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稲垣巌|小泉八雲・小泉セツの子ども(次男)

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2025年後期朝ドラ『ばけばけ』は多くの怪談話を著した小泉八雲さんと妻の小泉セツさんを主役モデルにした物語が放映されています。

こちらのページでは「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」さんと「小泉セツ」さんの次男「岩垣巖」さんについてご紹介しています。

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稲垣巖とは|小泉八雲・小泉セツの次男

プロフィール

稲垣 巖(いながき いわお)
1897年2月15日〜1937年8月15日
小泉八雲さんの次男。守谷天由子さんの曽祖父。
京都帝国大学卒業
京都府立桃山中学校(現:京都府立桃山高等学校)の英語教師
長身のイケメン。

名前の由来

薩摩出身の陸軍大将・大山巌(西郷隆盛・従道兄弟の従兄弟)と小泉岩苔(曽祖父)から命名。

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稲垣巖|養子縁組(誕生〜4歳)

東京牛込で誕生

1897年2月
小泉八雲さん47歳、小泉セツさん29歳。
神戸から上京して5ヶ月が経った頃、誕生しています。

養子縁組

1901年8月(4歳)
小泉セツさんの養母・稲垣トミさんと養子縁組を結んだ巖さんは、稲垣家の養子になりました。

母の育った稲垣家に跡取りがいなかったため、家の存続が目的です。

巖さんが稲垣家の新たな跡取りとなったことで、
翌9月、跡取りとして稲垣家に籍を残したままだった母セツさんの前夫・前田為二さんが失踪を理由に除籍されています。

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稲垣巖|少年時代(4歳〜8歳)

活発

稲垣姓となった巖さんですが、小泉八雲さん一家とセツさんの養父母が同居していたため、兄弟たちと一緒に育ちました。

巌は明るく元気なユーモアに富んだ性格で、社交性の高い子どもだった。
(引用:『妖怪に焦がれた男 小泉八雲大解剖』小泉凡監修)

一雄の回想に現れる巖は元気潑剌、その健やかさには、父の兄への偏愛を気にする余地を感じさせないものがある。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)

巖さんは幼稚園へ通いながら、兄一雄さんと一緒に家で勉強を教わりますが、泣きながら勉強する兄とは違い、勉強を楽しんでいた様子を、一雄さんが回想しています。

私が授業時間に泣き虫であるのに反して、弟はやたらに笑うので、これにも父は時々閉口させられた様子です。父が大声に発音する異国語なるものを私はむしろ恥ずかしく感じたのに、弟はこれをすこぶる痛快なものに思い、父が大声でいう以上に思い切った大声を出して、その真似をしてはエヘラエヘラ笑うの有様でした。
(引用『父「八雲」を憶ふ』小泉一雄)

「無礼の子です!」と八雲さんから度々叱られ、父に追いかけられ、逃げた拍子にガラス障子を割り、お尻を叩かれたりもしたそうです。
巖さんのやんちゃさは、在宅教育のみの一雄さんと違い、地元の幼稚園に行かせたことが原因だと八雲さんは考えていました。

英単語を忘れると、庭や空を見ながら長考した後、突然大声で発音し、その後に必ず笑う巖さん。父はそんな巌さんを不思議がっていたそうです。

八雲さんの授業は、巖さんが8歳、八雲さんが亡くなるまで続けられました。
エピソードの端々に巖さんが勉強を楽しむ様子が伺えます。

また、泳ぎの得意な八雲さんから手ほどきを受けると、波を怖がることなく飛び込み、指導どおりに背泳ぎができたと兄一雄さんが回想しています。

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稲垣巖|学生時代(8歳〜23歳)

運動神経と性格

成長すると、水泳はもちろん登山も好き、岡山の第六高等学校(現・岡山大学)在学中には野球の選手として活躍されました。

ユーモアがあり、温情にあふれ、人付き合いもよかった巌さん。
弟の清さんにお金を貸す優しい包容力もありました。

美男子

そんな巖さんですが、一番の特徴は、そのイケメンぶり。

さて彼について最も著しい事実は、長身の美男子であったことであり、東京に帰省しても、女たちの心を騒がせ、「素晴らしい方」という声も上がったという(小泉時『ヘルンと私』)。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)

