日本の近代看護の夜明け前。
運命に導かれるように、東京・築地の桜井看護学校に集まった一期生の中に、後に日本の看護の双璧となる2人の女性がいました。
大関和(おおぜき ちか)と鈴木雅(すずき まさ)
共通点も多くシングルマザーとして自立の道を模索していた2人では理想の「看護」を追い続けますが、その正義の貫き方には大きな違いがありました。
異なるスタイルの二人が、どのように手を取り合い、日本の看護の土台を築いていったのでしょうか。
【比較表】大関和と鈴木雅
(AIが生成してくれました)
| 比較項目 | 大関和(おおぜき ちか) | 鈴木雅(すずき まさ) |
| 生まれ年 | 1858年5月 | 1858年2月 |
| バックグラウンド | 士族・シングルマザー | 士族・シングルマザー |
| 家族 | 母・哲 一男一女 |
母・トヨ 一男一女 |
| 30歳まで | 18歳 結婚 22歳 離婚 23歳 正美英学塾 28歳 桜井看護学校入学 |
18歳 フェリス入学 20歳 結婚 23歳頃 共立女学校入学 (現横浜共立学園) 25歳 夫と死別 28歳 桜井看護学校入学 |
| 30歳から | 30歳 附属第一医院外科 33歳 高田女学校(新潟) 34歳 知念堂病院(新潟) 38歳 「東京看護婦会」 鈴木雅の右腕に 43歳 「東京看護婦会」を引き継ぐ |
30歳 附属第一医院内科 33歳 「慈善看護婦会」設立 35歳 「東京看護婦会」に改称 日本初の看護婦派遣団体 43歳引退 |
| 51歳から | 51歳 「東京看護婦会」を 「大関看護婦会」に。 キリスト教主義の団体へ看護婦の養成と派遣を強化 |
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| 性格の印象 | 情熱的、潔い、猪突猛進 | 冷静、慎重かつ大胆 |
| 長所 | 現場を変える 「突破力」 |
未来を創る 「プロデュース力」 |
| 特徴 | 信仰に基づく揺るぎない良心 | 合理的な判断と組織運営 |
| ドラマでは | マイペース (一ノ瀬りん) |
みなしご・柔軟でしたたか (大家直美) |
大関和と鈴木雅の関係
桜井看護学校・医大附属第一医院の同期
桜井看護学校の同期(第一期生)の頃は寮でも同部屋。
医大附属第一医院の同僚でもあった大関和さんと鈴木雅さん。
医大附属第一医院時代、鈴木雅さんは医師との軋轢があったという話はありませんが、大関和さんは、看病婦の待遇改善の建議書を提出して退職に追い込まれたと新聞に掲載されました。
外科看病婦取締 大関和
謹んで書を医科大学第一医院外科監督佐藤教授閣下に呈す
妾熟々惟るに
近来看護婦養成ならびに病室改良
日に月に歩をすすめ
従って業務増加せり
故に人々各々己の本分をつくさんと欲せば
寸陰を惜しむも尚
足らざるものあり
ところが、医局の頭越しに行われたこの建議を医師たちは許さなかった。佐藤三吉は和の看護婦としての能力を高く買っていたものの、医師たちと反りの合わない和を看病婦取締に就けておくわけにはいかず、解任する。頭を下げれば一看護婦として働き続けることができたのかもしれないが、和は第一医院を去ることにした。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
退職後、新潟高田に単身赴任した大関和さん。
その間にアメリカ行きを断念して慈善看護婦会(東京看護婦会)を設立した鈴木雅さん。
東京看護婦会と大関看護婦会
一旦、道が分かれますが、新潟の知念堂病院の看護婦だった大関和さんを結果的に引き抜く形で、鈴木雅さん自らが運営する東京看護婦会でともに働き始める2人。
鈴木雅さんが引退すると、大関和さんが引き継ぎ、大関看護婦会に発展させました。
東京看護婦会とは
日本初の看護婦派遣団体
設立者:鈴木雅さん
設立時期:1893年に「慈善看護婦会」を改称して設立
方針:看護の社会的地位向上、民間への看護婦派遣(派出看護)の確立
大関看護婦会とは
鈴木雅さんが創り上げた東京看護婦会の基盤を大関和さんが継承し、さらに発展させた
設立者:大関和さん
設立時期:1900年頃に引き継いだ東京看護婦会の経営(養成所含む)を1909年に自身の名を冠して設立・独立
方針:技術向上、特に熟練看護婦の養成(教育)、病院の看護体制の模範となる看護を実践
大関和の歩み
看護以前
大関和さんは、黒羽藩の筆頭家老という名門の娘であったため、武家の娘として必要な「読み書き」「算術」「裁縫」、「礼儀作法」などの教育を家庭や私塾で受けていました。
学校に通い始めたのは、離婚して上京し、自立を決意した20代になってからのこと。まず23歳頃に英語を学ぶために正美英学塾へ通い、その後28歳で桜井女学校附属看護婦養成所へと進んでいます。
大関和の愛と奉仕
