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『ばけばけ』「松江新報」梶谷吾郎(岩崎う大)モデル|「山陰新聞」岡本金太郎

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朝ドラ『ばけばけ』で、ヘブンのことを記事にする松江新報」記者・梶谷吾郎(岩崎 う大さん)のモデル岡本金太郎さんについてご紹介いたします。

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『ばけばけ』梶谷吾郎(岩崎う大)モデル|岡本金太郎とは

朝ドラ『ばけばけ』梶谷吾郎は

松江新報の自称・敏腕記者。来日したヘブン(トミー・ バストウ)に密着する。調子がよく、小さなネタをもビッグニュースに仕立て上げる。

というキャラクターです。

モデルとなった岡本金太郎さんは、どのような記事を書き、何を知っていたのでしょうか。

岡本金太郎プロフィール

岡本金太郎
1860年6月8日〜 1926年3月22日
山陰新聞記者。
後に社長となり、政治の世界に。

経歴

島根県松江市出身
松江中学校
→東京の専門学校(1887年卒業)
→山陰新聞
→山陰新聞社長
→島根県会議員
→松江市会議員

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『ばけばけ』梶谷吾郎モデル|岡本金太郎と小泉八雲

岡本金太郎さんは、小泉八雲さんが松江で過ごしていた頃、「山陰新聞」の記者でした。
まず、「山陰新聞」とその記事についてご紹介いたします。

山陰新聞とは

『ばけばけ』「松江新報」のモデルは、当時小泉八雲さんのことを詳細に報道していた「山陰新聞」がモデルだと考えられます。

「山陰新聞」とは
1882年:自由民権運動の機関紙として創刊された政友会系新聞
1935年〜経営不振に陥り
1941年:読売の傘下に
1942年:戦時報道統制で「山陰新聞」と「松陽新報」が統合
「島根新聞」に
1952年:「山陰新報」に改題
1973年、:社名を「島根新聞社」から「山陰中央新報社」に

山陰新聞は、島根の有名人・小泉八雲さんに関する記事をたびたび報道していました。

山陰新聞の記事

1890年11月(30歳)
小泉八雲さんが、「花田旅館」モデル「冨田旅館」の女中お信を自費で西川自省眼科に診せたことを美談として報道しています。

1891年6月(31歳)
セツさんについて「稲垣家の養女」と報道

夫妻が熊本に転居してからも
「小泉方は追々打つぶれて母親は乞食と迄に至りし」
「至つて孝心にて養父方は勿論実母へも己れの欲をそいで与ふる」
などと記載しています。

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『ばけばけ』梶谷吾郎モデル|岡本金太郎と西田千太郎

岡本金太郎と西田千太郎

『山陰新聞』の当時の主筆(岡本金太郎)は、西田の中学の同期生であり親友である。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

”西田”というのは、『ばけばけ』でヘブンが最も信頼する友・錦織友一のモデル西田千太郎さんを指しています。

当時、小泉八雲さんの記事を書いていた岡本金太郎さんは、小泉八雲さんの最も近くにいた西田千太郎さんと親友だったのです。

岡本金太郎の記事からわかること

特筆すべきは、当時「山陰新聞」で、セツさんのことを
「ヘルン氏の妾」「愛妾」と報道していたこと。※

この「山陰新聞」記事の主筆は、岡本金太郎さん。

この記事について
・親友西田千太郎さんから話を直接聞いていた可能性がある点
・誤った表記なら、元記者であり、嘘を嫌う小泉八雲さんから訂正が入っただろうという点
(直接読めなかった可能性もありますが)

以上の理由から、セツさんの当初の位置づけ、周囲の認識としては間違ってはいないかと思われます。

※後に『西田千太郎日記』を発行する際、八雲さんセツさんの遺族に慮った西田千太郎さんの次男・敬三さんが、「節子氏」「妻君」と手直しをしています。

これらの記事のおかげで、八雲さんがまったく語らなかったセツさんとの出会いについても推測することができます。

議員としてのその後

『ばけばけ』の梶谷吾郎のように「自称敏腕記者」だったのかはわかりませんが、その後、新聞社の社長にのぼりつめ、すぐ政治家へと転身されています。

1895年(35歳)
「山陰新聞」には、岡本金太郎さん自身のことが書かれた記事もあり、水道敷設の調査設計のため市に招いたスコットランド人を、臨水亭で30名ほどで宴を開き、もてなしたメンバーとして名を連ねます。

1904年(44歳)
第9回衆議院議員総選挙
松江市選挙区から「無名倶楽部」公認として
立候補して当選。

「同政会」→「政交倶楽部」を経て「猶興会」に入り
1908年(48歳)
第10回衆議院議員総選挙で落選。

1926年(66歳)
その生涯をまっとうされました。

【参考文献】
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社

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