2025年NHK大河ドラマ
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」
ドラマの登場人物の実在モデルについてご紹介しています。
どんな人物が登場するのか、2025年大河ドラマの予習として楽しんでいただけましたら幸いです。
2025年大河「べらぼう」|蔦屋重三郎
1750年(寛延3年)、新吉原(遊郭があった場所:現在の東京都江東区千束)に産声をあげた蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう・演:横浜流星)。
遊郭勤めの父「丸山重助(まるやま・じゅうすけ)」と母「廣瀬津与(ひろせ・つよ)」の間に生まれました。
7歳になると、吉原で引手茶屋(客を遊女のいる店に案内するお茶屋)「蔦屋(つたや)」を営む「喜多川家」の養子となります。
「喜多川珂理(きたがわ・からまる)」が本名で、後に「蔦唐丸(つたのからまる)」の名で狂歌や戯作を執筆します。
1774年(安永3年)、新吉原の版元「鱗形屋孫兵衛」(うろこがたやまごべえ)が独占していた「吉原細見」(よしわらさいけん:遊女の名前を店ごとに記したパンフレット)の版権を譲られ編纂出版すると、その見やすさが大評判となります。(遊女評判記『一目千本』吉原細見『籬の花』)
1783年(天明3年)、丸屋小兵衛の株を買い取り、一流店の建ち並ぶ日本橋通油町に「耕書堂(こうしょどう)」という書店を開いた蔦屋重三郎は、作家や絵師をプロデュース・出版するやいなや、そのすべてが大当たりして富を築き上げます。
しかし、老中が「田沼意次(たぬまおきつぐ)」から「松平定信(まつだいらさだのぶ)」に代わると、庶民には質素倹約を促す「寛政の改革」が施行され、町人文化が厳しく取り締まられ始めました。
1791年(寛政3年)、出版した洒落本が風俗を乱した罪に問われ財産半減となるも、幕府の取り締りと戦い続け、「江戸のメディア王」となっていきます。
1797年(寛政9年)、48歳の時、脚気を患っていた重三郎は息を引き取ります。
面倒見がよく、人の才能を見抜くことに長けていた重三郎は、写楽の全作品の刊行を手掛けたり、曲亭馬琴、十返舎一九など歴史に残る文化人たちの面倒をみており、江戸の文化に多大な貢献をした人物です。
北尾重政 『一目千本花すまひ』 吉原細見 安永3年(1774年)
鳥居清長 「雪月花東風流」 中判 錦絵揃物 天明末ころ
喜多川歌麿 『身貌大通神略縁起』 黄表紙 志水燕十作 天明1年(1781年)
喜多川歌麿 『画本虫撰』 絵入狂歌本 天明8年(1788年)
喜多川歌麿 「婦女人相十品」 大判 錦絵揃物 寛政3年‐寛政4年頃
北尾政演 『錦之裏』 洒落本 山東京伝作 寛政3年(1791年)
喜多川歌麿 「歌撰恋之部」 大判 錦絵揃物 寛政5年頃
栄松斎長喜 「四季美人」 大判 錦絵揃物 寛政中期
東洲斎写楽の版画全作品 寛政6年5月 – 寛政7年1月
北尾重政、葛飾北斎、鳥文斎栄之ほか 『男踏歌』 絵入狂歌本 寛政10年(1798年)
渓斎英泉 「新吉原八景」 大判8枚揃 錦絵 文政初期
歌川広重 「諸国六玉河」 横大判6枚揃 錦絵 天保6年(1835年)‐天保7年(1836年)
歌川広重 「膝栗毛道中雀」 横大判 錦絵揃物
2代歌川国輝 「東京築地ホテル館」 大判3枚続 錦絵
2025年大河「べらぼう」|誰袖
吉原の新興勢力「大文字屋」の禿(かむろ=遊女になる前の子供の見習い)から遊女となった誰袖(たがそで 演:福原遥)。
当代一の花魁となった誰袖は、老中・田沼意次の“懐刀”ともいえる勘定組頭を務める幕臣・土山宗次郎に祝儀を含めて1200両(現在の貨幣価値でおよそ1億2000万円)という莫大な金額で身請けされ、江戸中にその名を広めることとなります。
ですが、その身請け金の出所が問題となり…。
