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大河ドラマ『光る君へ』紫式部と清少納言のライバル関係の謎

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大河ドラマ『光る君へ』でまひろはついに京都の自宅で『源氏物語』の執筆を始めますが、紫式部は滋賀県石山寺を参拝した際に物語の着想を得たという言い伝えも残ってます。

京都にいるのが耐えられなくなった紫式部が、わざわざ滋賀のお寺にこもって源氏物語を書いたと言われているのです。

せっかく藤原道長にスカウトされて京都にいた紫式部がなぜ滋賀の石山寺にこもったと伝えられているのでしょうか?

その原因は、日本古典三大随筆『枕草子』を書いた清少納言にあると言われています。

こちらでは、紫式部と清少納言のライバル関係の謎について紹介します。

 

 

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紫式部と清少納言の関係

紫式部と清少納言のライバル関係の背景として、当時の帝・一条天皇には2人の妻・藤原定子と藤原彰子の存在があります。

紫式部と清少納言は、それぞれ
紫式部 :彰子の女房
清少納言:定子の女房
でした。
つまり2人は同じ立場。
ただ、少しタイムラグがあります。

清少納言が宮仕えをしていたのはおそらく993年頃から1000年まで。
紫式部が宮仕えをしていたのは2005年から1014年までだと言われています。

ということで 、実際には2人は会ったことがない可能性が高いと思われています。

では、なぜ会ったこともない清少納言が、ライバルだと称され、とかく比較対象となるのでしょうか。

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清少納言の評価と紫式部のプレッシャー

清少納言について
966年(康保3年)頃、「梨壺の五人」のひとりだった著名歌人・清原元輔の娘として生まれた清少納言。
祖父(または曽祖父)の清原深養父(きよはらのふかやぶ)も『古今和歌集』の代表的歌人で、幼い頃から才能豊かな人々に囲まれて育ちました。
981年(天元4年)頃、橘則光と結婚し一男を設けますが、離婚、再婚し娘を設け、
993年(正暦4年)頃、中宮・定子に仕えると、和歌や漢詩の豊かな才能と、社交的で明るい性格が気に入られました。

後宮を引退した清少納言を紫式部が意識していると言われている理由は次のとおりです。

当時、都では「清少納言はすごい」「枕草子は傑作だ」という噂が流れていました。

この噂は、後から入った紫式部に大きなプレッシャーを与えたと言われています。

また、石山寺には清少納言の人気を物語るお宝が残っています。

これは『枕草子』に描かれる清少納言と定子の逸話『香炉峰の雪』

『枕草子』には次の一節があります。

【原文】
雪のいと高う降りたるを例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらうに
「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ。」
と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。
人々
「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この官の人にはさべきなめり。」
と言ふ。
【現代語訳】
雪がたいそう高く降り積もっているのに、いつもと違って御格子をお下げ申し上げて、火鉢に火をおこして、皆で話などをして集まってお仕え申し上げていると、(定子様が)
「清少納言よ。香炉峰の雪はどうであろうか。」
とおっしゃるので、(私は人に)御格子を上げさせ、御簾を高く上げたところ(定子様が)お笑いになります。
(他の)女房も
「そのようなこと(『香炉峰の雪』)は知っておりますし、歌などに詠むことまでありますが、(御簾を上げることまでは)思いつきませんでした。やはり、この中宮のお側につく人にふさわしい人のようです。」
と言っています。

清少納言は漢字の知識だけではなく
「香炉峰の雪は?」
と問われて普通
「御簾をあげます」
と答えるだけのところ、実際に行動に移したところが評価されたのですね。

唐王朝の古い漢詩(白居易)を知らないと即座には動けません。

また、当時、漢字は中国から伝わった外国語であり、宮中では公用語として使われていました。

その漢字を日常の中で機転を利かせて用い、粋な行動をとった清少納言。

清少納言をカリスマにしたエピソードであり、のちに
『香炉峰の雪は簾を撥げて看る』
という言葉は「女性が機知に富んでいることの例え」として使われるようになりました。

 

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紫式部から見た清少納言

そんな清少納言に対して紫式部は意外なこと日記に綴っています。

清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名まな書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。…そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ

「得意そうな顔をして我慢のならない人」
「漢字を得意そうに使っているけれど、間違いだらけ」

清少納言に対する厳しい指摘がたくさんありました。

なぜ紫式部は清少納言に厳しかったのでしょうか。

境遇・キャラクターへの嫉妬

紫式部が主人の藤原彰子に漢文を教えている絵巻が残っています。

この絵巻では、あえて衝立を立てたり、几帳を下げたりして隠れて教えています。

これは、女性が漢字や漢詩をおおっぴらに教えるといじめられてしまうのではないか、漢字の知識を学ぶ女性は嫌われるのではないか、と紫式部が考えていたからだと思われます。

女性が漢字を学ぶのは後ろめたいことだとされていたのです。

そのため、紫式部は自分の得意な漢字を隠れて教える羽目になってしまいました。

溢れる教養を披露して賞賛を浴びてきた陽キャ・清少納言。
それに対し、陰キャ・紫式部は、自分の才能を表に出せない生活を送っていました。

そのことで不満を募らせていたのかもしれないという説があります。

紫式部には、清少納言への嫉妬と憧れ、そして自分の境遇に不満があったというのです。

夫・藤原宣孝に対する記述

また、清少納言の『枕草子』第115段「あはれなるもの」には、紫式部の夫・藤原宣孝に関する記述があります。

990年(正暦元年)、藤原宣孝が御嶽を参詣した際に、質素な服装をするのがマナーなのに、紫、白、山吹色の鮮やかな服を着て、息子の隆光にも紅の服に青の狩衣、乱れ模様を擦り付けた袴を履かせたと清少納言は小馬鹿にしたのです。

派手好きでプレイボーイの宣孝についての記述を紫式部が読んだちょうどその頃、宣孝は疫病で亡くなったばかりでした。

頭にきた紫式部は、清少納言の悪口を日記に書き、不仲が都に広まったと言われています。(清少納言はこの日記をスルーしています。)

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まとめ

紫式部が『源氏物語』を書き始めた時、同じ立場であった清少納言の『枕草子』を意識していたと考えられています。

・紫式部と清少納言には面識がない可能性が高い
・清少納言は自身の『枕草子』でみずからの評価を高めた
・紫式部は『紫式部日記』の中で清少納言を批判している

その背景には、プレッシャーを感じていた面もあり、自分より漢字の知識の少ない清少納言が評価されていることへの不満、夫を馬鹿にした清少納言を超えたいという思いなどがあったと考えられています。

もしかすると『源氏物語』は、清少納言へのライバル意識なくしてはあれほどまでの作品には仕上がっていなかったかもしれませんね。

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