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『あんぱん』八木上等兵(妻夫木聡)モデルはサンリオ辻信太郎と新屋敷上等兵

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嵩が所属する小倉連隊の上等兵・八木信之介(妻夫木聡)が、朝ドラ『あんぱん』第50話から登場します。

こちらは

新屋敷上等兵(戦時中の上等兵)

がモデルだと言われています。

また、

辻信太郎さん(戦後、嵩とのぶに大きな影響を与える)

もモデルではないかと目されています。

この2人を同一人物として落とし込んだのが、八木信之介という登場人物ということですね。

こちらでは、妻夫木聡さん演じる八木信之介の実在モデルについてご紹介いたします。

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『あんぱん』八木信之介とは

『あんぱん』での八木信之介は、どのように描かれるのか?
公式サイトでの記述を見てみます。

NHK公式サイトより

NHK公式サイトの
『あんぱん』登場人物の説明

戦時中、柳井 嵩(北村 匠海)が所属することになる小倉連隊の上等兵。 軍隊になじめない嵩を気にかけ、折にふれ助け舟を出す。戦後、嵩と思わぬ再会を果たし、朝田 のぶ(今田 美桜)と嵩の人生に大きな影響を与えるようになる。

制作統括の倉崎憲 チーフ・プロデューサー

妻夫木さんに演じていただく八木信之介役は、戦地で嵩と出会い、戦後も長きに渡ってのぶと嵩に大きな影響を与えていくことになる人物です。厳しくもありながら、詩や文学を愛する一面も持ち、人間の本質と時代の流れを見抜き、嵩の詩を書く才能にも気付いて大きな流れを作っていくようになります。

演じる妻夫木聡さん

私が演じる八木信之介は一見厳しくも見えますが、冷静に繊細に物事を見つめ、本質を見抜く人。

このように評しておられます。

実在モデルとの共通点

登場人物の人物像とモデルの共通点は以下のとおりです。

実在モデル 新屋敷上等兵 辻信太郎
八木信之介人物像 ・嵩が所属する小倉連隊の上等兵
・戦時中、嵩に助け舟を出す
・一見厳しい
・詩や文学を愛する
・物事(人間・時代)の本質や流れを見抜く
・嵩の才能に気づく
・戦後、嵩と会う
・のぶと嵩の人生に大きな影響を与える

八木上等兵は、理不尽な暴力の蔓延する軍隊においてめずらしく決して暴力を振るわない人物として印象的に描かれます。

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『あんぱん』八木信之介モデルの2人

では、八木信之介の2人のモデルについて

新屋敷上等兵

主に戦時中の八木信之介のモデルだと思われるのが、新屋敷上等兵です。

やなせたかしさんと新屋敷上等兵は、は、福岡県小倉の野戦重砲隊で戦友(バディ)という関係でした。

上等兵の三年兵となれば班の中では神様のようで、ほとんど何ひとつ自分ではしなかった。戦友と称して隣のベッドの初年兵が、整理整頓、靴みがき、銃剣の手入まで全部やる。ぼくは新屋敷上等兵殿の戦友にされた。三年兵で鬼屋敷と呼ばれて恐れられていたが、なかなかの快男子で、特に馬の扱いに関しては優れていた。
手先が不器用なぼくは、とても上等兵殿の世話をするどころではなかったが、馴れぬ手に針を持って襟布を縫いつけたり、上等兵殿の靴下や下着の洗濯をした。上等兵殿が風よけになって、いくらかリンチの嵐は防げた。
(引用:『アンパンマンの遺書』やなせたかし)

このような記述が見られます。
人物像は、ほぼ八木上等兵ですね。

辻信太郎

また、戦後の八木信之介さんのモデルは、株式会社サンリオ創業者の辻信太郎さんではないかと言われています。

辻信太郎さんは、やなせたかしさんより9歳年下で『あんぱん』放映2025年現在97歳。

サンリオが発行する『いちご新聞』で毎号コラムを掲げる「いちごの王さま」としても広く知られており

「世界中がみんな仲良く平和に暮らせるように」

という願いを発信し続けておられます。

(サンリオは、キャラクターグッズの企画・販売、サンリオピューロランドの運営など、幅広い事業を展開する会社です。)

