2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』
第16話「覚悟の比叡山」
あらすじ
をご紹介しています。
お楽しみいただけると幸いです。
※ネタバレ含みます
第 1回 1月 4日 |二匹の猿
第 2回 1月11日 |願いの鐘
第 3回 1月18日 |決戦前夜
第 4回 1月25日 |桶狭間!
第 5回 2月 1日 |嘘から出た実
第 6回 2月15日 |兄弟の絆
第 7回 2月22日|決死の築城作戦
第 8回 3月 1日|墨俣一夜城
第 9回 3月 8日|竹中半兵衛という男
第10回3月15日|信長上洛
第11回 3月22日 |本圀寺の変
第12回 3月29日|小谷城の再会
第13回 4月 5日|疑惑の花嫁
第14回 4月12日|絶体絶命!
第15回 4月19日 |姉川大合戦
第16回 4月26日|覚悟の比叡山
第17回 5月 3日|小谷落城
第18回 5月10日|羽柴兄弟
第19回 5月17日|過去からの刺客
第20回 5月24日 |本物の平蜘蛛
第21回 5月31日 |風雲!竹田城
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第16話 あらすじ

宮部継潤
姉川の戦いを勝利し、悲しげな織田信長(小栗旬)を励ます家臣たち。
またすぐ浅井を攻めるつもりの信長は、横山城と小谷城の間にある「宮部城」城主・宮部継潤(ドンペイ)を調略せよと命じます。
ですが、浅井の家臣・宮部継潤は忠義を重んじる男。
小一郎(仲野太賀)と藤吉郎(池松壮亮)は直談判を試みることに。
かつて比叡山の僧侶だった宮部継潤は、姉川の戦いで命を落とした家来たちの供養をしています。
藤吉郎が直談判を始めると、戦に出なかった朝倉義景への不満を漏らし、藤吉郎の子をくれるなら織田につくと話します。
子を持たない藤吉郎と小一郎。
姉・とも(宮澤エマ)に4歳の万丸を願い出ますが、もちろん激怒されてしまいます。
比叡山延暦寺
織田信長の家臣・森可成(水橋研二)が、宇佐山場で討ち死にしたという一報が入ります。
比叡山延暦寺覚恕と手を組んだ朝倉が城に急襲をしかけたのでした。織田信長は直ちに出陣し、比叡山を取り囲みます。
延暦寺にたてこもった朝倉・浅井軍とは膠着状態のまま、2ヶ月の時が過ぎました。
見かねた将軍・足利義昭(尾上右近)が織田と朝倉・浅井の和睦を呼びかけ成立させました。
これにより、宮部継潤に養子を出す必要はなくなり、兄弟たちはほっと一安心。
ですが、織田信長は和睦などする気はありません。
和睦で救われたのは、朝倉・浅井。

まるで公方様は朝倉・浅井を助けておるようじゃ、のう?十兵衛。
明智光秀を疑う信長。
「お前は織田に深く入り込み、毒となれ、けして見透かされてはならぬ」そう命じられていた光秀は、

公方様に限ってそのようなことはございません。
織田信長は延暦寺に書状を送り、従わない時は女・子どもだろうが皆殺しにしろと明智光秀に命じました。

その時は十兵衛、お前がやれ。
これは見せしめでもある。
我らに歯向かう者は女・子どもとて、一人残らずなで斬りにするのじゃ。
明智光秀が返事に詰まっていると、藤吉郎がとっさに延暦寺攻めの役目を願い出ます。
これは、女・子どもを救うための申し出でした。
2人で延暦寺攻めを行うことになった明智光秀と藤吉郎。
万丸
残った小一郎は姉を説得することに。

わしらはもう百姓ではない。侍なんじゃ。
わしら家族は守られる側ではなく、守る側になったのじゃ。
1人でも多くの者が助かる道を選ばねばなりませぬ。
人質などなくてもみんなが笑って生きられる世をいつか作って見せまする。
わしらはそういう侍にならねばなりませぬ。
延暦寺攻め
女・子どもだけでも救う策を考える藤吉郎ですが、良い案が思い浮かびません。
延暦寺攻め当日、寺の小屋には女と子どもが身を寄せ合い隠れているところを目にした藤吉郎。
女子どもを逃がすという、信長の命に背く決断をくだします。
やがて本堂に火がつけられました。
その中から現れたのは明智光秀。
藤吉郎がふと本堂な中を見ると、そこには無数の女と子ども、僧兵たちの屍が折り重なっていました。
あまりの凄惨な光景に言葉を失う藤吉郎。
明智光秀は炎に照らされながら、燃え尽きる寺をじっと見つめています。
藤吉郎の処遇
明智光秀は褒美として近江の坂本への築城を許されましたが、藤吉郎は切腹を申し付けられます。
そこへ宮部継潤が入ってきて味方になった理由を語ります。
「拙者はかつて比叡山延暦寺に身を置く僧でございました。こたびの叡山攻めで木下殿に命を救われた者の中には、馴染みの者が大勢おりました。この者たちと共に生きてみたいと思うたのです。」

猿!!二度とわしにこんにちのようなことを言わせるな。
義昭の後悔
足利義昭は激怒。
「織田…信長…ああああ!」
光秀を送り込んだことを後悔しています。
万丸を人質に出して3か月。
岐阜城下には、懸命に泣かぬよう耐えている様子を宮部継潤から伝え聞く、ともと弥助の姿がありました。
(1568年〜1595年)
戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継と名乗りました。
その後、三好一族の三好康長の養子となり活躍し、重用されます。
17歳、小牧長久手の戦いで徳川家康に大敗。池田恒興や森長可などを失う失敗をおかします。
23歳、小田原征伐などに参戦。秀吉の天下統一に伴い清洲城主に。
24歳、秀吉と茶々の一子・鶴丸が亡くなると、関白を譲られる。
26歳、秀吉と茶々の二子・秀頼誕生。秀次の娘と秀頼が婚約。
28歳、謀反の罪を着せられ高野山へと出奔し、自害。

