朝ドラ『ばけばけ』41話に島根県知事・江藤安宗(佐野史郎さん)の娘として登場した江藤リヨ。個性的なキャラクターと北香那さんの印象的な演技が視る者を惹きつけます。
江藤安宗は、籠手田安定(こてだやすさだ)さん
江藤リヨは、籠手田淑子(こてだよしこ)さん
がモデルだと考えられます。
こちらのページでは
江藤リヨの実在モデル、
近藤(籠手田)淑子(こてだよしこ)さん
についてご紹介いたします。
江藤リヨモデル|近藤(籠手田)淑子とは

プロフィール
籠手田 淑(こてだよし)/近藤 淑子
1872年(明治5年)1月生まれ
1868年2月生まれの小泉セツさんより4歳年下です。
誕生当時、父・籠手田安定さんは32歳。
当時の”大津県”で大参事(現在の副知事)に就任し
1875年(35歳)には
滋賀県権令(現在の知事)として住民のために施策を実行されています。
家族
父は籠手田安定さん。
滋賀県知事、島根県知事、新潟県知事を歴任し、貴族院議員にも就任したひとかどの人物で、剣術の名手。
亡くなられた翌日には男爵となっています。
淑子さんは、籠手田安定さんの長女。
ご兄弟は
3歳下の妹:籠手田従(じゅう)さん
4歳下の弟:籠手田龍(とおる)さん
生年不明妹:籠手田崇子(たかこ)さん
夫は
近藤範治さん
長崎県出身の士族です。
名前について
もともとは「子」が付かず「淑(よし)」というお名前でした。
これは、『ばけばけ』ヒロイントキのモデル・小泉セツさんが、戸籍上は「セツ」ですが「節子」を好み、名乗っておられたことにも似ています。
もともと「子」が付く名前は、男性への尊称で、平安時代以降に貴族の女性名として使われるようになり、明治時代以降に一般女性にも広まったもの。高貴で上品なイメージとして人気でした。
江藤リヨモデル|近藤(籠手田)淑子と小泉八雲
小泉八雲との出会い(18歳)
籠手田淑子さんは、士族籠手田家のお嬢様。
1885年(13歳)
淑子さんは、父・籠手田安定さんの島根県知事就任に伴い、滋賀から島根に移住します。
1890年(18歳)8月
島根の若者のため外国人の英語教師を招くという父の施策のため、小泉八雲さんが松江にやってきました。
松江中学で英語教師となった小泉八雲さん。
ひと月後
1890年9月27日
籠手田淑子さんは、小泉八雲さんと出会います。
小泉八雲さんが、『ばけばけ』錦織友一のモデル西田千太郎さんとともに籠手田知事の自宅に招かれたのです。
たまたま令嬢が松江婦人会の会長を辞任されるため、慰労の宴席に列し、令嬢の弾琴と舞妓の演技等鑑賞。
ヘルン氏大いに喜べり。
(引用『西田千太郎日記』)
「令嬢」と呼ばれているのが籠手田淑子さんだとされています。
日本の文化が大好きだった小泉八雲さんは、琴の演奏を聴き、踊りを見て感激されたようです。
ウグイスを贈る(19歳)
1891年1月
小泉八雲さんは「気管支カタル(気管支炎)」を患います。
一月十四日の晩以来まる一週間も続いた吹雪の後で、「寒威積雪共に近年稀有なり」と日記に記したほどである。この厳しい寒さはハーンの肺をも冒し、彼は末次本町にある織原万次郎(嘉右衛門)の離れ座敷で、一週間以上も床の中で過ごさざるを得ないことになった。
(引用『八雲の妻小泉セツの生涯』長谷川洋二)
19歳の淑子さんは、伏せっていた小泉八雲さんのもとに、お見舞いの手紙と贈り物を届けます。
それは籠に入ったウグイスでした。
喜ぶ小泉八雲さんは、次のような書簡を西田千太郎さんに送っています。
親愛なる西田様
昨夜籠手田知事の使者が珍しい形の箱に入れて籠手田令嬢からの贈物「鶯」を拙宅へ持参しました。(中略)
それで、昨日は嫌な天気ではあったものの、幸福な日でした。
その日は私の宅へ神聖な鳥と貴君の愉快な郵信をもたらしたのです。して、一切のことに対し、私の感謝と好意を表します。
生き物が大好きだった小泉八雲さんのこと、さぞ嬉しかったのではないかと思います。
なお、西田千太郎さんの手紙によると、この病気の後、1月から2月にかけて小泉八雲さんが住み込み女中を募集し、2月頃セツさんと出会います。
史実では、セツさんよりも前に淑子さんが小泉八雲さんと出会われていたのですね。
セツさんもウグイスのお世話をされたかもしれません。
同年8月に結婚した小泉八雲さんは、11月熊本へ赴任した際、ウグイスを西田千太郎さんへ託しました。
江藤リヨモデル|近藤(籠手田)淑子と日本語学校
「源興学校」創設(27歳)
20代、朝鮮半島の元山(ウォンサン)に移住していた籠手田淑子さんは、現地の人たちに日本語を教えていました。
こちらは明治の教育雑誌『教育実験界』に掲載された記事です。
先きに明治三十二年元山に移住して一の家塾を設け韓人教育を開始したるは近藤淑子といへる人にて当時入学せるもの僅に二三十名に過ぎざりしが女史の熱心と韓語に巧みなるとは大いに韓人父兄の信頼する所となり入学者日に月に増加するの勢なるを以て三十三年五月大いに規模を拡張して源興学校と命名し予科三年正科五年通じて八年の過程となし…
