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2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』豊臣秀長の一生

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2026年NHK大河ドラマでは

『豊臣兄弟!』

が放映されます。

主人公は豊臣秀長(とよとみひでなが)

豊臣秀吉の3歳下の弟であり、ふところ刀といった存在でした。

秀吉が天下統一を果たし大坂(大阪)に凱旋を見届けた直後に亡くなった秀長ですが、それは豊臣家にとって終わりの始まり。

秀長を失った豊臣家は、没落の一途をたどります。

こちらでは、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長についてご紹介します。

 

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2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』豊臣秀長、兄にスカウトされる

豊臣秀長は戦国時代の天文9年3月2日(1540年4月8日)尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の農家に生まれます。

子供時代の秀長は小竹(こちく)と呼ばれ、その後木下小一郎長秀と名乗ります。
母の再婚相手「竹阿弥」の子供だとも、秀吉と同じ「木下弥右衛門」の子供だとも伝えられています。

秀長が10歳の頃には、もう兄・秀吉は家を出ていました。

そんなある日、織田信長の奉公人となった兄・秀吉(当時・木下藤吉郎)が故郷中村に帰ってきて、弟・秀長をスカウトします。
秀長21歳の時でした。

兄の説得を受け、農民から武士となった秀長。

武士と言っても、まず最初は戦場などに赴く兄の留守を守る役目を果たします。
秀吉は功を重ね、”小六”と呼ばれた蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、前野長康(まえのながやす)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)達を信長から与えられました。
秀吉の妻・ねね(後の北政所)の姻戚である浅野長政(あさのながまさ)も秀吉に従っていました。
信長の美濃攻略で功を挙げた秀吉は、「竹中半兵衛」の名で知られる戦略家・竹中重治(しげはる)も配下に迎えます。

そして、秀長はこの猛者たちを束ねる仕事も担うようになりました。

秀吉が姓を羽柴に変えると、秀長も変え、徐々に武将としての振る舞いなどを学んでいき、重要な任務も任されるようになっていきます。

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2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』頼れる弟・豊臣秀長

琵琶湖を臨む長浜城を与えられた秀吉は、中国地方を征伐する総司令官を任されます。
その秀吉が誰よりも信頼していたのが弟・秀長です。
もちろん秀長もともに遠征し、「竹田城(兵庫)」「英賀城(あがじょう兵庫)」を攻め落とし、「出石城(いずしじょう兵庫)」の城主となります。
秀長は、温厚で謙虚で誠実。
この頃には頼もしさも兼ね備えていました。

羽柴軍は苦戦を強いられながらも、播磨・但馬(たじま、現兵庫県北部)の平定に成功し、中国地方の毛利氏との戦いへと突入していきます。

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2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』豊臣秀長の取りなしと検地

そこへ事件が起こります。

主君・織田信長を襲った「本能寺の変」です。
毛利軍と戦っていた秀吉たちは、大急ぎで京都・山崎へ戻り、主君を討った明智光秀と対峙します。

この時、秀長は天王山の守備を任されています。

秀長は、柴田勝家との賤ケ岳(しずがたけ)の戦いにも参陣しています。
その功績で播磨・但馬の二国を与えられ、数十万石の大名になっています。

ライバル柴田勝家をくだし、突き進む兄・秀吉の前に徳川家康が立ちはだかります。
その大事な小牧長久手の戦いでは、羽柴の甥・秀次の失敗で家康軍との局地戦に敗れます。

その時、秀長は、激怒した秀吉を鎮め秀次をかばい、紀州(和歌山県)征伐では秀長は秀次の信頼回復に尽力します。

秀長は、この紀州を平定後に安定した税収確保のための検地を行いました。
これが後の秀吉の太閤検地の元となったと言われています。

羽柴小一郎長秀は、名を羽柴秀長と改めています。

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2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』豊臣秀長の四国征伐

大阪城

天下をとるためには、四国と九州を征伐しなければなりません。
四国には長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と九州の島津義久(しまづよしひさ)がいます。

そんな折、病に倒れた秀吉の代わりに秀長が10万の兵を従えた総司令官に任ぜられ阿波(徳島)へ進軍しますが、苦戦が続きます。

見かねた秀吉が総大将になる旨の書状が届きます。
「必ず私が元親を降ろしますので四国に来ないようになさってください」
という返信をします。

その後、言葉通り勝利し四国を手中におさめた兄弟。

この功績で秀長は、大和(奈良)100万石の大名となり、郡山城を居城として大納言に昇進します。
”大和大納言”と呼ばれるようになりました。

 

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2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』豊臣秀長の内政と九州征伐

郡山城

大和は寺院及びその領地が多い国で決して治めやすい土地ではありませんでした。
秀長は、戦国の世で武士たちに領地を横領されたため 土地を返還しろという寺院からの訴えに耳を傾け、 公正な採決を下したと言われています。
その一方で 僧兵を持つ寺院には武装解除を進め、巧みな内政術を施していたようです。
商工業の保護を行い城下町 の にぎわいを促進したり、大和の陶器・赤膚焼を開窯するなども秀長の政策とされています。

体調を崩していたのか、四国攻めの1年後から度々、有馬温泉で湯治したという記録(多聞院日記)が残っています。
しかし、上洛を拒んでいた徳川家康が大坂(大阪)に到着すると、自らの屋敷に家康を泊めます。このとき兄・秀吉自ら家康に臣従を求めています。
九州征伐でも、 秀長は 日向 方面の総大将として出陣。 根白坂の戦いで 島津君を破ったことで遠征の勝利を決定付けました。

いよいよ 秀吉の天下統一 も 関東東北を残すだけ。
その後、鶴松を懐妊した秀吉の側室・茶々のための「淀城」の改修を任された秀長でしたが、体調は悪化し、小田原征伐には参戦できませんでした。

兄・秀吉は天下を目前にして気が短く怒りっぽくなったものの、秀長は常に寛大で、兄の欠点を補っていました。

秀吉も
「表に出したくないことは 千利休に。
政治については 秀長に相談しなさい」
と口にするほど。

それを受け、多くの人が秀長に秀吉への取りなしを頼み、許されてきました。

 

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2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』豊臣秀長亡き後

天正19年1月22日(1591年2月15日)
秀長は、関東・東北を平定し、天下統一を果たした秀吉の姿を見届け、 大和郡山城で息を引き取ります 。

贅沢を好まず 質素な暮らしをし 蓄財に励んでいた秀長。
大和郡山城には莫大な金銀 が蓄えられていたそうです。
これは、ただの倹約家ではなく、金銭を使って兵士の流血を減らす 戦い方をすることで、兵士や民衆の支持を勝ち取るためだと言われています。

 

秀長をなくした豊臣家はどんどん没落していきます。
天下人となってすっかり 増長してしまった 秀吉を諌めることのできた秀長と利休の二人。
秀長が亡くなり、秀吉は思い通りに行かない千利休を切腹させました。
また、甥の秀次とその妻子をも殺します。

秀長が亡くなった20数年後には、徳川が天下を獲り豊臣家は滅んでしまいます。

 

もし秀長の寿命が長ければ、豊臣の天下を永く継続させることができたかもしれません。
天下を狙う者からの暗殺説もあるほどの人物・豊臣秀長。

どのように描かれるのか楽しみですね!

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