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【ネタバレ】2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』第47話あらすじ

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2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』の第47話

「哀しくとも」

のあらすじ

をご紹介しています。

順次あらすじを公開していきますので、お楽しみいただけると幸いです。

 

※ネタバレ含みます

 

※各話あらすじ公開中

第 1回 1月  7日 |約束の月
第 2回 1月14日 |めぐりあい
第 3回 1月21日 |謎の男
第 4回 1月28日 |五節の舞姫
第 5回 2月  4日 |告白
第 6回 2月11日 |二人の才女
第 7回 2月18日 |おかしきことこそ
第 8回 2月25日 |招かれざる者
第 9回  3月  3日 |遠くの国
第10回 3月10日|月夜の陰謀

第11回 3月17日 |まどう心
第12回 3月24日 |思いの果て
第13回 3月31日 |進むべき道
第14回 4月  7日 |星落ちてなお
第15回 4月14日 |おごれる者たち
第16回 4月21日 |華の影
第17回 4月28日 |うつろい
第18回 5月  5日 |岐路
第19回 5月12日 |放たれた矢
第20回 5月19日 |望みの先に

第21回 5月26日 |旅立ち
第22回 6月  2日 |越前の出会い
第23回 6月  9日 |雪の舞うころ
第24回 6月16日 |忘れえぬ人
第25回 6月23日 |決意
第26回 6月30日 |いけにえの姫
第27回 7月14日 |宿縁の命
第28回 7月21日 |一帝二后
第29回 7月28日 |母として
第30回 8月  4日 |つながる言の葉

第31回 8月18日 |月の下で
第32回 8月25日 |誰がために書く
第33回 9月  1日 |式部誕生
第34回 9月  8日 |目覚め
第35回 9月15日 |中宮の涙
第36回 9月22日 |待ち望まれた日
第37回 9月29日 |波紋
第38回10月 6日|まぶしき闇
第39回10月13日|とだえぬ絆
第40回10月20日|君を置きて

第41回10月27日|揺らぎ
第42回11月  3日|川辺の誓い
第43回11月10日|輝きののちに
第44回11月17日|望月の夜
第45回11月24日|はばたき
第46回12月  1日|刀伊の入寇
第47回12月  8日|哀しくとも
第48回最終話12月15日|物語の先に

 

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大河ドラマ『光る君へ』第47話 あらすじ

朝廷の対応

矢に貫かれた周明(松下洸平)にしがみつき号泣するまひろ(吉高由里子)。
鏑矢を放つ藤原隆家(竜星涼)。

乙丸(矢部太郎)に引っ張られて周明から離れるまひろ。

1019年(寛仁3年)4月17日。
刀伊が壱岐を襲撃したと知りすぐに出した藤原隆家の解文が藤原頼通(渡邊圭祐)のもとに届きました。

ことの重大さに藤原道長(柄本佑)に報告をしようとする藤原行成(渡辺大知)。
頼通はそれを制します。

翌日。
藤原実資(ロバート秋山)は土御門邸を訪問し、壱岐の状況を道長に知らせます。隆家は頼通だけではなく、実資にも手紙を出していたのです。
道長はまひろの身を案じます

生きておれよ‥

陣の定。
海辺の守りを固めるため警固の武者たちを差し向けるよう提案する実資に対し、公卿たちはことの重大さを理解できず取り合いません。

わかりませぬ

わかりませぬ

わかりませぬ

頼通も静観することにします。
実資の瞳に怒りがみなぎります。

4月20日。
隆家から続報が届きません。
実資は公卿と頼通の危機感のなさに怒りを覚えます。

民が!あまた死んでおるのだぞ!
それで平気なのか!

道長が頼通を叱責するものの、費用を気にして動こうとしません。

父上が仰せになることが常に正しいとは限りませぬ

と母・源倫子に愚痴る頼通。

あなたの思うようにおやりなさい

と母・倫子。

九州では

俺も色々あったが、悲しくても苦しくて人生は続いていくゆえ仕方ないな。

周明と一緒に私も死んでおればよかったのです。

周明のことは無理に忘れずとも良いのではないか。
ここで菩提を弔いたければここにずっといても良い。好きにせよ

と隆家とまひろ。まひろは泣き出します。

浜には無数の死体とともに横たわる周明。

4月26日。
ついに隆家の文が届き、実資が道長を訪ねてきます。
敵を対馬の先まで追い払ったという内容に安堵する2人。
道長はまひろの無事を確かめたく

消息を尋ねてほしい者がおるのだが頼めるであろうか

と切り出しますが、名前を聞かれると前言を撤回します。

隆家は朝廷に刀伊撃退の功労者への褒章を願う文を出しますが、これを朝廷は放置。
6月末の陣定でやっとこの件が取り上げられると、褒章を出すべきだとする実資に対し、藤原行成や藤原公任(町田啓太)は不要と反対。
それは朝廷が命じたものではないので朝廷に関わりない私闘にすぎないという理屈です。

これには実資の怒りが爆発。

褒章を与えなければ、この先ことが起きた時、奮戦するものはいなくなるであろう!都であぐらをかいていた我らが命をかけた彼らの働きを軽んじるなどあってはならぬ!