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『あんぱん』八木信之介モデル辻信太郎

ここからはサンリオ創業者辻信太郎さんの人生と、やなせたかしさんとの関係について、ご紹介いたします。

割烹料理店『三省楼』の跡取り

【誕生日】
1927年12月7日
【出身】
山梨県甲府市
甲府の有名割烹料理店『三省楼』の跡取りとして生を受けた辻信太郎さん。
家柄としては、もともと武家で500年続く旧家です。

【家族】
13歳でお母様を亡くし、少年期のご家族は父、弟、妹。
長男でサンリオ副社長を務めた辻邦彦さんが2013年に亡くなり、現在は孫の辻朋邦さんがサンリオの社長を務められています。

【学歴】
春日小学校
→甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)
→旧制桐生工業専門学校化学工業学科(現・群馬大学工学部)

応用化学を専攻された辻信太郎さんは、在学中にサッカリンや石鹸を作り闇市で販売するなど、この頃から商売を経験されていたそうです。

戦争体験

1945年、辻信太郎さん17歳
終戦ひと月前の7月6日深夜〜7日未明に約2時間にわたり、山梨は空襲(甲府空襲)を受けます。
死者1127人、市街地の74%が焼け落ちました。

時節柄、『三省楼』は閉鎖中で、広い家には父、弟、妹が暮らしていましたが、在学中だった辻信太郎さんはこの時たまたま帰省しており、空襲に遭遇します。

「ちょうどサクランボの最盛期だったので、7月6日、地元の友人の家にサクランボを採りに行きました。枝ごと切ってもらって、担いで家に帰り、夕食を終えて──。ほっと一休みしているときに空襲警報が鳴り、外を見たら、空が真っ赤になっていたんです。これは逃げるしかない、と。父は弟を自転車の後ろに乗せて、先に家を飛び出した。私が8歳になる妹を連れて裏玄関に行ったら、もう家の一部が燃え始めていたので、そのまま妹を背負って家を飛び出して逃げました。外に出たら、恐ろしい爆音とともに、空から焼夷弾が雨のように降ってくるんです。すぐ近くにいた人の服に、火の粉がついて燃え上がるのも見ました」
(出典:Yahooニュース2022/8/13)

「当時は防火用水をためておくため、家の前に貯水槽を置いたものですが、貯水槽に覆いかぶさるようにして亡くなっている女性がいました。近くにいた男の人が抱き起こしたら、赤ん坊も亡くなっていた。熱いから赤ちゃんを水の中に入れて、守ろうとしてかぶさっていたところに、背中に火がついたんでしょうね
(出典:Yahooニュース2022/8/13)

あまりの熱さに辻信太郎さんは妹を背負ったまま汚いドブ川に入り、田んぼの方まで走って逃げたそうです。

広い生家も全焼してしまいます。

「戦争だから仕方がない」について

「戦争だから仕方がない」という大人たちが大勢を占めるなか、辻信太郎さんはその言葉に疑問を感じます。

「戦争だから仕方がない」78年前に、王さまの周りの大人たちは王さまにそう言いました。王さまの実家も燃えてしまいました。
(いちご新聞2023年8月号)

「一番いいのは、最初から“戦わない”“争わない”ことではないかと王さまは考えています」

「戦争だからしかたがない」
「生きていくためには相手をやっつけるしかない」

という思想に、

「そんな馬鹿なことはない、話し合ってくれ」
「絶対に武力で解決しようとしてはならない」

と真っ向から反対します。

このシンプルで強い信念は、戦後、長く辻信太郎さんの胸で燃え続けます。

「株式会社山梨シルクセンター」

1945年8月
空襲からひと月後に戦争は終わりを迎えます。

辻信太郎さんは

1947年 桐生工業専門学校化学工業学科を卒業
1949年 山梨県庁に入庁
1960年 山梨県庁を退職します。
退職の際、県政功労者として3階級特進を受けたそうです。

