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『あんぱん』千尋(中沢元紀)モデルやなせたかしの弟・柳瀬千尋ってどんなひと?

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朝ドラ『あんぱん』のなかで、柳井嵩の弟・千尋の実在モデルは柳瀬千尋(やなせちひろ)さん。

中沢元紀さんが、素直で優しい青年を自然に、魅力的に演じられています。

この2歳年下の弟・千尋さんは、やなせたかしさんの半生において最重要人物の一人です。

実際の柳瀬千尋さんは、どのような人となりでどのような人生を歩んだのでしょうか?

こちらでは、兄である柳瀬嵩(やなせたかし)さんや同級生などの証言から千尋さんの人生を紐解きます。

 

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柳瀬千尋|誕生

柳井千尋|柳瀬千尋(やなせちひろ)

誕生

柳瀬千尋は大正十(一九二一)年六月十五日に生まれている。
父は、柳瀬清、母は登美子だ。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

1921年6月15日
柳瀬千尋さんは、父・清さんの朝日新聞社転職と前後して生を受けました。

嵩さんとは二歳違い。

中国の山「嵩山(すうざん)」が名前の由来である嵩さんは、千尋さんの名前の由来について、次のように記述しています。

ぼくを山にしたので、弟は海彦という感じで「千尋の海」から千尋になったのです。
千尋は女性の名前にも使われています。弟はしばらく女の子みたいにして育てられましたから、名前もどちらともとれるようにしたのかもしれません
(引用:『人生なんて夢だけど』やなせたかし著)

弟はちいさいときしばらく
女の子の格好をさせられていた
おかっぱにして
赤い着物をきていた
それはひとつには
身体のよわい子どもは
女の子として育てた方がいい
という迷信のためと
ひとつには
女の子がほしかった
両親のねがいからだった
色白で長いまつげの
弟には赤い着物はよく似あった
(引用:『やなせたかしおとうとものがたり』やなせたかし著『赤い着物』より)

ご両親が女の子を望み、赤い着物を着ていた千尋さん。

朝ドラ『あんぱん』10話の中で、登美子の再婚先に赤い着物を着た女の子がいた光景がふと思い出されます。

嵩さんによると、千尋さんは色白で目が大きく、赤ちゃんから7歳ぐらいまでアンパンマンのように丸顔で、快活、誰にでも愛されるような少年だったそうです。

1922年(1歳)
一家は東京で暮らしていましたが、留学経験があり中国語が堪能だった清さんが、特派員としてキャリアを積むため中国へ渡ることになりました。

幼い子どもたちを連れて行くには、環境が過酷すぎるという理由で、千尋さんは母・登喜子さん、嵩さんとともに高知の祖父母宅に身を寄せています。

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柳瀬千尋|養子に

幼少期|3歳〜10歳

1924年5月16日(3歳前)
父・清さんは、中国へ渡った1年半後、赴任先の厦門(アモイ)で突然の病により亡くなります。

これより千尋さんは父方の伯父・寛さんと伯母・キミさん夫婦の養子になります。

一家の大黒柱を失った柳瀬家は、これ以降、別々の道を歩みだすことになる。
母・登喜子は弟の千尋を清の兄、寛の家に養子に出した。伯父の寛と京都出身の妻、キミの間には子供がいなかったため、千尋を養子にもらうことは、以前から約束されていたのである。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

清さんの兄・寛さんは、現在のJR「後免駅」近くに「柳瀬医院」を開業していました。

養子となった千尋さんは、夫婦と川の字で寝るほど可愛がられます。
このことについて嵩さんは、同じ兄弟なのに小2で預けられた自分は伯父の末弟(中学生)と一緒の部屋で、千尋さんだけ夫婦と寝ていたことにさみしさを覚えていたと回想されています。

また、
「お兄ちゃんはお父さん似でおとなしいが、器量が悪い。
弟さんはお母さんに似てハンサムで快活だ。」
嵩さんは子供の頃、そのような言葉を周囲から幾度となく聞かされていました。