目をそらす一同。
結局、褒章を得たのはひとりだけでした。

土御門邸で事の次第を報告する実資。
去っていく実資と入れ違いに入ってくる公任。

俺の出番ではなかったようだな.

実資殿と通じておったとは ‥。
何にも動じぬ道長が動じたのか。
俺たちにはそんな姿見せぬのに、実資殿には見せるのだな!

隆家の脅威を語る公任に対し、道長は言い放ちます。

国家の一大事にあっては、隆家がどうこう言う前に起きたことの重大性を考えるべきである。
何が起き、どう対処したのか。こたびの公卿らのありようはあまりに緩みきっており、呆れ果てた。

俺たちをそのように見ておったのか。俺たちではなく実資殿を信じて‥!

まあまあまあまあ!

そこに藤原斉信(金田哲)がやって来ます。
足早に土御門邸を去る公任。

何があっても道長の味方だから。

と斉信。

公任の四条宮には藤原行成がやってきます。
公任は後悔しています。

なんであんなことを言ってしまったのかのう。

それは道長様を大切にお思いになるゆえにございましょう。

道長には伝わっておらぬがのう‥。

公任は切なげです。

まひろ、帰京

船越の津で難を逃れたまひろは大宰府の政庁に滞在していました。

双寿丸が訪れ、肥前に行くとまひろに告げます。

肥前で武功を立て続けるぞ。

武功を立てるとは、人を殺めることではないの?

殺さなければ殺される。敵を殺すことで 民を守るのが武者なのだ。
あんたも早く健やかになってくれ。そうでないと周明とて成仏できないぞ。

その頃、土御門邸では、まひろの娘・藤原賢子(南沙良)にまひろのことを尋ねる道長。
その可憐な微笑みに道長もつい頬が緩みます。

賢子は託された『源氏の物語』の続編『宇治の物語』を道長の娘・藤原彰子(見上愛)に渡していました。

大宰府では

私はきぬに会いとうございます!
お方様も一緒でなければ嫌でございます!
帰りたい!私は帰りたい!
きぬに会いたい!
都に帰りたいー!
帰りましょー!

と乙丸。

1020年(寛仁4年)正月。
隆家とともに都へ戻ってきました。

屋敷では家族一同がまひろの無事を喜びます。

賢子は、まひろが書いた物語に感銘を受けたと語ります。

わたし、光るおんな君となって生きようかしら。

人とは何なのだろうかと深く考えさせられました。

母上は私の母上としてはなってはいなかったけれど、あのような物語を書く才をお持ちなのは、途方もなく素晴らしいことだと敬いもいたしました。
誰の人生も幸せを実感できるのは つかの間のこと。
どうせそうならば自分が思うように自由に行きたいと思いまして。

よいではないの。好きにおやりなさい。

まひろは旅から戻った挨拶をしに、土御門邸を訪ねます。

再び女房としてまひろに仕えてほしいと話す彰子。
道長とも顔を合わせ、言葉もないまま見つめ合う2人。時が止まります。

そこに倫子がまひろを呼んでいると女房が知らせに来ました。

一礼し、去っていくまひろ。
目を閉じ息を吐く道長。頬が緩みます。

倫子は長年にわたるまひろとの付き合いをにこやかに振り返っていましたが、唐突にまひろと道長の関係について尋ねてきました。

それで、あなたと殿はいつからなの?
私が気づいていないとでも思っていた?

まひろの笑顔が固まります。

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法成寺址(京都府京都市)

「望月の歌」を詠んだ翌年、出家した藤原道長。晩年は極楽往生を願い、寺の造営に力を注ぎました。

土御門邸の隣に建立した法成寺(ほうじょうじ)。 今は、この辺りにあったことを示す石碑が立つのみです。


〒602-0856 京都府京都市上京区荒神町

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土御門邸(京都府京都市)

出典:一般財団法人国民公園協会ホームページ

右大臣、左大臣の位に就き、3代にわたる天皇のもとに娘を入内させるなど天皇家の外戚として権力を思いのままにふるった藤原道長。

栄華を極めた時に詠んだ

”この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば”

という歌はあまりにも有名です。

この歌が詠まれたのは、寛仁2年(1018年)10月16日。
土御門邸で催された月見の宴でのことでした。

長女彰子は一条天皇の中宮、次女妍子は三条天皇の中宮。そしてこの日は道長の三女威子が後一条天皇の中宮になった日です。
3人の娘を天皇に嫁がせた道長にとって、すべてを手に入れた万感の思いがあったのでしょう。

このあたりは当時いわゆる高級住宅街で、さぞ華やかな宴が開かれていたと思われますが、現在の土御門邸は、現在の京都御苑の界隈に駒札が立っているだけです。

京都御苑の中、仙洞・大宮御所の北側にあり、まひろ(紫式部)の家のあった廬山寺ととても近いことがおわかりいただけるかと思います。


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住所:〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑

 

 

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