大関和さんの看護の根底にあるのは、キリスト教精神に基づく愛と奉仕。
これはナイチンゲールとっての看護が単なる職業ではなく、神に仕えるための「召命(コーリング)」であり、苦しむ人々を救うことは神の意志を体現する行為だったことにも似ています。
患者の肉体的な苦痛だけでなく、孤独や絶望に誰よりも敏感だった大関和さん。その行動原理は、常に「聖書に基づいた良心」にありました。
力を持つ個人に直談判

患者のため、良心に照らして正しいと信じれば、臆することはありません。
看護の現場での不当な扱いや、劣悪な労働環境を目の当たりにしたとき、沈黙を選ばず、絶対的な権力を持つ医師に対し、単身で「建議書」を叩きつけ、待遇改善を佐藤三吉教授に直訴。この行動も、単なる権利主張ではなく、患者に良質なケアを提供するための不可欠な条件だからでした。
また、戦争で需要が高まり質の悪い看護師が増えた時も、内務省の後藤新平氏に看護婦の資格精度を直談判した大関和さん。この時の直談判は、単なるわがままではなく、4年後に公的な看護婦資格制度の確立へと繋がる重要な一歩となりました。
「間違っていることは、間違っている」と言い切る潔さは、時に衝突しながらも、閉塞感のあった看護の現場に風穴を開けたのです。
その生き様は、多くの後進に勇気を与えます。
晩年まで「大関看護婦会」を通じて後進の育成に捧げた人生は、まさにケアの本質を問い続けるものでした。
鈴木雅の歩み|職業としての看護を確立
看護以前
かたや、鈴木雅さんは、横浜のフェリス出身。結婚後も多くの女子留学生を輩出した共立女学校(現横浜共立学園)で学ぶ才媛でした。
その後、共立女学校同窓の桜井ちかさんが創設した桜井看護学校に入学され、大関和さんと出会います。
鈴木雅の献身
わたしの好きなエピソードがあります。
かつて天然痘が猛威を振るった当時、鈴木雅さんは第一医院を辞め、夢だったアメリカ留学を目の前にしていました。
ですが、乗船のため向かった横浜で、目の前で苦しむ患者を放っておけず、迷わず渡米を断念。不眠不休で看護にあたったといいます。
目の前に弱っている人がいれば、手を差し伸べずにはいられない。「留学という未来の自分」よりも「目の前で消えゆく命」を選んだのです。
結果、渡米の夢は叶わず、「慈善看護婦会(貧しい人は無償の派遣看護団体)」を設立します。
組織づくりというアプローチ

これは横浜での実体験で確信したのかもしれません。
個人の自己犠牲に頼る看護は続かないということを。
そして、熱い思いがあるからこそ、それを継続させるためにシステムが必要だということも。
冷静に、着実に、制度を整えなければ仲間を守れないのだと。
目指すところは大関和さんと同じ。
病院から独立し、主体的に患者に寄り添いたい。
そのうえで、当時「卑しい職業」と見なされる看護婦という職を専門知識を持つ誇りある職業へと昇華させたい。
この現実的な視点こそが鈴木雅さんの真骨頂。
看護婦が社会的に自立するためには、正当な報酬と規則、そして組織の力が必要だと考えました。
事を荒立てず、まずは組織作りから始め、社会的な立場を固める。一歩ずつ、しかし確実に出口を見出す鈴木雅さんの冷静さは、看護を「一時的な奉仕」から「一生の専門職」へと変えていきました。
鈴木雅さんは、理性的かつ戦略的なアプローチで、看護の「仕組み」を作り上げた、近代看護のプロデューサーと言える存在でした。
二人がいたからこそ、今の「看護」がある
性格もアプローチも違う2人。
ですが、看護にかける思いの強さは同じです。
共通の恩師、宣教師マリア・トゥルーさん矢嶋楫子さん、アグネス・ヴェッチさん、そしてナイチンゲールから受け継いだ「病める人を救いたい」という揺るぎない信念がありました。
先人たちが撒いた種は、大関和さんによって「深い慈愛」の花となり、鈴木雅さんによって「強固な制度」という幹となりました。
大関和さんの突き動かされるような情熱がなければ声は届かず、鈴木雅さんの戦略がなければその声は形にならなかったでしょう。
この両輪が、日本の近代看護に大きな進歩をもたらしたに違いありません。
ドラマ『風、薫る』では、時にぶつかり、時に認め合う「バディ」としての絆が描かれます。何もない荒野を切り拓いた2人の友情は、現代の私たちに何を語りかけてくれるのでしょうか。
【参考文献】
『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』郷土出版社
『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる:中央公論社
『小説 もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯』伊多波碧:潮出版
この記事は、日本の看護を支えた二人の先駆者への敬意を込めて作成されました。