とはいえ兄弟は仲が良く、千尋さんは兄が大好きで「お兄ちゃんと一緒でなければいや!」とどこに行くにも後をついてくるほど懐いていました。

ぼくらは
魚をとったり
泳いだりした
弟はまだ泳げなくて
浅いところでぴちゃぴちゃやっていた
ああ
あの頃の弟の
一生けんめいな顔よ
ぼくの泳ぐのを
うらやましそうにみていた
弟よ
(引用:『やなせたかしおとうとものがたり』やなせたかし著『夏の川で』より)

また、こんなエピソードもあります。

伯父さんの家は、田んぼと畑に囲まれた自然豊かな所で、当時男の子はチャンバラごっこをして遊んでいました。
チャンバラで嵩さんが他の子にやられそうになると、千尋さんが必ず助けに来たそうです。

「お兄ちゃん、死ぬ時は一緒だよ!」と真顔で言って、自分より大きな子に立ち向かっていった千尋さん。
兄にとっていかに愛すべき弟だったか、ということがわかります。

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柳瀬千尋|思春期

城東中学(現・高知県立追手前高校)へ|11歳

御免野田小学校から城東中学(現・高知県立追手前高校)に進学した千尋さんは、勉強も運動も得意でした。

城東中学では、ABCDの4クラスのうち1クラス「優秀組」にするのですが、千尋さんはこの「優秀組」に所属しています。

詩や絵が得意だった兄・嵩、そして弟・千尋はスポーツ万能で、勉学にも秀でていた。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

弟はある意味で柳瀬家のホープであった。性格も明るく成績も良く、柔道二段で快活であった。
(引用:『やなせたかしおとうとものがたり』やなせたかし著)

嵩さんは同じ中学で柔道部に入り、弟に技をかけるのを楽しんでいましたが、千尋さんも中学生になると追いかけるように柔道部に入ります。
ある日、千尋さんが初めて柔道で嵩さんに勝った時、怒った嵩さんは弟をボコボコにしたといいます。

それでも、千尋さんは怒ったりはしませんでした。

そんな千尋に憧れをもつ近所の女の子「のぶちゃん(竹田(安丸)信子さん)」は、次のように回想されています。

当時低学年の小学生だったのぶちゃん。
千尋さんは9歳上、15歳くらいのエピソードです。

千尋さんは背の高い、うんと優しいお兄ちゃんでね。お兄ちゃんが”ただいま”と帰ると、”うわーっ”と喜んで隠れたんですよ。毎日のことじゃけんど、わざとに隠れてね
…(中略)お兄ちゃんはいつも私を探してくれるがよ
…(中略)お兄ちゃんは優しいき、わざとに通りすぎて、私がワッと飛び出したら、びっくりしてくれるがよ。”ああ、びっくりしたあ!”って。そしたら、”寒いろう。待っちょってくれたが?これ、着せちゃう”ゆうて、スッとマントを脱いで着せてくれた。それは、優しいお兄ちゃんやったよ
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

そんな優しい千尋さん。
当時、嵩さんは、千尋さんが本当の両親だと信じていると思っていましたが、千尋さんが亡き父の写真をずっと持っており、自分が養子だと知っていたことを知り、驚きます。

嵩さんは再婚した母に時々会っていたので、罪悪感からその話をすると

「兄ちゃんはいいよ。僕は行けない。」

と千尋さんがポツンと言ったといいます。
可愛がってくれる伯父さん夫婦に悪いと思う千尋さんが、母親に会いに行くのを我慢していたというのです。

旧制高知高校(現・高知大学)へ|16歳

当時の中学は、五年制である。旧制高校への入学試験は、熾烈を極めた。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

中学は5年制でしたが、4年で入試を受ける成績優秀者(四修組)もあり、その年の城東中学からは7名が旧制高校入試を突破していました。千尋さんもその一人でした。

1939年(昭和13年)4月(16歳)
千尋さんは旧制高知高校二入学します。

旧制高知高校は、3学年合わせて450人ほど。
語学の選択により英語選択者が「甲」ドイツ語選択者が「乙」というクラスに分かれていました。文科の甲類が2クラス、文乙が1クラス、理科は理甲、理乙が1クラスずつの5クラスです。

