皇の人物像

花山天皇の人物像について しばしば 狂気を伴って語られることがあります。
実際はどうだったのでしょうか?

藤原道長『御堂関白記』の花山天皇

藤原道長が書き記した『御堂関白記』では、花山天皇と道長と和歌の贈答をしたり 、同じ牛車で花見に出かけたりするなど、風流な生活を送っていたことが伺わせる記録が多く見られます。

また仏道修行の記事も多く見られますが、花山天皇のおかしな言動については触れられていません。

藤原実資『小右記』の花山天皇

藤原実資の『小右記』に書かれているのは、普通に天皇としての政務や儀式に臨むものばかりで変わったものが見られません。

他の天皇に対して歯に衣着せず批判している藤原実資ですが、花山天皇に対して批判的な記録はありません。

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物語で作られた花山天皇のキャラクター

では後になって、どのように語り継がれてきたのでしょうか?

九条兼実『玉葉』の花山天皇

後年(平安時代末期から鎌倉時代初期)執筆された九条兼実が執筆した日記 『玉葉』には、 後白河法皇の行いについて

「昔の狂主陽成・ 花山天皇 といっても、このような馬鹿げた話は聞いたことはない」

と批判した記述があります。

狂主の比喩として挙げられるということは、平安時代末期にはすでに

”花山天皇=狂気の君”

というキャラクターが形成されていたことがうかがえます。

その元となった書物が『光る君へ』のある意味原作とも言える『大鏡』などの歴史物語です。

作者不詳『大鏡』『古事談』などの花山天皇

物語では次のような逸話が語られています。

・即位前、高御座に美しい女官を引き入れ性行為に及ぶ
・即位式で王冠が重いと脱ぎ捨てる
・清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとした
・同時期に母娘の両方を妾とし、同時期に両方男子を出産
その息子たちは「母腹宮」(おやばらのみや)、「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼ばれていた
…などなど

わがままで女性好き、というイメージですが、「狂気」とまでは感じられません。

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花山天皇の出家・退位

 

赤染衛門『栄花物語』の花山天皇

花山天皇の狂気を強調しているのが 『栄花物語』などの歴史物語です。

その著者が赤染衛門だとみられています。

赤染衛門といえば『光る君へ』のなかで、土御門邸で源倫子たちの教育をしていますね。
赤染衛門は956年に生まれ1041年以降に没しており長生きです。
花山天皇が亡くなった後の30年ほどの間に『栄花物語』を書き狂気の帝を仕立て上げたのでしょうか?

「花山天皇は藤原為光(ためみつ)の娘 ・忯子を四六時中寵愛しており、めでたく懐妊するも、妊娠中も無理に参内させた。
忯子は寛和 元年(985年)に17歳の若さで死去し、花山天皇は出家して忯子の供養をしたいと言い始める。
内裏を出て天皇の位を退位した。」

これが『栄花物語』に描かれた花山天皇の退位の概要です。

忯子の死を退位のひとつの要因としながらも、 そこに 外孫の皇太子・懐仁親王(後の一条天皇)の天皇即位を目論む藤原兼家の陰謀が加わっています 。

忯子の死を悲しむ花山天皇に蔵人として仕えていた藤原道兼は世の無常を語り合い
「一緒に出家しましょう」
と勧めます。
その気になった花山天皇は、 寛和 2年(986年)6月23日 内裏を脱出して 元慶寺(がんぎょうじ別名・花山寺)に向かいました 。

元慶寺で天皇の剃髪を見届けた道兼は

「父の兼家に事情を説明します」

と言って寺を抜け出すのですが、そのまま帰らなかったということです。

この時の花山天皇は、数えで18歳。
老獪な藤原一族にまんまと騙された純粋な一面を垣間見せています。

その頃、兼家は息子の道隆や道綱に命じて、代々の天皇が皇位とともに伝承してきた「 三種の神器(八咫鏡・草薙の剣・八尺瓊勾玉)」を皇太子の居所に移して、内裏のすべての門を封鎖しました。

花山天皇の側近である藤原義懐らは行方不明になった花山天皇を探し回り、元慶寺で出家した花山天皇を見つけましたが、政治的な敗北を察知して一緒に出家したということです 。

こうして 数え年7歳で即位した皇太子の懐仁親王(後の一条天皇)。
が摂政に任じらた外祖父・兼家 。

出家した花山天皇は播磨国の圓教寺(えんきょうじ)に入り 、続いて 比叡山延暦寺(えんりゃくじ)に赴き、その後、法王 となり熊野などで修行されました。

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「長徳の変」と花山天皇

16歳で即位して2年足らずで法皇となった花山天皇。

29歳となった法皇は、亡くなった忯子の妹である「藤原為光の四の君」を寵愛し、その屋敷に通っていました。

藤原為光の娘たちはよほど可愛らしかったのか、藤原道隆(みちたか・道長の長兄)の息子・伊周(これちか)も同時期に「藤原為光の三の君」のもとへ足繁く通っていました。

ライバルだと勘違いした伊周が、弟と一緒に法皇を待ち伏せし矢を放ちます。

法皇に矢を放つとは大罪。

この大事件をもって、道長のライバルでもあった伊周は左遷されます。

そしてついに、藤原道長の無双状態が出来上がります。

 

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花山天皇人物像が狂気を伴って語られる理由

即位してすぐにクーデターを起こされた花山天皇。

ときに「内劣りの外めでた」「ご乱心」ともいわれる逸話は、
皇統を伝えられなかった冷泉系の天皇に対して、故意に作られた可能性が高いと考えられています。

つまり力を失くしたままでいてほしいという藤原家の思惑が根底にあるということです。

藤原家が狂気のエピソードを流布したというのが一般的です。

それを物語にして後世ませ伝えられてきました。

一方で、絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人々の意表を突いていました。

特に和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し、『拾遺和歌集』を親撰し、『拾遺抄』を増補したともいわています。

そして寛引5年 (1008年 )数え年41歳で崩御されました。

花山天皇(法皇)は不遇の天皇のひとりだと考えられています。

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