2026年度前期放送
NHK連続テレビ小説『風、薫る』
こちらでは、朝ドラ『風、薫る』の登場人物の実在するモデルについてご紹介いたします。
ドラマをより深く楽しむためにお役立ていただけましたら、幸いです。
朝ドラ『風、薫る』実在モデル一覧
朝ドラ『風、薫る』登場人物のモチーフとなった実在モデルの一覧表です。
| 役名 (キャスト) |
実在モデル | 史実 |
| 一ノ瀬りん (見上愛) |
大関和 | 桜井看護学校一期生 看護の基盤を築く |
| 大家直美 (上坂樹里) |
鈴木雅 | 桜井看護学校一期生 看護の基盤を築く |
| 一ノ瀬美津 (水野美紀) |
大関哲 | 大関和の母 娘を支える |
| 一ノ瀬信右衛門 (北村一輝) |
大関弾右衛門 | 大関和の父 黒羽藩家老 |
| 一ノ瀬安 (早坂美海) |
大関釛 | 大関和の妹 姉を支える |
| 一ノ瀬環 (宮島るか・英茉) |
大関心 | 大関和の娘 早逝 |
| 奥田亀吉 (三浦貴大) |
渡辺福之進豊綱 | 大関和の夫 妾と暮らす |
| 奥田貞 (根岸季衣) |
渡辺福之進豊綱の母 | 大関和の姑 嫁いびり |
| 槇村宗一 | 川原健次郎 | 大関釛の夫 |
| 島田健次郎 (佐野晶哉) |
木下尚江 | 新聞記者から弁護士や作家に転じた社会運動家 獄中で大関和に求婚 |
| 寛太 小日向栄介 (藤原季節) |
鈴木良光 | 鈴木雅の夫 |
| 吉江善作 (原田泰造) |
植村正久 | 牧師 和に看護の道を勧める |
| 大山捨松 (多部未華子) |
大山捨松 | 鹿鳴館の華、会津出身 チャリティに参加した和と知り合う |
| 大山巌 (高嶋政宏) |
大山巌 | 大山捨松の夫 薩摩出身 |
| 清水卯三郎 (坂東彌十郎) |
清水卯三郎 | 浅草の書店「瑞穂屋(みずほや)」経営 |
| 勝海舟 (片岡鶴太郎) |
勝海舟 | 和の縁戚・大関増裕の家臣 |
| メアリー (アニャ・フロリス) |
マリア・トゥルー? | 宣教師 |
| バーンズ (エマ・ハワード) |
アグネス・ヴェッチ | 桜井看護学校教師 ナイチンゲールの弟子 |
| 梶原敏子 (伊勢志摩) |
矢嶋楫子 | 桜井看護学校校長 婦人矯風会 |
| 松井エイ (玄理) |
峯尾纓 | 桜井看護学校 英語教師、通訳 |
| 玉田多江 (生田絵梨花) 泉喜代 (菊池亜希子) 東雲ゆき (中井友望) 柳田しのぶ (木越明) 工藤トメ (原嶋凛) |
桜川里以 小池民 池田子尾 広瀬梅 |
桜井看護学校一期生 桜川里以 →帝大医科大学第一医院へ 小池民 池田子尾 広瀬梅 →婦人矯風会で廃娼運動 |
| 多田重太郎? (筒井道隆) 今井益男? (古川雄大) |
佐藤三吉 | 帝大医科大学第一医院 外科の教授兼医局長 |
| 黒川勝治 (平埜生成) |
瀬尾原始 | 帝大医科大学第一医院 →知念堂病院長 大関和の上司 |
| 永田フユ (猫背椿) |
吉村セイ | ベテラン看病婦 器械出しなど看護術を伝授 |
| 三浦ツヤ (東野絢香) |
武藤ミネ | 看護婦を目指す看病婦 |
| 和泉千佳子 (仲間由紀恵) |
三宮八重野 (アリシア・レイノア) |
華族の乳癌患者 三宮義胤の妻 |
| 丸山忠蔵 (若林時英) |
相馬愛蔵 | 「新宿中村屋」創業者 木下尚江の友人 文筆家・相馬黒光の夫 |
| 夕凪 (村上穂乃佳) |
山本キク 勝田信子(花紫) |
「八幡楼」花魁 帝大生と心中未遂 |
一ノ瀬りんモデル|大関和
大関 和(おおぜき ちか)
1858年(安政5年)5月23日〜
1932年(昭和7年)5月22日
明治時代に活躍した近代看護の先駆者であり、日本初のトレインドナース(正規訓練を受けた看護師)の一人。近代日本の看護教育の礎を築いた重要人物です。