そして初年度はみな、南溟寮(なんめいりょう)という寮生活を送ります。

千尋さんは引き続き柔道部に所属しますが、

黒帯、しかも二段ということになると柳瀬の柔道は、相当なものだが、柔道部自体が対外試合や、インターハイなどで目立った活躍をすることはなかったのである。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

大きな記録などは残っていません。

千尋さんの人となりについて、城東中学、旧制高知高校、京都帝国大学の同級生・吉川正水さんは

柳瀬君は四年修了で高知高校に行きましたが、なにかに騒いだりするような、そういう性質やなかったね。おとなしゅうて、物静かな感じじゃったよ
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

という印象を持っています。
どこか達観して大人びた青年だったのでしょうか。

旧制高知高校で同じクラス、東京帝国大学を経て商船三井の社長と会長を歴任された近藤鎮雄さんはこう語ります。

柳瀬は、非常にやわらかい人でね。物静かないい男でしたよ。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

義父の死|17歳

1939年(昭和14年)春(17歳)
千尋さんが高知高校の2年を迎えようという育ての親・寛さんが急死します。心臓麻痺、または脳溢血と伝えられています。

死に目に会えなかった兄・嵩さんは

父の兄・寛は、ぼくの第二の父でした。弟の千尋は「兄貴遅い!」と責めましたが、ぼくには返す言葉がありませんでした。
(引用:『人生なんて夢だけど』やなせたかし著)

と記しています。

これは千尋さん達家族にとって大事件ですが、千尋さんは友達には話していなかったようです。前出の近藤鎮雄さんは柳瀬家に食事に招かれた際にもそのような話は記憶しておらず、女性の話などもしなかったと話しておられます。

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柳瀬千尋|京都で暮らす

京都帝国大学(現・京都大学)へ|19歳

1941(昭和16)年4月(20歳前)
京都帝国大学法学部(現・京都大学法学部)に進学。

その頃の大学は3年制でした。

京都という地を選んだことは、義父・寛さんが京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)に通い、義母・柳瀬キミさんが京都出身だったことに起因すると思われます。

柳瀬が高知高校から京都帝大に進んだのは、ある意味、必然だったかもしれない。
育ての父と母、すなわち寛とキミは、寛が京都医専時代に知り合っている。キミの実家は京都にある。
千尋にとって、京都とはいつも食卓で話題になる、両親のいわば”故郷”なのだ。まして、その父が亡くなった今となっては、余計に郷愁がこみ上げてくる。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

千尋さんは、京都市左京区田中樋ノ口町「京都土佐塾」に入塾し、そこを下宿にします。
高知出身の学生が運営し維持している寄宿舎で、窓からは大文字山が見えたということです。

一緒に下宿したのは、御免野田小学校から城東中学、旧制高知高校、京都帝国大学までずっと一緒だった幼なじみの広井正路さん。千尋さんの親友でした。

広井正路さんの息子さんはたびたび父から千尋さんの話を聞いていたそうです。

親父は日本酒が好きでした。柳瀬さんもお酒は強かったと思いますよ。高知高校時代にはみんなで酒を飲んで、電車道の真ん中を肩を組んで練り歩いてたみたいです。

土佐塾では土佐のエリートたちが議論するなか、千尋さんは静かだったという話です。

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柳瀬千尋|戦争へ

学徒出陣|22歳

京都は、軍国主義とは一線を画したリベラルな土地でしたが、入学から半年後の
1941(昭和16)年10月16日
「大学学部等の在学年限又は修業年限の臨時短縮による勅令」「兵役法改正に関する勅令」が公布されると、兵力不足に備えて修業年限が6ヶ月短縮されることが決まります。

1943(昭和18)年9月23日(22歳)
京都帝国大学法学部を卒業。
その前日に、当時の首相・東條英機は文科系学生の徴兵延期を停止すると発言し、「学徒出陣」が現実になりました。