当然、女性に大人気の巖さん。
どれほどだったかは、ひ孫さんにあたる守谷天由子さんのブログにて豊富なお写真が紹介されていておすすめです。

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稲垣巖|大恋愛と結婚(23歳〜35歳)

出会い

6月に第六高等学校を卒業すると、
1920年7月(23歳)
京都帝国大学工学部に進学した巖さん。
理系の頭脳もお持ちだったことがわかります。

1921年(24歳)
帰省中の巖さんは、友人と小泉家を訪れた種市翠たねいちみどりさんと出会います。
翠さんは青森県八戸市の名家のお嬢様で、日本女子大学を卒業して女子美術学校に通っていました。

大恋愛に発展し、この年、巖さんは大学の単位のほとんどを落としています。
これは出席日数が足りないためでした。
東京に帰省したまま、大学のある京都に戻っていなかったのかもしれません。

退学・妊娠・結婚

恋に落ち、単位も落とした巖さんは、
1922年4月(25歳)
京都帝国大学工学部を除籍処分となり、翠さんと結婚されました。

1923年2月(26歳)
翠さんの実家青森で、長女・八重子さんが誕生。
小泉セツさんの初孫です。
八重子さんの名前は、小泉八雲さんと同じ
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠つまごみに 八重垣つくる その八重垣を
という、クシナダヒメを娶ったスサノオノミコトの歌にちなんでつけられます。

再入学・就職

1924年(27歳)
今度は京都帝国大学文学部英文科に入り直し、在学中に八雲さんの講義をまとめたり、翻訳したりもしました。

卒業の一年後
1928年4月(31歳)
京都府立桃山中学校(現・京都府立桃山高等学校)の英語教師に迎えられると、巖さんは、ジェスチャーを交えた楽しい授業で、一躍人気教師になりました。

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稲垣巖|離婚と病気(35歳〜40歳)

不倫

1932年(35歳)
母・セツさんが亡くなった後、巖さんの人生のベクトルは一気に下降していきます。

校長が記す通り、「自ラ天職ニ安ンジ楽シミテ他念ナカリキ」のように見えた。しかし、「桃山中学随一の美男」の歩む先に、美貌故の落とし穴が待ち受けていたのであり、不幸にして道を誤って、さる令嬢との恋ー不毛に終わる恋ーに陥った。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)

この頃「さる令嬢」と不毛な恋に落ち、不倫関係になった巖さん。

離婚

1934年6月(37歳)
妻・翠さんは、長男・明男さんと次女・京子さんを連れて実家に帰ります。

翌7月、11歳になっていた長女・八重子さんも青森へ。

翌8月、隠岐の海で泳いでいる時に、体の異変に気づいた巖さんは
翌9月、睾丸の癌の手術を受けています。

癌を患っていることを知らない友人に「癌の寿命ってどのくらいか」と聞かれた巖さんは、一般論のように「3年くらいじゃないか」と答えています。

婚外子

巖さんのひ孫・守谷天由子さん(京子さんの孫)は婚外子の存在に言及されています。

妻を裏切り、当時のお手伝いさんとの間に外子がいるようです。(おそらく癌で精神的に落ち込んでいたのと、まさか子供が出来るだなんて思ってもみなかったのだと思います。)
(引用:「小泉八雲の好奇心を受け継ぎ世界を2周した末裔のブログ」)

八重子さん、明男さん、京子さん以外の家系図に載らないお子さんや、子孫が存在しているかもしれません。

守谷天由子(あゆこ)
ジュエリーデザイナー
日本語教師
夫はアイルランド人「ラフカディオ・ハーンの庭園」スタッフ。
ハーンさんの足跡を巡る旅をした際、ハーンさんの大叔母の別荘地があったトラモアで出会ったそうです。

3年後
1937年8月15日(40歳)
家族を持たず、アパートに移り住んでいた巖さんは、40年の人生を終えられました。

 

【参考文献】
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社
『妖怪に焦がれた男 小泉八雲大解剖』小泉凡監修:宝島社
『父「八雲」を憶ふ』小泉一雄:警醒社
『父小泉八雲』小泉一雄:小山書店

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