特筆すべきは、ドラマチックな人生と、患者に寄り添う献身的な姿勢。
【功績】
看護の知識啓発や感染症対策などに取り組み、看護師を尊い職業として確立させました。その功績から「明治のナイチンゲール」と称され、看護師の地位向上と後進育成に尽力されました。
【波乱万丈な人生(年齢)】
黒羽藩(栃木県大田原市)の家老の娘として生を受ける
→4年で婚家を逃げ出し離縁(22)
当時女性からの離縁の申し入れはご法度でした。
→女中をして家族を養う(23〜26)
→大山捨松と出会い、鹿鳴館の通訳に(26〜28)
→創設されたばかりの桜井看護学校に入寮し、ナイチンゲール式看護を学ぶ(28〜30)
→帝大医科大学病院で働くも、医師との軋轢で辞任に追い込まれる(30〜32)
→新潟高田女学校の舎監兼伝道師に(32〜33)
→帝大医科大学病院の医師に誘われ、新潟知念堂病院に(33〜38)
→東京に戻り、鈴木雅の設立した派出看護団体「東京看護婦会」に(38〜)
→子を亡くし、失恋を経験。静養と執筆活動(42)
→鈴木雅の引退に伴い、東京看護婦会の会長に就任(43〜)
→『実地看護法』出版(50)
→東京看護婦会にキリスト教要素を盛り込んだ大関看護婦会を創設(51〜71)
→東京看護婦学校設立(59)
→聖路加国際病院看護婦学校設立(62)
→脳溢血で倒れる(71)
→息を引き取る(72)
【性格】
女史は人も知る通り性格のきっぱりとした野洲生れで、正しと信じるところにはいささかの躊躇もなく、言うよりも早く実行がある。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)「士族意識から来るものか、終生エリートとしての誇りがあり、威張っているわけではないのですが、気位の高さは一貫してあったと言えます」
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
大家直美モデル|鈴木雅
鈴木 雅(すずき まさ)
1858年2月9日(安政4年12月26日)〜
1940年(昭和15年)6月11日)
【功績】
慈善看護婦会 (東京看護婦会) を設立
看護の社会的地位向上、民間への看護婦派遣(派出看護)を確立されました。
【経歴(年齢)】
→静岡の士族・加藤家の娘として生を受ける
→フェリス・セミナリーで英語などを学ぶ(18〜19)
→鈴木良光と結婚し、京都・東京・仙台へ(19〜23)
→名門の共立女学校で英語などを学ぶ(24〜25)
→夫の死、上京(25)
→共立女学校同窓生・桜井ちかの創設した桜井看護学校でナイチンゲール式看護を学ぶ(28〜30)
→帝大医科大学病院の内科看病婦取締として2年働く(30〜32)
→アメリカ留学の前日、船に乗らず天然痘の看護にあたり渡米を断念。
慈善看護婦会 (東京看護婦会) を設立(33〜43)
→引退(43)
→息を引き取る(82)
鈴木雅さんは、『風、薫る』ヒロイン大家直美の設定とは異なり、静岡県士族・加藤信盛さん・トヨさんの間に産まれた士族の娘です。結婚しても名門校で学び続け、夫と死別後はみつさん、良一さんという2人の子を母トヨさんに預け、桜井看護学校で2年間の寮生活を送ります。
入学式の間、和は楫子の存在感に圧倒されつつ、一方で自分の隣に立つ長身の新入生が気になっていた。漆黒の直毛をあごのあたりで断髪し、前髪は眉毛のあたりで切りそろえられている。女性の断髪は珍しく、独特の雰囲気を漂わせていた。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
看護学校でリーダー的存在だった鈴木雅さんは、卒業後、帝国大学医科大学第一医院の内科「看病婦取締」に就任しますが、大関和さんに続いて退職。アメリカ留学の手筈を整えます。
