朝ドラ『ばけばけ』で、北川景子さん演じる雨清水タエの実在モデル・小泉チエさんについてご紹介いたします。
『ばけばけ』雨清水タエモデル|小泉チエとは
朝ドラ『ばけばけ』で北川景子さん扮する雨清水タエ(うしみずたえ)は、NHK公式サイトで次のように紹介されています。
松江でも随一の名家に生まれ、大勢の女中たちに囲まれながら何不自由なく育った。凛とした気品と厳しさを兼ね備える。 親戚であるトキにも、礼儀作法やお茶など武家の娘としての教養を厳しく教えている。
(引用:NHK公式サイト)
実際の小泉チエさんはどのような人物だったのでしょうか。
小泉チエプロフィール
小泉チエ
(1838年3月21日〜1912年)
小泉チエさんは、小泉八雲さんの妻である小泉セツさんの実の母。
セツさんの実父・小泉湊さんの妻です。
小泉チエ家族一覧
父 | 塩見増右衛門 | 6代目 家老 |
母 | 不明 | |
兄弟 | 塩見小兵衛 | 7代目 中老 |
兄弟 | 塩見源三郎 | |
兄弟 | 塩見銀之助 | |
兄弟 | 塩見鈴之助 | |
夫 | 小泉湊 | 8代目弥右衛門 番頭 |
長男 | 小泉氏太郎 | 駆け落ち |
長女 | 小泉スエ | 本多家養女 |
次男 | 小泉武松 | 早逝 |
次女 | 小泉セツ | 稲垣家養女 後に復籍 |
三男 | 小泉藤三郎 | 後継 |
四男 | 小泉千代之助 | 岩見家養子 後に復籍 |
『ばけばけ』雨清水タエモデル|小泉チエの生涯
太い実家と恵まれた容姿
小泉チエさんは、代々「江戸家老」塩見増右衛門の長女として生を受けました。
「御家中一番の器量」と褒めそやされた美人であった。また、彼女は十四才で花嫁として小泉家に迎えられるまで、松江城(千鳥城)の三の丸御殿を真向かいにした塩見家の広壮な屋敷で、名家老増右衛門の一人娘として三十人近くの奉公人にかしずかれて生い育った女である。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
小泉家よりも格上(家禄1500)家柄で、美人。
三味線にも長け、草双紙に精通しているという、藩内でも評判の女性でした。
婚礼の夜の悲劇
1850年、小泉チエさん満12歳の頃、
湊さんと結婚する1年ほど前ですが、一度、高位の侍に嫁入りしたことがありました。
武家の花嫁は子どもであればあるほど理想だ、とされていた時代。
盛大に執り行われた婚礼の夜、新郎が一向に寝所に姿を見せません。
この時、新郎は庭で身分違いの女性と無理心中をはかっていたのです。
庭からただならぬ物音を聞いたチエさんは、取り乱すことなく姑の部屋へ向かい、報告したということです。
腰元である女性は首がほぼ完全に落ちており、新郎は腹を一文字に斬った後、首筋も斬り、雪見灯籠に突っ伏していたとのこと。
身分違いの大恋愛の執着は武家にとって非難の的となり、冷静だったチエさんの行動は称賛されたということです。
このエピソードは、チエさんから何度もセツさんらに語られています。
湊さんとの結婚
それからまもなく1851年14歳の秋、
1歳上の小泉湊さんと結婚したチエさん。
次々に子どもを産み、30歳でセツさんを出産すると子どものいない縁戚・稲垣家に養女に出しました。
幾人かの子の母となった後でも、鳥居清長が描く錦絵の美人のような容姿を保った
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
小泉家の悲劇
夫の湊さんが乗り出した繊維工場の経営は苦しく、結局は倒産してしまいます。
一家はかつて家来を住まわせていた門長屋に移り、その後、縁者のもとに身を寄せます。
小泉家は、多くの士族同様に困窮していくのですが、不幸はこれだけにとどまりませんでした。
次男武松さんが19歳の若さで亡くなったかと思えば、当主小泉湊さんがリウマチで倒れます。
さらに、長男氏太郎さんが、倒産をして借金を負った小泉家の後継者という立場を放棄し、町家の娘と駆け落ちをします。
次に後継となったのは三男の藤三郎さんですが、鳥を飼うことしか考えていない頼りない人物でした。
湊さんは、藤三郎さんに激昂し、しばらくして息を引き取りました。
夫の死後
湊さんが亡き後、困窮していきますが、お姫様のように暮らしてきたチエさんには働くことができません。
かつて権勢を誇った実家や親類も同じように困窮しており、救いを求めることもできません。
他の子どもたちも頼りにならず…。
小泉セツさんは、働こうとしない実母や姉、弟たちに複雑な感情を持っていたようです。
物乞いに
ついにチエさんは、物乞いになってしまいます。
セツの実母のチエは、ただ食べるために家に残る品々を次々と売り払った末、極端な貧困に陥った他の士族と同じように、人に食を乞う身となったのである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)
この8月の末、ちょうど外国人教師・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が松江に着きますが、小泉家にとっては関係のないことでした。
後に、セツさんは弁護士の妻に保護を依頼し、月々仕送りをしています。
セツさんと同居していた養母トミさんと同じ1912年
大阪で息を引き取ります。