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2025年大河ドラマ『べらぼう』蔦屋重三郎は何をした人?

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2025年の大河ドラマは

『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(つたじゅうえいがのゆめばなし)。

横浜流星さん演じる蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が主人公です。

版元・蔦屋重三郎や彼の関わった浮世絵師たちの話ですので、大河ファンや横浜流星さんファンのみならず、美術好き、出版社さんも沸きそうですね。

こちらでは2025年の大河ドラマについて予習したい方のために

主人公・蔦屋重三郎は何をしたどんな人なのか、その生涯をひも解きながらわかりやすくご紹介します。

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2025大河ドラマ|蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)とは

現在も出版社のことを『版元』と呼びますが、江戸時代の『版元』の代表といえば『蔦重(つたじゅう)』。

蔦屋重三郎は、本や浮世絵などをプロデュースする手腕を発揮し、写楽などの絵師たちを世に送り出した人物です。

売れる絵を見抜く眼識、ウォルトディズニーにも例えられる商才。

そのすべてを兼ね備えた人物が蔦屋重三郎です。

蔦屋重三郎は、遊郭で働く「丸山重助(まるやまじゅうすけ)」の子として吉原で産声を上げ、幼くして吉原のお茶屋を営む喜多川という家に養子になり、血縁など関係なく江戸の人情に育てられました。

そして、自らも売れない画家の面倒をみてプロデュースし、大ヒットを連発したのです。

育てた浮世絵師は、喜多川歌麿、東洲斎写楽など超有名どころ。

幕府に処罰されても情熱を持ち続け、江戸の文化に旋風を巻き起こし続けました。

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2025大河ドラマ|蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の生涯

蔦屋重三郎の生涯をご紹介いたします。

吉原で生まれた「版元・蔦屋重三郎」

1750年(寛延3年)
蔦屋重三郎は吉原に生まれ、
3歳頃「蔦屋」の屋号を持つ喜多川家の養子となりました。
本名を「喜多川柯理(きたがわからまる・きたがわかり)」と言います。

20歳、吉原唯一の入り口である”吉原大門”のそばで吉原のガイドブック『吉原細見(よしわらさいけん)』の販売を始め、23歳頃には貸本屋『耕書堂』を構えます。
24歳、オリジナルでも書籍を出版し、「版元・蔦屋重三郎」の誕生です。

クリエイターたちとの親交がヒットの秘訣

『吉原細見』を出版していた鱗形屋がスタッフの不祥事で没落すると、蔦重が『吉原細見』の権利を手に入れます。
同時に蔦重は鱗形屋とつながっていた戯作者や浮世絵師たちと親交を深め、当時人気の高かった黄表紙(洒落、滑稽、風刺をおりまぜた大人向けの絵入り小説。 半紙二つ折本で一冊五枚から成る)などの刊行も始めます。

開業から10年ほど経つと、蔦重は吉原を離れ、江戸経済の中心地だった通油町(とおりあぶらちょう)などに店を構え、当時大流行していた狂歌の重鎮たちと親睦を深めていきます。
本名「喜多川柯理(きたがわからまる)」をもじって「蔦唐丸(つたのからまる)」という狂歌名でみずから歌も作り、歌会を開き、狂歌界との太いパイプを形成。
狂歌界の重鎮たちを、蔦重の出版物のライターとして迎えいれました。

新進気鋭の浮世絵師・喜多川歌麿も迎え、狂歌本も黄表紙も大ヒット。
蔦重は、一流版元へと成長していきます。

「寛政の改革」でピンチ

この頃、世の中では大きな変化が起きていました。
蔦重が版元として成長したころは、老中・田沼意次が商業を中心に経済を活発化させていました。
が、蔦重32歳、「天明の大飢饉」が発生すると、経済が失速します。
そのことにより田沼意次は失脚し、松平定信が老中となりました。
松平定信は質素倹約や風俗の取り締まりを強化し始め、「寛政の改革」を始めます。

もちろん松平定信を風刺した蔦重の黄表紙なども取り締まりのターゲットとなりました。

絶筆する文筆家や重罪を科せられる文筆家が相次ぎ、蔦重自身も処罰(財産を半分没収されたとする通説あり)を受けます。

喜多川歌麿・東洲斎写楽とのコラボで大ヒット

その後、本ではなく一枚絵の錦絵(カラー版画の浮世絵)を作り始めた蔦重。
タッグを組んだのは喜多川歌麿でした。

蔦重の家に居候していたこともある歌麿は、美人画で才能を発揮し始めます。
全身ではなく、上半身を大きく描き、顔や手の動きを魅せる「大首絵(おおくびえ)」が大ヒット。一躍、浮世絵師のトップへと上り詰めた喜多川歌麿でした。