ところが、乗船前日、港のある横浜で人力車にはねられ、診療所へ運ばれるという人生を左右する出来事が起こります。
人力車に乗っていたのは、外国人居留地で診察診療所を営むアメリカ人医師・ウィリアムブレイズ。横浜では天然痘が流行しており、ウィリアム医師はたくさんの患者を治療していました。
事情を知った鈴木雅さんは、その後2週間におよび着の身着のままで看護と種痘に奔走され、留学を断念したそうです。
33歳で、庶民家庭へ看護婦を派遣する「慈善看護婦会 (東京看護婦会) 」を設立。
一貫して、献身ではなく職業として、看護が奉仕ではなく正当な対価を得る専門職であると世間に認めてもらえるために、身を削り力を尽くしてきた鈴木雅さん。
42歳で看護婦を引退を決意。
療養している和さんに辞表を返して東京看護婦会を任せると、その後は京都の稲荷山に移住し、長い晩年を過ごされました。
一ノ瀬信右衛門モデル|大関弾右衛門増虎
大関弾右衛門増虎(おおぜき だんえもんますとら)
1826年(文政9年)〜1876年(明治9年)
代々200石の家柄で、下野国黒羽藩(現・栃木県大田原市)の国家老。八千代・和・復彦・衛・釛の二男三女をもうけます。
次女・大関和さんは、32歳の時の子どもです。
藩主・大関増裕さんの縁戚だった弾右衛門さんは、藩内で産出される硫黄(火薬の原料)の製造責任者を任されますが
1867年(慶応3年)12月8日「王政復古の大号令」の日、藩主・増裕さんが非業の死を遂げると、家老職を辞しました。
その際、和さんに
「今日より家禄二百石も家も屋敷も返上し、明日からは乞食するかもしれぬが、大関弾右衛門の娘に生まれた不幸と思え。」
と告げたそうです。
商売で失敗を重ね病気がちになるなかで、子どもたちに四書を講じ、「どんな時も学問だけは怠るな」と伝え続けました。
1876年(明治9年)50歳
18歳の和さんの縁談を整えた後、流行り病に倒れ、息を引き取りました。
一ノ瀬美津モデル|大関哲
大関哲(おおぜき てつ)
〜1912年(大正元年)
哲さんは二男三女の母として家庭を支えましたが、長男・復彦さんの家出という、癒えぬ心の傷も抱えていました。
哲さんにとって、子どもたちが嗜む算術は「下級武士が身につける卑しいもの」。娘たちには「布団が縫えねば嫁には行けぬ」と教育します。
1876年(明治9年)、夫・大関弾右衛門さんが亡くなると、和さんを嫁ぎ先へ送り出し、残された衛さん、釛さんを女手一つで育てる覚悟を決め、裁縫塾を開きます。
1880年(明治13年)
和さんが出戻ってきました。
当時、女性から離縁を願い出ることはご法度でしたが、哲さんは孫可愛さにこれを受け入れ、ここから「働く母、家を守る祖母」という二人三脚の生活が始まります。
ですが、大切に育てた孫たちは、自分より先に亡くなってしまいます。
心が亡くなった頃から、ぼんやりとしていることが増えた哲は、数年前、再会を果たしたばかりの長男復彦を亡くしたときは、事情が呑み込めなかったのか、あまり悲しんでいる様子はなかった。しかし、忙しい和に代わり大切に育てた孫の六郎の死に際し、霧が晴れたかのように覚醒し、子供時代の思い出話をしては涙を流し続けた。そしてそのまま寝込み、元号が明治から大正へ変わった一九一二年、六郎のあとを追うかのように息を引き取った。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
哲さんの無償の愛こそが、日本の看護の黎明期を支えていたのかもしれません。
一ノ瀬安モデル|大関釛
大関釛(おおぜきこく)・川原釛(かわはらこく)
1866年(慶応2年)〜
大関和さんの8歳下の妹。
5人兄妹の末っ子として慈しまれた釛さんは、行動派の姉・和さんとは対照的に、物静かで穏やかな性格だったそうです。