退職と同時に、地域の特産品である絹やぶどう酒などを広めるための県庁の外郭団体を民営化(株式会社化)して
「株式会社山梨シルクセンター」を設立した辻信太郎さん。

サンダルに花模様をつけて販売するアイデアを考え、これがサンリオのキャラクタービジネスへと繋がっていきます。

やなせたかしさんとの出会い

1960年代 に、やなせたかしさんと出会います。

1961年『手のひらを太陽に』を作詞しヒットを飛ばしていたやなせたかしさんは、この頃、ラジオドラマの仕事で、劇中歌にご自身の作詞した詩を使っていました。

山梨シルクセンターの社長・辻信太郎さんの方から

「うちで詩集を出版しましょう」

と声をかけたそうです。

ただ、当時の山梨シルクセンターには出版部がなく、編集者もいません。
従業員にも銀行にも大反対されたとのこと。

それでもやなせたかしさんの才能を見抜いていた辻信太郎さんは、
1970年、詩集『愛する歌』の出版を敢行します。

「絶対に迷惑はかけないから」という約束で、出版部ができた。
辻社長は学生時代、西条八十の「蝋人形」を愛読していた詩人肌の文学青年で、これが後年サンリオ社の体質の根底になって、大ヒットするキティちゃんの誕生につながっていく。とにかく出版部の第一号の出版物は、やなせたかし著、詩集「愛する歌」である。
(出典『アンパンマンの遺書』やなせたかし)

この『愛する歌』は、子どもでもわかる平易な言葉で書かれており、悲しさと温かさと優しさがやなせたかしさんの詩とイラストで紡がれています。

「株式会社サンリオ」

1973年「株式会社山梨シルクセンター」は「株式会社サンリオ」へと社名変更をしました。

社名の由来は、スペイン語の「San」(聖なる、清らかな)と「Rio」(河)を組み合わせた造語。聖なる河「サンリオ」(Sanrio)。

そこには、人類が最初に住み始めたといわれる河のほとりに、聖なる文化を築き、そこに集まる人々がお互いに思いやりを持ち、仲良く暮らせるコミュニティを作りたいという思いが込められているそうです。

空襲を経験した辻信太郎さんは、「仲良く生きる」ことをテーマにサンリオを設立されました。

お母様を亡くされている辻信太郎さんは、家に遊びに行ったり来たりするような友達と仲良くするために鉛筆など小さなプレゼントをしていたそうです。

小さなプレゼントを贈り合うというコミュニケーションの形が根本にあり、サンリオではペンやハンカチを販売し始めました。

やがて、オリジナルのキャラクターを使った商品でサンリオは大人気になります。

お金を稼ぐこと自体を目的にするのではなく、みんなが仲良くなれるのが目的のビジネス。

現在も、売れない商品があればパッケージにサンリオのキャラクターを使ってほしいと呼びかけ、様々なコラボが実現しています。

世界に伝えるドキュメンタリー映画

戦うことなく、争うことなく、みんなが仲良く生きていける環境のために、できることをやる。

その一つが『いちご新聞』であり、ドキュメンタリー映画『愛のファミリー』の製作です。

1977年
辻信太郎さんは、ベトナム戦争後の戦災孤児を預かったアメリカ人ファミリーのドキュメンタリー映画『愛のファミリー』を製作し、第50回アカデミー賞・長編ドキュメンタリー映画賞を受賞されました。

こちらも「反戦」「みんな仲良く生きる」という強いメッセージ性のある映画となっています。

会社を孫の辻朋邦さんに任せ

2020年 創業以来務めた社長から会長職に退いた辻信太郎さんは

2024年 文化庁長官特別表彰されています。

戦争を経験し、「みんな仲良く」という夢をビジネスにした八木上等兵のモデルのひとり、辻信太郎さん。

現在は94歳でおられます。

 

朝ドラ『あんぱん』戦時中と戦後、八木信之介がどのように描かれるのか、嵩とのぶにどのような影響を与えるのか、実際のモデルを想像しながら注目していきたいと思います。

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