山東京伝作『奇事中洲話(きじもなかずわ=雉も鳴かずば撃たれまい)』という黄表紙などで、誰袖をモデルにした空想物語がつづられています。
“女流狂歌人”としても有名だった誰袖。
1783年(天明3年)に出された『万載狂歌集』にも遊女たが袖 としてその歌が選出されています。
わすれんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき(恋12-489)
(忘れたいのに、あの人からいただいた紙入れを見るとますます人恋しい)
本歌:多摩川にさらす手作りさらさらに 何ぞこの児のここだ悲しき(万葉集・東歌)
この歌は、大河ドラマでは主人公・蔦屋重三郎を想って詠む展開となりそうです。
2025年大河「べらぼう」|土山宗次郎
1740年(元文5年)、土山宗次郎は、父・土山孝祖と母・「土山照苗の娘」のもとに生まれます。
田沼意次が老中となって田沼時代が始まると、
1776年(安永5年)に勘定組頭に登用された”懐刀”土山宗次郎。
1783年(天明3年)にロシア政策の必要性を提言したり、
1784年(天明4年)に蝦夷の調査をさせたりと田沼意次に大きな影響を与えたブレーンでした。
その一方で、吉原・大文字屋の遊女・誰が袖を祝儀などを含め1200両(現在の貨幣価値でおよそ1億2000万円)を払い身請けしたことで派手な生活ぶりが評判となります。
援助していたナンバーワン狂歌師・大田南畝(おおたなんぽ)から、
「我恋は天水桶の水なれや。屋根よりたかきうき名にぞ立つ」
と詠まれるほどでした。(いわゆるタニマチであった土山宗次郎のことを詠んだのか、吉原松葉屋の三穂崎を身請けした大田南畝自身のことを詠んだのか)
1786年(天明6年)8月、十代将軍・徳川家治が死去。
すると松平定信ら反田沼派が台頭し、田沼意次は失脚。
土山宗次郎の運命が転落していきます。
500両を横領したとする「米不正買米事件」が発覚し、逃亡した土山宗次郎。
最後には匿われた山口観音で発見され
1787年(天明7年)12月5日、48歳で斬首に処され、御家断絶という処分をうけました。
2025年大河「べらぼう」花の井モデル「五代目瀬川」
蔦屋重三郎の幼馴染として描かれる花の井(演:小芝風花)は、新吉原江戸町の老舗妓楼「松葉屋半右衛門」の伝説の遊女「五代目瀬川」をモデルとして描かれます。
五代目瀬川が誕生したのは、田沼時代の最盛期。
絢爛豪華に着飾った遊女たちが、もてはやされていた時代です。
1775年(安永4年)秋、長らく途絶えていた伝説の遊女の名跡「瀬川」を継ぐとまたたくまに〝名妓〟として知られ、
同年暮れには、盲人の高利貸しトップ・鳥山検校(とりやまけんぎょう)に1400両(現在の貨幣価値でおよそ1億4000万円)で身請けされました。
遊女が吉原から抜け出す方法は、「①身請けされる」「②年季が明ける」のどちらかしかありません。
お金のために吉原に売られ、お金のために高利貸しに売られた五代目瀬川の悲運な人生は、戯作などで語り継がれています。
あらすじは、亡夫・幸次郎によく似た五郷と恋仲になるものの、周囲の邪魔にあって果たせず、ついには男児を残して死ぬというもの。
美しく哀しいヒロインとして今なお語り継がれています。
出典:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
1778年(安永7年)落籍後の瀬川をモデルに悲劇のヒロインとして描く、田にし金魚(たにしきんぎょ)の洒落本『契情買虎之巻(けいせいかいとらのまき)』が刊行。
1856年(安政3年)4月、江戸中村座での歌舞伎『一曲奏子宝曾我(ひとかなでこだからそが)』が上演。
(歌舞伎のタイトルに「子宝」とあるのは出産したと伝わっているから。また「曾我」は仇討ち噺という意味ですが、夫の仇討ちを遂げた2代目瀬川の伝説が混ざっていると考えられています)
事実譚・瀬川鳥山噺や脚色が加わった後日譚・瀬川五京噺などが生まれ、フィクションを交えて現在に伝えられています。