18歳で栃木県烏山町の川原健次郎さんと結婚すると、2人の息子を授かります。
そんなある日、姉・和さんから、亡き兄・復彦さんの遺児である増博さんを預かってほしいと頼まれた釛さん。
迷うことなく増博さんを迎え入れ、実の子と分け隔てなく深い慈しみをもって育てました。
43歳で夫が急逝し未亡人に。
46歳頃、次男を東京専門学校(現在の早稲田大学)英文科へ進学させるため上京すると、姉・和さんと支え合う生活が始まります。
一ノ瀬環モデル|大関心
大関心(おおぜき しん)
1880年(明治13年)〜1900年(明治33年)
心さんは大関和さん22歳の時の第二子。
父の顔を知ることなく、兄や叔母・釛さんとともに祖母・哲さんに育てられます。
成長した心さんは、母が学んだ看護学校の母体・桜井女学校の後身である女子学院を卒業すると、看護婦を志し、大山捨松が関わった慈恵看護婦教育所に入学。
実習に入ったばかりの頃、心さんは身体の異変に気づきます。
医師から告げられたのは、「結核」という診断でした。
それからわずか4ヶ月。
これから多くの命を救おうとしていた心さんですが、自身の命を繋ぎ止めることは叶わず、20歳という蕾のような若さで、天へと召されていきました。
奥田亀吉モデル|渡辺福之進豊綱
渡辺福之進豊綱(わたなべ ふくのしんとよつな)
1838年(天保9年)〜1925年(大正14年)
黒羽藩の大地主で、大関和さんの夫。
士族で陸軍少尉として東京、熊本、広島の鎮台を歴任した筋金入りの軍人でしたが、結婚当初は引退していました。
先妻に先立たれ、38歳で名門・大関家の和さんと再婚。
年の差「20歳」という親子ほども離れた結婚でした。
先妻との間に子どもはいませんでしたが、妾とその子どもたちと別宅で暮らし続ける豊綱さん。
和さんはついに実家へ戻り、自ら離縁を突きつけました。
長男・六郎さんの親権を巡り双方火花を散らしますが、豊綱さんにとって六郎さんは「六番目の男児」であったためか、最終的には引き渡すことを承諾します。
その後、時代が激変する中で豊綱さんは生き抜き、87年の天寿を全うされました。
奥田貞モデル|渡辺福之進豊綱の母
『風、薫る』原案『明治のナイチンゲール 大関和物語』の中で、夫の母は、大関和さんの反面教師として描かれています。
嫁入りした和さんに痩せた土地(通称”嫁田”)をあてがい、地主の嫁として米を作るよう言い渡した姑。和さんは一日の作業が終わらないと屋敷に入れてもらえませんでした。
ある日、同居していた舅の若い妾が、突然姿を消してしまいます。
和さんは、姑に女郎屋へ売られたのだと考えます。そして、正妻として大地主のもとに嫁いだ姑もまた、幸せではないのだと気づきます。
これが和さんを離縁へと突き動かし、後に廃娼運動の関わりに影響を与えたかもしれません。
島田健次郎(シマケン)モデル|木下尚江|
木下尚江(きのした なおえ)
1869年10月12日(明治2年9月8日)〜
1937年(昭和12年)11月5日
日本の社会運動家、作家。
大関和さんより11歳年下。
信濃松本藩(現長野県松本市)の下級武士として生を受けた木下尚江さんは、家族とともに啓蒙活動に参加。社会運動家に育ちます。
22歳、新潟県高田町で禁酒運動・廃娼運動に取り組んだ際、単身赴任中の大関和さん(33歳)に会いに行き
さて愛蔵はかねがね親しい木下氏に、当代信頼すべき婦人として女史のことを話し、木下氏もそういう婦人ならば一度会ってみたいものだと言っているうちに、ちょうど用事ができて高田に行き、病院に女史を訪問して、愛蔵の紹介に違わぬ女史の風格に、まず深い第一印象を得たのであった。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
文通が始まります。
弁護士資格をとり、洗礼を受けた木下尚江さんは
