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『ばけばけ』雨清水三之丞(板垣李光人)モデル|小泉藤三郎

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朝ドラ『ばけばけ』で、板垣李光人さん演じる雨清水三之丞(うしみずさんのじょう)の実在モデル・小泉藤三郎さんについてご紹介いたします。

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『ばけばけ』雨清水三之丞モデル|小泉藤三郎とは

朝ドラ『ばけばけ』で 板垣李光人さん扮する雨清水三之丞は、NHK公式サイトで次のように紹介されています。

雨清水家の三男でトキの2歳下。兄が家督を継ぐため自身は特に役目がない。 家の中に居場所がないため、トキたちの仕事場に入り浸っている。
(引用:NHK公式サイト)

モデルとなった小泉藤三郎さんは、どのような人物だったのでしょうか。

小泉藤三郎プロフィール

小泉藤三郎
(1870年6月25日〜1916年)
小泉家後継者
雨清水三之丞のモデル

小泉藤三郎さんは、小泉八雲さんの妻である小泉セツさんの2歳下の弟です。

家柄

【小泉家】
・代々出雲松江藩主・松平直政(家康の孫)に仕えた家柄
・三職「家老・中老・番頭」のうち「番頭」
・家禄300石
・当主は代々「弥右衛門やえもん」を名乗る
・明治時代には士族

上士と呼ばれ、藩公へのお目見が許され、また、広く敬意の目で仰ぎ見られたもので、小泉家も、そうした由緒ある家の一つであった。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

家族一覧

小泉湊 8代目弥右衛門
番頭→繊維会社社長
小泉チエ 塩見家長女
美人
長兄 小泉氏太郎 駆け落ち
長姉 小泉スエ 本多家養女
次兄 小泉武松 早逝
次姉 小泉セツ 稲垣家養女
後に復籍
義兄 小泉八雲
(ラフカディオ・ハーン)
姉セツの夫
英語教師
ジャーナリスト
文筆家
本人 小泉藤三郎 三男、小泉家後継者
小泉千代之助 岩見家養子
後に復籍
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『ばけばけ』雨清水三之丞モデル|小泉藤三郎の生涯

姉に小泉セツさんを持つ小泉藤三郎さん。

6人兄弟の5番目

1870年、明治のはじめに上級士族の家に生まれた小泉藤三郎さん。

父は、みずからが明治に興した繊維会社の一代目社長。
母は、由緒正しき家柄のお嬢様として育った「奥方様」。

藤三郎さんは6人兄弟の5番目で、
12歳離れた嫡男小泉氏太郎さんを筆頭に、4人の兄姉がいました。

ただ、すぐ上の姉のセツさんは、小泉家より格下の稲垣家の養女に入っており、生活を共にはしていません。

趣味は鳥の飼育

明治に入り、父は、武芸を磨くより読み書き算盤などに重きを置くことで、子供たちの将来、小泉家の未来に備えたいと考えていました。

三男ということでプレッシャーを感じず自由に過ごしてきたのでしょうか。
藤三郎さんは学校に行かず、野山で鳥を捕まえては飼うことに夢中の毎日。

勉強好きで学校好きだったセツさんとは対照的ですね。

父の会社が倒産

そんな藤三郎さんに、転機が訪れます。

父の会社は最初こそ順調で、広く大阪方面まで反物を売り出していましたが、繊維業界が衰退を始めます。

例に漏れず、父の会社も業績が悪化し、倒産してしまったのです。

突然、跡取りに

1885年(15歳)
4歳上の次兄・武松さんが19歳で亡くなり、小泉家の次期当主の長兄・氏太郎さんが町家の娘と駆け落ちをして行方知れずに。

藤三郎さんは、突然、小泉家の後継者となりました。

重い責任がのしかかってきますが、この時すでに小泉家は沈みゆく船でした。

父の死

1987年、藤三郎さん17歳の時のこと。

一年の内に、上の男の子二人を失った小泉家では、一家の支えとなるべき藤三郎が始末におえぬ男であることが分かったのである。彼は働こうとせず、日ごと野山に出掛けては小鳥を捕らえ、これに餌を与えて飼育するのに夢中で、果ては、南側の陽の当たる廊下が鳥籠で塞がれてしまうまでになった。(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

ある朝、寝床から動けないほどだった湊さんが、突然立ち上がります。

「おのれ、親不幸者め。そちの腐れ根性を打ちすえてくれるわ」と叫ぶとともに、滅多打ちに鞭を振るい出した。家中がその場に駆けつけて湊を抑え、寝床に連れ戻したが、病人は喘ぐ呼吸とともに肋骨を波立たせるのであった。彼の病勢はにわかに高じ、間もなく齢五十一歳で亡くなったのである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

小泉家の行く末を考えるとよほど心残りで、藤三郎さんが心配の種だったのでしょうか…。

頼りになる父や兄たちはもういません。
母チエさんも姉スエさんもお姫様育ちで働くことができませんし、藤三郎さんもまた、自身が母たちを支えることはしませんでした。

当時はセツさんが最初の結婚をした半年後です。
稲垣家も小泉家同様に窮状に喘いでいた時期と重なります。

墓を売る

1896年
八雲さんとセツさんたち一家が東京へ上京する前に、松江の小泉家の墓参りをしようと、寺町の菩提寺・善導寺を訪ねます。
すると、あるべき場所に墓がなくなり、地面がくぼんでいました。

僧侶に問うと、藤三郎さんがかなり前にお墓を売ってしまったというではありませんか。

それからすぐ、セツさんは母チエさん宛てに仕送りを始めています。
母チエさんからセツさん宛てのお礼の手紙には、藤三郎さんがその仕送りで生活をしている事実がしたためられていました。

藤三郎上京

夫妻の三男・清さんが生まれた半年後
1900年7月のある日。
30歳の藤三郎さんが、突然、東京に住む小泉八雲さんセツさん宅を訪ねます。

この時、すでにセツさんは藤三郎さんと絶交していたのですが、渋々藤三郎さんを書生部屋で寝起きさせることにしました。

セツさんはこのことを八雲さんに伏せていました。

20日ほど滞在した後、待遇に不満を持った藤三郎さんが八雲さんの前に出てきて挨拶をします。

すると、八雲さんは顔面蒼白になり

「あなた武士の子です。先祖の墓食べるの鬼となりましょうよりは、なぜ墓の前で腹切りしませんでしたか? 日本人ないの日本人は私の親類でありません。さよなら、直ぐ帰りなさい!」
(引用『父小泉八雲』小泉一雄)

と怒ったということです。

藤三郎さんは、その日のうちに家を出ていき、その後一度も顔を見せませんでした。

最期

それから16年経った1916年。
小泉藤三郎さんは、本籍を置いている住所の近くの空き家で亡くなっているところを、遺体で発見されました。
45歳のことです。

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