1899年(27歳)
日本語学校「源興学校」を設立。
他の資料(「元山源興学校の設立と変容について ―日本外務省外交史料館所蔵「日本語教授ノ為メ創立セラレタル 元山源興学校ニ補助金下附ノ件」の分析を中心に―Establishment and transformation of Wonheung School in Wonsan」)にも
「1899年9月、近藤範治により設立された源興学校」
と記されています。
校長は、長崎県出身の士族・近藤範治(こんどうのりはる)さん。
淑子さんは、校長補佐と高等科、及び養蚕の指導にあたります。
結婚(29歳)
姉淑(明治五年一月生)は長崎縣士族近藤範治に嫁せり
第19号 籠手田龍姉淑婚姻願ノ件(四月)p.1
(華族諸願録1明治34年)
1901年4月(29歳)
籠手田淑子さんは、
ともに日本語学校を経営されていた近藤範治さんと結婚され、「近藤淑子」となりました。
「源興学校」発展
淑子さんが持ち前のリーダーシップを活かして学校を発展させたことは、大いに評価されています。
源興学校は,このような元山の地に開設された。数ある日語学校の中でも有名な部類に属する学校である。それは、設立者近藤範治が妻淑子と二人三脚で,一時は淑子ひとりで,学校をもりたてたことによるところが大きい。日語学校の運営に女性が携わった例は極めて稀で,他には光州実業学校の奥村五百子がいるくらいのものである。
(引用「源興学校についてー旧韓末「日語学校」の一事例ー」稲葉継雄)
当時,女性の身で学校を設立・運営するのは容易なことではなかった。ただ,夫唱婦随の形で淑子が源興学校の開設に尽力したこと,また,彼女の教育熱心と韓語の巧みさとが源興学校の発展に寄与したことは否定できない。
(引用「源興学校についてー旧韓末「日語学校」の一事例ー」稲葉継雄)
韓国語が堪能で教育熱心だった淑子さん。
現地の方に信頼され、生徒がどんどん増えていったそうです。
「源興学校問題」(32歳)
ところが、
1904年2月(32歳)
日露戦争が勃発し、夫近藤範治さんが出兵すると、事態は一変します。
順調に発展しつつあった源興学校も,1904年2月に勃発した日露戦争によって一大危機に直面することになった。近藤範治の留守を預かっていた妻淑子と大木元山副領事との対立に端を発した「源興学校問題」がそれである。
(引用「源興学校についてー旧韓末「日語学校」の一事例ー」稲葉継雄)
1902年10月、在元山領事館事務代理を通じ、「在元山源興学校補助金禀請ノ件」を日本外務省に提出する。この要請は受け入れられ、1903年1月から毎月30円の補助金 が支給されるようになったが、1904年4月25日、近藤範治がロシア軍の捕虜となり押送される事件が起き、源興学校は 領事および守備隊長の監督下に置かれるようになる。
(引用「元山源興学校の設立と変容について ―日本外務省外交史料館所蔵「日本語教授ノ為メ創立セラレタル 元山源興学校ニ補助金下附ノ件」の分析を中心に―Establishment and transformation of Wonheung School in Wonsan」)
学校への公的補助の最たる名目が「近藤範治さんの日本軍通訳報酬25円」だったことから問題視されるようになったのです。
補助金の学校経営使用が私的流用だとして、事実上学校校長の役目を果たしていた淑子さんは退陣を迫られます。
淑子さんは承諾するしかありません。
淑子さんは学校から退陣し、後任校長が就任しますが、これに怒ったのが韓国人教師や生徒、父兄たち。
新しい校長が就任しましたが、生徒の新規募集に失敗するという経過を受け、この問題は終焉しました。
この一連の流れは「源興学校問題」「源興学校事件」と呼ばれています。
淑子さんが孤軍奮闘し守った「源興学校」は、問題以降、新たな発展を期して移転。
ですが、日露戦争の終結(1905年9月)から半年が経っても、夫範治さんは帰ってきませんでした。
近藤(籠手田)淑子と源興学校のその後
源興学校のその後の変遷については,今のところ明らかにしえない。ちなみに,統監府総務部内事謀が1906年7月に発行した『韓国事情要覧』の「韓国二於ケル日本人教育事業ノ現況二関スル図表」には源輿学校の名はない。恐らくは,この直前に近藤淑子の手を離れ,日本人の教育事業ではなくなったのであろう。
(引用「源興学校についてー旧韓末「日語学校」の一事例ー」稲葉継雄)
近藤(籠手田)淑子さん夫婦の語学力や熱意、教師としての資質、リーダーシップは、隣国における日本語教育に大いに貢献したようです。
ただ、語学力ゆえに捕虜となってしまった夫と、それゆえ取り上げられてしまった学校。
この後の近藤(籠手田)淑子さんについては、記録にたどり着けませんでした。
19歳で小泉八雲さんにウグイスを贈った淑子さんは、20代には海外に渡り、日本語学校を設立して発展させた女性として歴史に刻まれています。