28歳、恐喝取材罪で入獄。
面会に駆けつけた大関和さんから、手作りの綿入れ、食べ物や衣類などを10ヶ月間受け取ります。
獄中の氏の感激はやがて思慕の情となり、女史もまた持ちまえの熱烈な同情が昂じて、ついに両者の激しい恋愛、そして出獄の上は結婚という絶頂にまで達した。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
無罪となり出獄が近づいた日、大関和さんに求婚。
出所すると東京看護婦会に会いに行き結婚の意思を確認しますが、そこで出会ったのが若い受付スタッフ和賀操さん。
大関和さんとの共通の知人・相馬愛蔵さんから年の差などを理由に反対され、結婚の申込みを撤回。
31歳、東京看護婦会のスタッフ和賀操さんと結婚。
様々な著書をしたため、キリスト教社会主義運動を展開後、母・くみさんが亡くなると社会主義から距離を起き
1937年(昭和12年)11月5日
胃がんにより亡くなります。69歳でした。
寛太(小日向栄介)モデル?|鈴木良光
鈴木良光(すずき よしみつ)
1849年(嘉永2年)〜1883年(明治16年)12月5日
鈴木雅さんの夫。年の差9歳。
※『小説もうひとりのナイチンゲール鈴木雅の生涯』では「鈴木良文」と表記されています。
19歳で父とともに参戦した鳥羽伏見の戦いでは、最後に五稜郭に立て籠もり説得されて降伏した鈴木良光さん。ただ、父は降伏せず、北方領土方面に逃れて戻ることはありませんでした。
その後、陸軍に入隊し、28歳で西南戦争に従軍。
29歳で鈴木雅さんと結婚し、一男一女を授かりますが、西南戦争中に負った銃創がもとで、赴任地仙台で亡くなります。
34歳でした。
吉江善作モデル|植村正久
植村正久(うえむら まさひさ)
1858年1月15日 (安政4年12月1日) 〜
1925年(大正14年)1月8日
キリスト教の伝道者。牧師。
大関和さん、鈴木雅さんと同い年。
千葉の旗本の家に生まれますが、明治維新で没落し、養子に出されます。横浜で英語を学んだところ宣教師の感化を受け、16歳で受洗。
修文館やブラウン塾、東京一致神学校で学び、
29歳で「一番町教会」を設立し牧師を務めました。
『六合雑誌』『福音新報』を創刊。
46歳で東京神学社(東京神学大学)を創立されました。
配偶者は植村季野さん。
弟の植村正度さんは裕福な農家に養子に出され、英語塾を開き、もう一人の弟・植村甲子次郎さんも養子に出され、後に死刑になっています。
大山捨松モデル|大山捨松
大山捨松(おおやま すてまつ)
1860年3月16日〜1919年2月18日
日本初の女子留学生。
「会津若松の国家老・山川家」の末娘・大山捨松さんは、幼名・さき。
戊辰戦争に負け、下北半島の斗南(青森県)へ移住後、函館へ里子に出され、そこからフランス人家庭、アメリカ人宣教師のもとで育ちます。
11歳で津田梅子さんらと共に岩倉使節団に同行し、10年間にわたるアメリカ官費留学を経験した捨松さんは、看護をはじめとする高度な教養を身につけます。
22歳で日本語を忘れて帰国し苦労するものの、会津藩の宿敵であった大山巌さんに見初められ、後妻として結婚。
鹿鳴館で行われた結婚披露パーティーでは、西洋マナーに戸惑う日本人が多い中、英・仏・独語を完璧に操り、ドレスを優雅に着こなして外交官たちと渡り合いました。
その知性とユーモア溢れる振る舞いから、「鹿鳴館の華」と称えられ、日本の外交に大きく寄与することとなります。
その社交界での影響力を活かし、米国の慈善事業をモデルとした日本初のチャリティー・バザーを鹿鳴館で開催。
その収益で日本初の看護婦養成所を設立したほか、後年、盟友・津田梅子さんの「女子英学塾(現:津田塾大学)」創設も全面的に支援しました。
しかし、近代的な看護知識が、自身をを苦しめることもありました。