美人画で名を馳せた版元・蔦重。
歌舞伎役者を描く「役者絵」にも挑戦します。
まずはじめに勝川春朗(のちの葛飾北斎)と組んでみたもののうまくいきません。
次に、みずから発掘した東洲斎写楽という無名の新人とコラボして豪華な一枚絵を28点出版するという賭けに出ました。
世間に衝撃を与えた写楽の絵。
その絵に対しては、賛否両論が巻き起こります。
すると活動10ヶ月で、写楽は姿を消してしまいました。

様々な分野で活躍し、「江戸のメディア王」となった蔦屋重三郎ですが、47歳でその生涯の幕をおろしました。

その後、最初に立ち上げた耕書堂は営業を続け、蔦重の育て上げた絵師や文筆家たちはその後大活躍し、江戸の文化に貢献していきます。

なお、美人画でうまくいかなかった葛飾北斎ですが、1831年に浮世絵『富嶽三十六景』を刊行し、大成功を収めることとなります。(こちらは蔦屋からの出版物ではありません)

 

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2025大河ドラマ|蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)年表

ではその経歴を見てみましょう。

主な出来事 世の中の動き
1750年 東京・吉原で誕生 1751年徳川吉宗、没
1760年徳川家治、10代将軍に
1767年田沼意次、側用人に
1773年(23歳) 吉原大門前に貸本屋『耕書堂』を開業 1772年田沼意次、老中に
1774年(24歳) 遊女本評判記「一目千本」を出版 1774年『解体新書』刊行
1775年(25歳) 吉原細見「籬の花」(まがきのはな)を出版
1776年(26歳) 北尾重政(きたおしげまさ)・勝川春章(かつかわしゅんしょう)などによる「青楼美人合姿鏡」(せいろうびじんあわせすがたかがみ)を出版
1777年(27歳) 通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草寺などに店舗を構える
1780年(30歳) 朋誠堂喜三二の黄表紙を出版
1782年(32歳) 山東京伝の黄表紙「御存商売物」(ごぞんじのしょうばいもの)を刊行 1782年「天明の大飢饉」
1783年(33歳) 日本橋通油町に進出、洒落本をはじめとした本を出版 1784年田沼意知、刺殺
1785年(35歳) 山東京伝の代表作「江戸生艶気樺焼」(えどうまれうわきのかばやき)を刊行 1787年松平定信「寛政の改革」
1791年(41歳) 寛政の改革により、山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され、過料の処罰を受ける 1790年出版物の規制強化
1792年ラスクマン来航・林子平処罰
1794年(44歳) 執拗な弾圧のなか、東洲斎写楽の役者絵を出版 1793年松平定信、老中解任
1797年(47歳) 脚気により、47歳の若さで亡くなり、番頭・勇助が二代目蔦重となる
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2025大河ドラマ|蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)成功の理由

次に、なぜ蔦重が一代で大きな版元を築き上げられたのか、その理由に迫ります。

①吉原という地を利用したコネクションづくり

生まれ育った吉原は、当時、文化人たちが集まる社交場やサロンのような場所でした。
蔦重は、吉原で文化人たちと知り合い、吉原で接待をしていたようです。
吉原で生まれ育った蔦重は文化人から重宝され、win-winな関係を築いていました。

②面倒見のよさ

唐丸(蔦重)はすこぶる侠気(男気)あり。
ゆえに文才ある者の若気に放蕩なるをも荷担して(手を貸して)、
また食客となして(居候させてご飯を食べさせ)、
財を散ずるを厭わざれば、
これがために(彼のおかげで)身を立て名を成せし人々あり。

このように記されるように、男気があり面倒見が良かった蔦重の性格が、稼ぎ頭となる才能ある若者を育て、みずから成功に導いたのだとも言われています。

ただ才能を見出す能力に長けていただけではここまで大成功はなかったかと思われます。
才能ある若者たちをしっかり懐に入れ、開花させた蔦重は、面倒をみるという投資をしていたとも言えますね。

③ものの見方

幕府からどんなに弾圧されても負けなかった蔦屋重三郎は
「物事を結論から考えて、知恵を絞る」
という思考だったと記されています。
正面からしか物事を見ないのでは、儲けはでません。
成功するためにはどう行動するのか、明確なビジョンを持っていたと考えられます。

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