2025年大河「べらぼう」鳥山検校
鳥山検校(とりやまけんぎょう・演:市原隼人)は、悪徳高利貸しグループのトップで、五代目瀬川の身請けをしたことで一躍有名になった人物です。
もともとは平安・鎌倉時代に置かれた荘官荘園などの監督役職。
室町時代からは「当道(とうどう)」という盲官(盲人組織)における最高の位階となり、平家琵琶、地歌・箏曲の演奏家が当道に属し、江戸幕府による保護政策もありましたが、明治時代以降は廃止されています。
検校には、官位を取得するための収入を得やすくするため、幕府により高利の金貸しが認められていました。(「座頭金」または「官金」)
特に幕臣の中でも収入の低い御家人や小身の旗本らに金を貸し付けて暴利を得ていた検校の一人、鳥山検校は1500両という多額の蓄財をなし、吉原での豪遊で世間を驚かせていました。
庭喜多村信節『過眼録』に拠れば、
「鳥山検校瀬川」を仕くむ、此狂言中檢校處刑ゆゑ、別て大入
此鳥山わきて名高く聞へしは、遊女を身請せし事にて、噂高かりし也
とあり、世間から注目を浴びていた人物ということがわかります。
1775年(安永4年)、女衒が娘を買う相場が5両~10両、見世に売る相場が30両~50両の時代に、鳥山検校は1400両(現在の貨幣価値でおよそ1億4000万円)で落籍させました。
そして五代目瀬川を身請けした3年後の
1778年(安永7年)、鳥山検校は悪徳高利貸しとして全財産没収のうえ江戸払いの処分を受けています。
安永七年、高利の金子を借したる者共、多く御咎めありし、其起りは、御旗下の士、筋わろき金子を借用し、出奔したりしよりの事と云う
全財産を失い、江戸を追われた鳥山検校。
その人生がどのようにドラマに描かれるのか、注目です。
2025年大河「べらぼう」田沼意次
田沼意次(たぬまおきつぐ)は、常識にとらわれない政策を次々に打ち出した、たいへん優秀な老中でした。
16歳のとき、次期江戸幕府将軍「徳川家重(とくがわいえしげ)」の身の回りの世話係「小姓」として仕えます。
江戸幕府9代将軍となった家重はその才能を見出し、田沼意次を一万石の大名に取り立て、跡継ぎ・10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)にも「田沼を重用せよ」と遺言を残します。
家治に重用され破竹の勢いで昇進し老中となった田沼意次は、広い視野で物事を考えた大胆な政策を次々と打ち出し、幕政改革を行いました。
この頃を「田沼時代」と呼びます。
農民から重い年貢を取り立てるのではなく商売人から税金を取るようになったり、ロシアとの通商交渉を開始したり、金貨中心の東日本と銀貨中心の西日本の両方で使える貨幣を作り流通させたり。
ところが、大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる「田沼時代」の政策は、「幕府の利益や都合を優先させる政策だ」として諸大名や庶民の反発を浴びます。(ライバル「松平定信(まつだいらさだのぶ)」からの中傷やデマを流されたという説あり)
また、大噴火などの天変地異が頻発し大凶作・大飢饉の責任を問われピンチに陥ります。
1784年(天明4年)跡継ぎである息子「田沼意知(たぬまおきとも)」が刺殺され、1786年(天明6年)支援者の徳川家治も死去。
小姓から老中にまで上り詰めた田沼意次も、息子と後ろ盾を失い、失脚の時がきます。
家治の死から2日後には老中を辞任させられ、その後、財産も没収、屋敷の明け渡しも命じられるという苛烈な晩年を強いられます。
2年後の1788年(天明8年)7月24日(8月25日)、田沼意次は江戸で息を引き取りました。
70歳でした。
・諸経費削減(大奥の縮小、将軍経費削減、幕府経費削減など)
・御手伝普請(幕府負担軽減のため大名に工事を命じた)
・倹約令の発布(