結核で離縁された先妻の娘を献身的に看病した際、知識に基づき行った「隔離療養」が、周囲からは「継母によるいじめ」と誤解され、世間から激しい誹謗中傷を浴びてしまったのです。
日本の社会は「出る釘は打たれる」の諺通り、捨松のように人と違った体験をし、優れた能力を持った人間、とりわけ女性に対しては拒絶反応を示しひどく風当たりが強いところである。この『不如帰』騒動で捨松はそのことをいやというほど思い知らされ、晩年になるまで心に深い傷として残った。
(引用『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』久野明子)
1916年(大正5年)12月
夫・大山巌さんが75年の生涯に幕を下ろすと、その2年後
1919年(大正8年)2月18日
60歳で夫のもとへ旅立たれました。
大山巌
清水卯三郎モデル|清水卯三郎
清水 卯三郎(しみず うさぶろう)
1829年4月7日(文政12年3月4日)〜
1910年(明治43年)1月20日
埼玉郡羽生村の酒造業を営む清水家の三男として生を受けた清水卯三郎さん。
国際感覚に優れた人物で、20歳で江戸や横浜ででオランダ語や英語を身につけ、31歳の頃には英語辞典『ゑんぎりしことば』を発行しています。
また28歳で勝海舟さんに出会っています。
幕府の「長崎海軍伝習所」に応募した際、勝海舟さんが指導的な立場にいたのです。この頃からの付き合いが、明治以降もずっと続きました。
1867年(慶応3年)38歳
パリ万国博覧会に日本人商人として唯一の参加・出品を行います。檜造りの茶店を造り、3人の芸者に給仕や芸をさせ、大人気。ナポレオン3世から銀メダルを授与されたそうです。そして、ヨーロッパに日本ブーム(ジャポニスム)を巻き起こしました。
1868年(慶応4年)39歳
浅草に「瑞穂屋」を開店し、洋書の輸入を皮切りに貿易商として活躍。
翌年、店を日本橋に移転して『六合新聞』『歯科全書』などを発行するなど、西洋の政治や医学などの最新図書を普及させ、日本の近代化に尽力されました。
当時、最新の洋書を入手できる場所は限られており、医学知識の普及に熱心だった「瑞穂屋」に、原書を求めて医師や医学生、看護婦や看護生たちが足を運んでいたかもしれません。
蛇足ですが、清水卯三郎さんは、卯年生まれではなく、丑年生まれです。
勝海舟モデル|勝海舟
勝 海舟(かつ かいしゅう)
1823年3月12日(文政6年1月30日)〜
1899年(明治32年)1月19日
【主な功績】
1.幕末、新政府軍と戦わずして江戸城を明け渡す交渉をまとめ、江戸の町が火の海になるのを防ぎました。(無血開城)
2.日本独自の海軍が必要だと考え、坂本龍馬らに航海術を教えたり、今の海上自衛隊のルーツとなる仕組みを作ったりしました。
3. 幕府の役人でありながら、敵方である西郷隆盛らとも信頼関係を築き、スムーズに明治時代へバトンタッチさせました。
清水卯三郎さんとは、単なる知り合いというより、長年にわたって信頼し合っていた「旧知の仲」。
勝海舟さんの日記には、卯三郎さんの名前がたびたび出てきます。
勝海舟さんは、卯三郎さんに洋書の輸入などを依頼しており、実業家としての彼を頼りにしていただけでなく、日常的な交流があったようです。
また、勝海舟さんは、下野国黒羽藩の第10代藩主・大関増裕さんとも深い信頼関係で結ばれていました。
増裕さんは蘭学に精通した名君として知られ、外様の小藩主という身分でありながら、幕府の要職である若年寄りへと異例の抜擢を受けた人物です。
初代陸軍奉行として勝海舟さんとも親しく、「開陽丸」の購入を実現させ、勝海舟さんはその卓越した才能を高く評価していました。
大関和さんは、その大関増裕さんに幼少期から可愛がられていた親戚です。


