こちらのページでは朝ドラ『ばけばけ』レフカダ・ヘブンのモデル・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんの母親・ローザ・アントニウ・カシマチについてご紹介しています。
小泉八雲の母「ローザ・アントニウ・カシマチ」とは
【名前】
ローザ・アントニウ・カシマチ
(Rosa Antonia Cassimati )
1823年〜1882年12月12日
【出身地】
ギリシャ、イオニア諸島キシリ島
【家族】
父:アントニオ・カシマチ
母:カテリーナ・ダルマロス
姉:ディアマンタ
兄:ディミトリオ
夫:チャールズ・ブッシュ・ハーン
長男:ジョージ・ロバート(早世)
次男:パトリック・ラフカディオ(小泉八雲)
三男:ジェームズ・ダニエル
夫:ジョン・カヴァリーニ
四男:アンジェロ
五男:ジョージ
長女:ジーザ
次女:カテリーナ
小泉八雲の母「ローザ・アントニウ・カシマチ」の人生
両親は独立派
ギリシャ、イオニア諸島キシリ島出身のローザ。
当時イオニア諸島の人たちは、イギリスの半植民地状態から独立したいと考えており、ローザの父アントニオ・カシマチは、地元の名士で、リーダー的存在でした。
そんななか、赴任先のイオニア諸島レフカダ島リュカディアで、イギリス陸軍の軍医少佐・チャールズ・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearn )に出会ったローザ。
妊娠が発覚すると、父親に激怒されます。
駆け落ち
2人は駆け落ち同然で次の赴任地であるレフカダ島へ移住し、1つ上の兄・ロバート(ラフカディオが生まれた1ヶ月半後に病死)とラフカディオが誕生します。
この頃、夫チャールズは、アイルランド内陸部のリムリックに滞在しており、長男ロバートの死にも次男ラフカディオ(小泉八雲)の誕生にも立ち会っていません。
アイルランドへ
アイルランド、ダブリンの町並み
ラフカディオが2歳になると、ローザは夫の故郷アイルランドのダブリンへ呼び寄せられます。
義理の弟にあたるリチャードの家族と暮らすことになりましたが、温暖な地中海育ちのローザは、寒く陰鬱な北国アイルランドに馴染めません。
言語、習慣、文化、宗教の違い…ローザはふさぎがちになり、精神を病んでいきます。
そんな時、手を差し伸べたのは、敬虔なカトリック信者だった夫の叔母サラ・ブレナンでした。
サラ・ブレナンは資産家で、宗教的な観点から、ローザとラフカディオを屋敷に置き、面倒をみてくれたのです。
ローザは馬に乗って出かけたり楽しく過ごしています。
ですが、久しぶりに帰国し再会した夫は、恋人を作ってしまいました。
帰国
妊娠したローザは、夫がクリミア戦争に出征すると、出産のためギリシャに帰国し、4歳下の弟・ジェームズを出産。
出産したばかりのローザに、夫チャールズは、突然、結婚の無効(つまり結婚をしていない、独身同士だ)を裁判所に申し立て、ローザはこの申し立てに従います。
再婚の条件
ローザは地元で身分の同等なイタリア系男性ジョン・カヴァリーニと再婚することになりました。
ただ、この結婚には、「前の夫との間に産まれた息子2人を育てない」という条件がついていました。
これによりローザの三男ジェームズは、乳母とともにアイルランドへ返されます。
ローザは、この後、2男2女4人の子どもに恵まれます。
精神病院での晩年
息子たちが忘れられないローザは、ラフカディオとジェームズに会いにはるばるアイルランドまで渡航したことがわかっています。
ですが、ハーン家の人たちがは二度と母子を会わせることはなかったそうです。
このことが、ローザの精神を蝕んでいきます。
ギリシャ正教にすがるローザは、躁鬱病と診断され、
1872年3月25日
49歳で、コルフ島の精神病棟へ入院し
1882年12月12日
59歳で亡くなるまでの10年間を精神病棟で過ごした
と、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)セツ夫妻の子孫の方が記しておられます。
小泉八雲の母「ローザ・アントニウ・カシマチ」への思い
思慕
もし私の Dear Mamma さんが参りましようならば、オ、私何んぼう喜ぶ。心から『よくいらっしゃいました』をするでしょう。
(引用『父小泉八雲』小泉一雄)
母ローザとラフカディオが最後に言葉を交わしたのは、4歳。
二度と会えなくなってしまった母を思慕するラフカディオ。
美人だと伝えられているローザですが、ハーン家には一枚の写真も肖像画も残っていません。
このことをラフカディオ・ハーンは非常に残念がり、画家の叔父リチャードに肖像画を描いてもらっておけばよかったと考えていました。
影響(同情と共感)
最愛の母と離れ離れになったのは父のせい、そして母を追い返したハーン家のせいだという気持ちが、ラフカディオに育ちます。
セツ
「夫に捨てられた妻」という境遇のセツさんに母を重ね合わせていたそうです。