・拝借金の停止(大名や旗本への無利子融資を止めた)
・上知令(利益の出ている藩に上地を命じ、幕府の土地とした)
・株仲間の推奨(商人や職人の組合を作り税金を納めて「株=商売の権利」を得るシステム)
・長崎会所の健全化(輸出を増やし貿易赤字を減らした)
・通貨政策(新貨の鋳造を行い通貨発行利益をえた)
・蝦夷地開発(蝦夷地の金銀銅山を開発し、ロシア交易を図った)
・御用金令(大坂の豪商に金を出させ大名に融資させようとした)
・貸金会所(”国債”の発行)
2025年大河「べらぼう」田沼意知
田沼意次の嫡男・田沼意知(たぬまおきとも)。
1749年(寛延2年)、田沼意次と後妻「黒沢定紀の娘」(くろさわさだのりのむすめ)の間に生を受けました。
1767年(明和4年)、19歳で従五位下・大和守に叙任し、
1783年(天明3年)暮れには世子の身分のまま異例の出世を遂げ、若年寄となり「田沼政治」を支えました。
ですが翌1784年(天明4年)、36歳の時に江戸城内で佐野政言に肩などを斬りつけられ、刃に塗られていたトリカブトの毒をお匙が見抜けず、治療の遅れが原因で8日後に亡くなります。
暗殺は父・意次と別居するための新たな屋敷を構えた直後のことでした。
オランダ商館長イサーク・ティチングは
「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」
「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」
と書き残しています。
2025年大河「べらぼう」喜多川歌麿
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は1753年(宝暦3年)に生まれたとされています。幼名を北川市太郎(のちに勇助と改名)といいました。
狩野派の絵師「鳥山石燕(とりやませきえん)」のもとで絵の修業を始め、役者絵などを手掛けます。
蔦屋重三郎との初めての仕事は、蔦屋を版元とする黄表紙「身貌大通神略縁起(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)」の挿絵。その後二人でタッグを組み、大ヒットを連発します。
幕府の取り締まりが次第に厳しさを増すなか、喜多川歌麿と蔦屋重三郎は「歌まくら」と言う春画を出版します。弾圧はますます厳しいものとなり、ついに蔦屋重三郎が財産の半分を没収されると、歌麿は栃木に移り住んで活動を続けます。
大首絵を採用した美人画「美人大首絵」、これが歌麿の代名詞となっていきます。
豊かな女性の表情を捉えた画風により、寛政期、鳥居清長と並ぶ美人画の第一人者となり「喜多川派の祖」といわれています。
また、豊臣秀吉の生涯を描いた歴史画「絵本太閤記」はたちまちベストセラーになるものの幕府は「徳川家を揶揄するもの」と、これを発禁に。
歌麿にも手鎖50日の処罰が下されてしまいます。
それ以降は心身ともに陰りを見せた歌麿。
2年後の1806年(文化3年)に生涯を閉じますが、晩年、回復の見込みがないと感じた版元たちからの依頼が殺到したと伝えられています。
『婦女人相十品』 大判 揃物 寛政3年‐寛政4年頃
『婦人相学十躰』 大判 揃物 寛政3年‐寛政4年頃
『歌撰恋之部』 大判5枚揃 寛政5年頃
『娘日時計』 大判5枚揃 寛政6年頃
『北国五色墨』 大判5枚揃 寛政7年頃
『青楼十二時』 大判12枚揃 寛政中期
『教訓親の目鑑』大判10枚揃 享和1年‐享和2年
「針仕事」 大判3枚続 寛政7年頃
「風流七小町」
「当時全盛美人揃 越前屋内唐土」 大判 東京国立博物館所蔵
「当時全盛美人揃 玉屋内しつか」 大判
「相合傘」大判 東京国立博物館所蔵
「歌枕」
「針仕事」 大判3枚続の左 城西大学水田美術館所蔵
「山東京伝遊宴」 大判 錦絵3枚続 城西大学水田美術館所蔵
「音曲比翼の番組」 小むら咲権六 間判 城西大学水田美術館所蔵