千尋さんも、海軍兵科三期の海軍予備学生として神奈川県三浦郡武山村「武山海兵団」に入団します。

武山海兵団では、4ヶ月間で海軍の基礎を詰め込まれ、4ヶ月後、千尋さんは久里浜にある機雷学校に進み、こちらでさらに4ヶ月間潜水艦作戦を学びます。

学生の任務は任務は、「水中の音で敵潜水艦を発見する」こと。
重要かつ非常に危険な任務でした。

駆逐艦「呉竹」へ|22歳

1944(昭和19)年5月(23歳直前)
千尋さんは、海軍少尉として駆逐艦「呉竹」への乗組を命じられます。

駆逐艦「呉竹」は石炭などの輸送船を守るため最前線に投入される船です。
千尋さんは「呉竹」水測室の分隊士として敵潜水艦の探知をしていたと考えられます。

兄・嵩さんが小倉の部隊にいた頃、海軍の制服をした千尋さんが訪ねてきたことがありました。千尋さんは「特別な任務に就くために最後の挨拶に来た」と嵩さんに語ります。

軍の機密は、たとえ親兄弟でも話すことはできない。千尋は、訪ねていった兄に自分の任務を詳しくは話していない。
しかし、極めて特殊な任務であることは話したようだ。特殊な任務ーそれは、そのまま「死」に近い任務のことである。
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

一人乗りの小さな船で水中に潜り、敵の大きな船に体当たりする「人間魚雷」だと思い込んだ嵩さんは大反対します。

「もう決まったことなので変えられない。
僕はもうすぐ死んでしまうが、兄さんは生きて絵をかいてくれ。」

そう言い残して去っていったそうです。

戦死|23歳

1944(昭和19)年12月30日午後12時(23歳)
「呉竹」は、台湾とフィリピンの間の「バシー海峡」で襲撃を受けます。

「呉竹」の機関士・流田武一さんの話では

それが誘爆したから、艦橋の前から先が吹き飛んだ。ほやけ、私はちょうど、後部の探照灯のあたりにおったから、すべてが見えたんですよ。ぶわんぶわんと艦が動いたので、”うわっやられた”と思ったら、ドーンと。もう煙と潮と、何もかも吹っ飛んでましたわ
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

魚雷を被弾した瞬間、「呉竹」は艦橋より前の部分すべてが消失。
千尋さんがいた対潜水艦探知室はもっとも前にあり、跡形もありません。
対潜水艦探知室全員の死亡が瞬時にわかるほどだったようです。

「呉竹」は140名が戦死、生存者はわずか14名。

千尋さんには死後、1階級特進し海軍中尉の階級が与えられました。

兄・嵩さんは日本に帰国する直前、何度も千尋さんの夢を見たそうです。千尋さんが「おい!兄貴!」と言って現れ、闇の向こうへ消えていく夢でした。

帰国後、嵩さんはすぐに高知の後免町に向かいます。
帰宅した嵩さんを見た伯母は泣き出します。そして千尋さんが亡くなったことを知りました。

「チイちゃんは死んだぞね」
と伯母は言った。
弟の千尋は海軍特攻隊に志願し、二十二歳で比島バーシー海峡に沈んだ。遺骨はなく骨壷の中には一片の木片が入っていた。
ぼくは泣かなかった。まったく見えないところで弟は消えてしまった。名前のように、弟は千尋の深海に沈んだ。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし著)

もし、という言葉には意味がないのかもしれません。
ですが、もし、千尋さんが戦後も生きていたら…と考えずにはいられません。

柳瀬は、非常に性格のいい、微笑ましい存在だった。絶対に自分から前に出てくるわけでもないしね。柳瀬は京都帝大の法学部に行ったが、法学部志望のなかには勉強して高等文官試験(筆者注=現在の国家公務員Ⅰ種試験)を通って、官僚の道に進もうとする者もいただろうけど、柳瀬の口からはそういうことは聞いたことがなかった
(引用:『慟哭の海峡』門田隆将著)

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