2024年度前期NHK連続テレビ小説『虎に翼』で岡田将生さん演じる「星航一」がある機関に所属していたと打ち明けます。
太平洋戦争(第二次世界大戦)前から、旧日本軍には特殊任務を遂行する特殊機関がいくつもあり、反乱作戦・諜報活動などを行っていました。
こちらでは、実在した機関「総力戦研究所」と「東機関」についてご紹介します。
星航一と特殊機関「総力戦研究所」
「総力戦研究所」に所属。
日米戦争を想定した机上演習を行ったところ、日本の敗北を確信し、その結果を報告するも上層部は耳を貸さなかった。
戦争を止められなかった責任を感じずっと後悔に苛まれていた。
星航一は、情報を受け取り、戦略を練り、シミュレーションを重ね、上層部に報告する立場でした。
「総力戦研究所」とは
国家総力戦に関する基本的な調査研究と、“研究生”として選抜された若手エリートたちの総力戦体制に向けた教育と訓練を目的として組織された内閣総理大臣直轄の研究所。
机上演習
第一期生の入所から3か月余りが経過した1941年7月12日。
日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画を発表しました。
演習用の模擬内閣を組織した研究生たちは、研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測しました。
結果は、
「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」というもの。
つまり「日本必敗」の結論です。
これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致し(原子爆弾の登場は想定外)。東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告されました。
それに対し、陸軍大臣・東條英機は次のような主旨の発言をしました。
特殊機関「東機関」とは
「総力戦研究所」では、原爆の投下を予想できなかった(原爆なしでも日本が敗戦するということはわかっていた)のですが、他の機関からも報告があったとされています。
太平洋戦争(第二次世界大戦)前から、旧日本軍には特殊任務を遂行する特殊機関がいくつもあり、反乱作戦・諜報活動などを行っていたのです。
その中でも諜報活動を行っていた「東機関」は
1982年9月20日のNHK特集
「私は日本のスパイだった〜秘密諜報員ベラスコ〜」
が放映され、広く知られるようになりました。
太平洋戦争(第二次世界大戦)時、大日本帝国外務省がアメリカの戦争遂行能力や軍事作戦、国内世論等、機密情報の収集を目的にスペインで創設した国際スパイ組織。
アメリカに潜入し、多くの機密情報を日本に送り続けました。
『東』は「情報を盗みとる」の『盗』に由来するとも言われています。
「東機関」創設
1941年12月8日
マレー作戦に続く真珠湾攻撃を仕掛けると、アメリカやカナダは日本の在外公館を次々と閉鎖させます。
情報収集に著しい支障をきたした外務省は、親枢軸的な中立国スペインを拠点にアメリカの情報を収集することを企てました。
開戦の約半年後には、ワシントンD.C.・ニューヨーク・ニューオリンズ・ロサンゼルス・サンフランシスコ・サンディエゴといったアメリカの主要都市にスパイ網を構築します。
情報は、アメリカ国内⇨メキシコ⇨スペイン(マドリードの公使館)⇨東京、ベルリン、ローマへと暗号で打電されました。
「東機関」メンバー
三浦文夫一等書記官
アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコほか数十名
末端の諜報員までを含めると数倍になるといわれています。
「東機関」諜報員ベラスコとは
(Ángel Alcázar de Velasco、1909年 – 2001年)
スペインのジャーナリスト。有名なスパイ。
第二次世界大戦下において、ナチス・ドイツや大日本帝国のスパイとして活動。
東機関のリーダー。
ユダヤ系スペイン人。
反ユダヤ主義者
1909年にスペインの貧しい農家に生まれたベラスコは、12歳でマドリードやトレドで闘牛士見習いとして働き始め、20歳頃にはマドリードでも著名な闘牛士となっていました。
1932年(23歳)
サラマンカ大学卒業後は「ラ・ナシオン」紙の記者になります。
筋金入りの反ユダヤ主義者だったベラスコは、ドイツで秘密諜報員としての教育を受け、スペインに帰国すると暗殺未遂などで何度も投獄と脱獄を繰り返しました。
1940年
内務大臣と懇意にしていたことから、マドリードにある政治学研究所の報道担当官になり、その後、イギリスに渡り諜報活動に従事します。
ただ、イギリスのスペイン大使館では、情報セキュリティ対策を講じていなかったため、スパイ行為の大部分はMI5によって傍受されます。
東機関のリーダーへ
1941年12月
真珠湾攻撃に伴い太平洋戦争が勃発すると、開戦から数日後、ナチス軍トップ(ヒトラーの補佐)のカナリスが連合国側の情報を切望する日本に
「アメリカにおける日本側のスパイ網構築には、ベラスコが適任である」
と推薦し、ベラスコはスペインへ帰国します。
ベラスコは日本公使館の須磨弥吉郎公使と三浦文夫一等書記官らとの接触し、
1942年初頭から「東機関」における諜報活動が始まります。
「東機関」情報収集
ベラスコたち「東機関」は、どのように、どんな情報を入手していたのでしょうか?
そして最終的にどのような結末が待っていたのでしょうか?
情報収集内容
ベラスコの部下たちは
・南太平洋における米軍による反攻作戦
・山本五十六機の撃墜計画
・原子爆弾に関する情報(マンハッタン計画)
といった重大な情報を、時には教会の神父に変装して、出征する海兵隊の兵士による懺悔から引き出すなどして、収集しました。
ベラスコは、それらを三浦文夫一等書記官へ伝達し、東京へ打電させるのですが、それらの情報は、ほとんどが戦略に活かされることはありませんでした。
原爆開発計画(マンハッタン計画)
ベラスコたちが原爆についても日本に何度も警告を発していたことが、アメリカの解読文書やベラスコ本人の証言からわかっています。
当時機密中の機密であった原子爆弾に関する情報について、広島、長崎に投下される3年以上前の段階で、
「化学研究所での爆発の際、広範に1000度以上の高温を発する新型爆弾を開発した」
と日本へ報告したにもかかわらず、黙殺された
外務省も大本営も、もたらされた情報を信憑性の低い情報として全く活用しなかったのです。
その後、アメリカは暗号解読によってスペイン・マドリードからの情報を把握し、実態を把握された「東機関」は1944年半ば、壊滅に追い込まれました。
まとめ
戦時中、政府や外務省のもと多くの特殊機関が存在し、勝利のために様々な活動を行っていました。
「総力戦研究所」の机上演習では原爆なしでも日本の敗北が予想されており、
「東機関」の諜報活動では原爆についての報告がありました。
戦後の証言から、いずれも「上層部が取り合わなかった」という共通点があり、日本のの体質について改めて考えさせられます。