「橋下の釣」 長判 城西大学水田美術館所蔵
「北国五色墨 切の娘」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
「高島おひさ」 大判 大英博物館所蔵
「高島おひさ」 細判 ホノルル美術館所蔵 寛政5年頃 両面摺(一枚の紙の表面におひさの正面、裏面に後ろ姿を摺分けている。)
「歌撰恋之部 稀二逢恋」 大判 大英博物館所蔵
「見立忠臣蔵十一だんめ」 大判2枚続 東京国立博物館所蔵 寛政6年‐寛政7年頃 画中に歌麿自身が描かれている。
「青楼十二時 丑の刻」 大判 寛政6年頃 ブリュッセル王立美術歴史博物館所蔵
「婦人相学十躰 浮気之相[9] 大判 寛政4年‐寛政5年頃 東京国立博物館所蔵
「婦人相学十躰 ぽっぴんを吹く娘」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 ホノルル美術館所蔵
「歌撰恋之部 物思恋」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 ギメ美術館所蔵
「当時三美人」 大判 寛政5年頃 ボストン美術館所蔵
「婦人泊り客之図」 大判3枚続 寛政6年‐寛政7年頃 慶応義塾所蔵
「化物の夢」 大判 寛政12年頃 フィッツウィリアム美術館所蔵
「当世踊子揃 三番叟」 大判 バウアー財団東洋美術館所蔵
「姿見七人化粧 鬢直し 」 大判 東京国立博物館所蔵
「遊君出そめ初衣裳」 大判 文化初期 総州屋与兵衛版
2025年大河「べらぼう」鱗形屋孫兵衛
姓は山野。号は鶴鱗(林)堂。
鱗形屋 孫兵衛は、噺本・仮名草子・菱川師宣の絵本・浄瑠璃本などを手がけた有力な地本問屋「鱗形屋」の三代目です(初代・加兵衛、二代目・三左衛門とも、孫兵衛がもともと三左衛門だったとも言われています)
1721年(享保6年)、書物問屋仲間が結成され江戸の有力書肆(書店)となりました。
寛延年間(1748年〜1751年)にはもとも万屋清兵衛が扱っていた八文字屋本など上方浮世草子を独占して出版するようになり、黒本・赤本・吉原細見、さらには正月の宝船の版画も手がけています。
もともと引手茶屋の養子だった蔦屋重三郎は、遊郭に顔が利く利点を活かして、鱗形屋の吉原細見を作るスタッフとして働いていました。
1775年(安永4年)、恋川春町「金々先生栄花夢」を刊行して黄表紙の出版を主導し、江戸文学に多くな貢献をするものの、
上方の版元が制作した本を無断で江戸風に作り変えて出版したとして、年が明けるまで吉原細見の出版禁止を命じられます。
その間、蔦屋重三郎は自分自身で吉原細見を出版してみます。
大型で見やすくわかりやすいと好評となった蔦重の吉原細見。
これをきっかけに「一書店」から「出版社」になった蔦屋重三郎。
1776年(安永5年)、鱗形屋孫兵衛は吉原細見を再開させましたが、市場はすでに蔦重のものとなっており、急速に没落していきました。
鳥居清倍 『市村竹之丞のかなや金五郎と沢村宗十郎のしまだのかんざえもん』 細判2枚続 漆絵 元文2年5月市村座『今ハ昔俤曽我』に取材
2代目鳥居清倍 『坂田半五郎のれんしやうぜうと三条勘太良のそがの十良』 細判 漆絵 元文3年正月中村座『宝曽我女護の島台』に取材
鳥居清忠 『浮絵劇場図』 横大々判 紅絵 元文
石川豊信 『桜樹に短冊を結ぶ女』 長大判 丹絵 寛保延享ころ
石川豊信 『花下美人』 大々判 丹絵 寛延
石川豊信 『初世瀬川菊之丞文読み立姿』 巾広柱絵 紅絵 シカゴ美術館所蔵
鳥居清満 『市村亀蔵の五郎』 細判 紅摺絵 宝暦9年5月市村座『分身鏃五郎』に取材
鳥居清広 『中村富十郎の中橋おまん』 細判 紅摺絵 日本浮世絵博物館所蔵 宝暦3年
北尾重政 『二代目市川団十郎の畑六郎左衛門』 細判 紅摺絵 明和4年 日本浮世絵博物館所蔵
歌川豊春 『琴棋書画』 大倍判 錦絵揃物 安永初期ころ